第14話 一度しか使えない大号令
元老会の円形議事堂には、重苦しい空気が立ち込めていた。
議題は、やがて来るであろう真の大霧に対する帝都の避難計画。リシェルは皇帝の隣に座り、数日前に提出した『命令なしの自立的避難網』の草案を説明し終えたところだった。
「聖女殿の知識に基づく提案は、実に素晴らしい」
沈黙を破ったのは、ヴァレリウス大公の温和な声だった。
彼はゆっくりと立ち上がり、リシェルの草案が書かれた書類を指先で叩いた。
「灰布の覆面と霧笛による誘導。確かに霧境では有効な手立てだろう。しかし、帝都の何万という民衆は、そのような自立的な避難訓練など受けたことがない。パニックが起きれば、笛の音など誰の耳にも届かないだろう」
「ですから、今から各街区の責任者を定め、手順を周知させるのです」
リシェルが反論するが、ヴァレリウスは悲しげに首を振った。
「民は、自由や責任よりも『確かな導き』を求めているのだよ。皇帝陛下の『勅声』による強制避難。十年前の悲劇は風向きの不運に過ぎない。民を確実に動かすには、やはり絶対の命令が必要だ。私は、聖女殿の案に『現実的な修正』を加えた対案を提出したい」
ヴァレリウスが提出した修正案は、リシェルの提案から人員と予算を大幅に削り、結局のところ「いざとなれば皇帝の大号令に頼る」という骨抜きの内容だった。
大公が残量を知っているのか、まだ確証はない。だがこの案なら、大霧の時に最後の一回を使わざるを得なくなる。リシェルは削除された訓練費の欄に線を引いた。
「……本日の審議はここまでとする」
定刻を告げる書記の合図を受け、レオンハルトは散会を告げた。再審議は翌週と決まった。
彼は大公の修正案を即座に退けることはしなかった。いや、できなかったのだ。なぜなら、皇帝の力が枯渇寸前であることは国家の最高機密であり、それを理由に反論すれば足元を見られるからだ。
*
その夜。
薄暗い皇宮の資料室で、リシェルとレオンハルトは一つの机を囲んでいた。
机の上には、帝都の地図と、ヴァレリウスの修正案に対抗するための新たな避難計画書が散乱している。
「大聖堂の平面図も見ておいてくれ」
レオンハルトが一枚を引き出した。祭壇を囲む輪が、二重に描かれている。
「お前に会ったのは、この階段の下だ。そこなら普通の小命令で済む。だが、奥の祭壇域に入ると違う」
「この内側ですか」
「声が増幅される。一人だけを対象にしても、大号令と同じだけ灯を使う。祭壇の声で儀式を止めようとすれば、それだけで最後の一回を失う」
リシェルは輪の境を指でなぞった。あの日、数歩先へ連れていかれていたら、話はまるで違っていたのだ。
「大号令に回せる力は、あと一回分」
レオンハルトは自嘲するように目を伏せた。
「大霧が来た時に避難のために使うか。それとも、目前に迫る教会の暴走を止めるため、あるいは新たな制度を立ち上げるための『改誓』の儀式に使うか。私には、もう一度しか手札が残されていない」
一部の保守派の議員たちは密かに囁いている。「聖女の猶予を取り消し、すぐに奉献して灯を補充すればすべて解決する」と。
だが、レオンハルトはそれを口にしない。
「私は、燃料にはなりません」
リシェルは真っ直ぐにレオンハルトを見据えた。
「誰かの意志を奪って燃える炎で、私自身の命を諦めたりはしません。だから、何がなんでも『命令なしの避難網』を完成させます。あなたの大号令は、国を新しく作り替える時のために残しておいてください」
レオンハルトはわずかに目を見開き、やがて、その薄い唇の端に静かな笑みを浮かべた。
「……傲慢な生贄だ。絶対皇帝に向かって、私の力の使い道を指図するとはな」
「監査役としての正当な助言です」
リシェルがふいと顔を背けると、レオンハルトは低く喉を鳴らして笑った。
二人は再び、机の上の地図に視線を落とす。
「南区のこの街道ですが、警備隊を配置するよりも、民間の商会や顔役に誘導を任せるべきです。緊急時に見知らぬ兵士に怒鳴られるより、顔見知りの声の方が民衆は動きます」
リシェルが地図の一点を指差しながら言うと、レオンハルトは文句一つ言わず、手にしていた羽ペンで自らの勅令文の草案を修正し始めた。
「人員の配置は任せる。商会への交渉に必要な予算は、皇室財産から引き当てよう」
「ありがとうございます。それから、灰布の覆面の支給所は、教会の炊き出し所の近くに併設して……」
夜も更け、資料室には羊皮紙が擦れる音と、二人の静かな話し声だけが響いていた。
図面の細かい文字を追いかけるうち、リシェルは無意識に身を乗り出していた。
ふと、温かいものが触れる感触に気づく。
隣で同じ図面を覗き込んでいるレオンハルトの肩と、リシェルの肩が、ぴたりと触れ合っていたのだ。
彼の軍服の硬い生地越しに伝わってくる、男の体温。
驚いて顔を上げると、至近距離にレオンハルトの横顔があった。彼は触れ合った肩を離そうとはせず、ただ真剣な眼差しで羽ペンを走らせている。
彼はペンを止めた。
「狭いか」
「……いいえ。ここで読めます」
それだけ答えるのに、なぜか一呼吸余計にかかった。
(……温かい)
リシェルは肩を引かず、そのまま図面へと視線を戻した。
彼と共にこの国を変える。そのためなら、どんな困難でも乗り越えられる気がした。
だが、避難網の構築を進める前に、まずは目前に迫る最大の危機を越えなければならない。
明日。
ゼノン典礼長が申し立てた「第六十日への奉献前倒し」の是非を問う、祭儀法廷が開かれる。リシェルはそこで、自分自身の命の猶予を勝ち取るための戦いに臨むのだ。




