↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
生贄聖女の私に、誰も逆らえない皇帝陛下が「私を拒んでいい」と跪いた  作者: 他力本願寺


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/50

第15話 生贄は法廷で自分を弁護する

大聖堂の地下深く。窓のない石造りの祭儀法廷は、息が詰まるほどの重圧に満ちていた。


 高い壇上には三人の法官が並び、周囲のすり鉢状の傍聴席には元老会の議員と高位の司祭たちがずらりと顔を揃えている。


「先日の北区における小霧の発生。これこそが、聖女リシェルが奉献を拒み、祭壇を穢したことによる天の怒りの現れであります!」


 静寂を破り、検察側に立つゼノン典礼長が熱弁を振るっていた。


「百日の猶予などという前代未聞の約定は、今すぐ破棄されるべきだ! 我が誓約教会は、国家の安寧のため、直ちに奉献の儀式を『第六十日』へと前倒しすることを強く要求する!」


 傍聴席から、賛同のざわめきが波のように広がる。


 彼らは恐怖しているのだ。十年前に二百人の死者を出した霧災害の記憶が、民衆と貴族たちの冷静な判断力を奪っている。


 リシェルは、法廷の中央にぽつんと置かれた証言台の前に立っていた。


 彼女の弁護人はいない。自らの命の期限を決めるこの裁判で、他人に運命を預けるつもりはなかった。


「……反論を許可する。聖女リシェルよ」


 中央の法官が促すと、リシェルは姿勢を正し、持参した分厚い書類の束を証言台に置いた。


「典礼長は『天の怒り』と仰いましたが、それは事実ではありません」


 凛とした声が、石の法廷に響き渡る。


「ここに、私の故郷であるロウ村で百八十年前から記録され続けてきた、死湖の気象と霧の発生データがあります。これによれば、霧の発生は地熱と風向きに周期的な変化を示しています。奉献の直後にも霧が発生した年があり、延期が小霧を呼んだという主張は、この記録では裏づけられません」


 リシェルは書類を法官たちに提出しながら、よどみなく言葉を続けた。


「先日の北区の小霧も、過去の小霧に先立って観測された風向きと気圧の変化を伴っていました。そして何より、先日の小霧において、帝都は一人の死者も出しませんでした。これは『命令なしの避難網』が機能した証明であり、私が生贄にならなくても、帝都の民は自らの力で生き残れるという何よりの証拠です!」


 ゼノンの顔が屈辱に歪んだ。


「たかが辺境の村の記録など! 神の意志を数字で測ろうなどと、それこそが傲慢な異端の思考だ!」


「傲慢なのは、自然の脅威を神の意志にすり替え、何の罪もない命を理不尽に奪い続けてきたあなた方の方です!」


 リシェルの鋭い反撃に、法廷がどよめく。


 その激しい舌戦の中。


 最前列の傍聴席の中央に、皇帝レオンハルトは座っていた。


 彼は配布された記録を開き、法官が示すページへ黙って目を落としていた。皇帝席にいることだけでも、圧力になり得る。異論があれば記録するよう、開廷前に立会人へ依頼してある。


 法官がリシェルの観測日の誤記を指摘した時も、彼は口を挟まなかった。


 リシェルは原簿を確かめ、訂正し、続きを話した。


 数時間の激しい議論の後、法官たちが合議を終え、重々しい声で判決を下した。


「……教会側の提出した『天の怒り』という主張には、客観的な根拠が乏しい。よって、奉献の儀式を直ちに第六十日へ前倒しする申立てについては、これを棄却する」


 リシェルは、ほっと短く息を吐いた。


 だが、法官の言葉はそれで終わりではなかった。


「ただし」


 法官がゼノンの方へ視線を向ける。


「帝都の民の不安を鑑み、第六十日を迎えた時点で、再び深刻な霧の兆候が見られた場合。教会側に限り、奉献の再審を請求する権利を認めるものとする。……閉廷!」


 木槌が打ち鳴らされる。


 ゼノンは忌々しげに舌打ちをしながらも、薄暗い笑みを浮かべて法廷を後にした。


(再審請求権……)


 リシェルは唇を噛んだ。完全な勝利ではなかった。前倒しそのものは防いだが、第六十日に再び彼らが難癖をつけてくる「時限爆弾」を残してしまったのだ。


*


 法廷に隣接する控室。


 扉が閉まり、二人きりになった瞬間、リシェルは重い長椅子に倒れ込むように座り込んだ。


 全身の力が抜け、それと同時に、論破しきれなかった悔しさがじわじわと胸に込み上げてくる。


「……私の力が、足りませんでした」


 リシェルは膝の上で両手をきつく組み合わせ、ギリッと唇を噛んだ。


「あの場で過去の奉献の矛盾を完全に突き崩せていれば、再審の余地など与えなかったはずなのに。結局、首の皮一枚繋がっただけです」


 弱音を吐く彼女の前に、無言の影が落ちる。


 コト、と。


 リシェルの手元の小さな丸テーブルに、湯気を立てる陶器のカップが置かれた。


 顔を上げると、レオンハルトが立っていた。彼が自ら、部屋の隅のポットから温かい果実茶を淹れて持ってきたのだ。


「……陛下?」


「飲め。三時間も一人で喋り続けていたのだ、喉が焼けているだろう」


 レオンハルトは、結果に対する理屈も、戦略の反省も口にしなかった。


 砂糖を入れる前に、彼は手を止めた。リシェルが一つと言うと、角砂糖を一つだけ落とした。


 リシェルは戸惑いながらカップを両手で包み込んだ。温かい熱が、強張っていた指先からゆっくりと染み込んでくる。


「ですが、私は勝ち切れませんでした」


「違う。お前はよく戦った」


 レオンハルトの低く掠れた声が、控室に静かに響いた。


「強硬派の総意を相手に、お前は一歩も引かず、自分の言葉だけで命の猶予を死守した。それは決して敗北ではない。胸を張れ、リシェル」


 名前を呼ばれて、リシェルはようやくカップから顔を上げた。


 彼の黒い瞳には、一切の失望も妥協もなく、ただ彼女の奮闘を認める確かな光が宿っていた。


「……はい。ありがとうございます」


 リシェルは目を伏せ、果実茶を一口飲んだ。甘酸っぱい香りが、喉の奥の震えを静かに溶かしていく。


 バンッ!


 だが、その静寂は、扉が乱暴に開け放たれる音によって引き裂かれた。


「陛下! 聖女様!」


 血相を変えて飛び込んできたのは、近衛隊長のイルザだった。


「どうした、騒々しい」


「北方の砦から早馬が到着しました! 帝都ではありません。聖女様の故郷である、霧境のロウ村です!」


 イルザの言葉に、リシェルは弾かれたように立ち上がった。


「ロウ村に、季節外れの深い毒霧が突如として発生したとのことです! 村は現在、完全に霧に包囲され、孤立状態にあります!」


 カップが手から滑り落ち、鈍い音を立てて絨毯に転がった。


 法廷での勝利の余韻は吹き飛び、冷たい絶望がリシェルの背筋を駆け上がる。


「地図を。村へ向かう道を見せてください」


 リシェルは床のカップを拾うのも忘れて言った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。