第13話 四十日後の奉献を求められた
灰色の空から、冷たい雨が中庭の石畳を叩きつけている。
離宮の執務室は、陰鬱な空気に包まれていた。
「……証言を撤回した、だと」
報告を受けたレオンハルトの声が、ひどく冷たく低く響いた。
執務机の前に直立するイルザ近衛隊長は、苦渋に満ちた表情で頷いた。
「はい。中級司祭は今朝、ゼノンから受け取ったという話を取り消しました。家族に危害が及ぶと怯えています。身辺の警護と取調べの立会いを別の者に替え、外から何を伝えられたか調べています」
「押収した紙は?」
「保管されています。ただ、受渡簿の該当ページが教会側に残っていません」
リシェルは整理していた書類を置いた。紙を運んだ司祭まで捕まえても、発行を指示した者へ届かない。
「署名の控えも、保管庫の出納も、同じところで途切れています」
「足りない部分を探そう。紙は残った。司祭も生きている」
レオンハルトはその二つを、確認するように指で数えた。
「さらに、申し上げにくいことですが……」
イルザが躊躇いながら言葉を続けた。
「ゼノン典礼長は元老会に対し、新たな申立てを行いました。先日、北区へ小霧が到達したことを引き合いに出し、『聖女不在が天の怒りを買っている』と主張。百日の猶予を破棄し、奉献の儀式を『第六十日』に前倒しするよう求めています」
リシェルの背筋に、冷たいものが走った。
今日は第二十日。申立てが通れば、四十日後には祭壇へ戻される。
小霧の際、勅声を使わない避難は見事に成功し、死者は出なかった。だが、皮肉なことに「霧が本当に来た」という事実そのものが、民衆の無意識の恐怖を煽り、教会の強硬な主張を後押しする材料にされてしまったのだ。
「元老会の老人どもは、自分たちの保身のために教会の申立てに傾きつつあります。数日後には、大聖堂の祭儀法廷で正式な審議が行われる見通しです」
「……下がれ、イルザ。引き続き大公邸と教会の動きを監視しろ」
「はっ」
イルザが退室し、重い扉が閉まる。
雨の音だけが響く執務室で、リシェルはぎゅっと両手を握りしめた。
「陛下。私は、前倒しを認めるつもりはありません。祭儀法廷に出廷し、この命の猶予が法的に正当であることを自分で弁護します」
リシェルが言い切ると、レオンハルトは窓際からゆっくりと振り返った。
その顔には、皇帝としての威厳よりも、深い疲労と迷いのようなものが影を落としていた。
「リシェル」
彼は呼びかけてから、重い足取りで執務机へ戻った。
そして、鍵のかかった一番下の引き出しを開け、一冊の黒い革表紙の手帳を取り出した。
「お前には、伝えておかなければならないことがある」
レオンハルトがその手帳を机の上に置く。
「これは?」
「大聖堂の奥にある『誓灯』に関する、極秘の調査報告だ。私と、ごく一部の近衛だけで調べさせた」
報告書の受領日は、今日だった。リシェルは机の横へ椅子を寄せた。
「祭壇の炎は、歴代の聖女から奪われた『否』の力で燃えている。それはお前が突き止めた通りだ。だが……問題は、その残量だ」
レオンハルトは手帳のページを捲り、一つの数値を指差した。
「残された誓灯の力は、もはや底を突きかけている。お前が奉献を拒み、新たな燃料が供給されなくなったことで、枯渇の速度が明らかになった」
リシェルは数字を追い、息を呑んだ。
「残量は……帝都全域を対象とする大号令一回分に加え、小命令が数十回分。その大号令の分は、取り分けて考えなければならない。これが、皇帝の絶対権力の実態だ」
「私が不用意に声を使えば、最後の大号令すら撃てなくなる」
レオンハルトは自嘲するように目を伏せた。
「霧境の観測データと過去の周期を照らし合わせた結果、帝都を呑み込む真の『大霧』の到達予測は、第九十五日前後だ。古い条文には、誓約を結び直す『改誓』という手続きがある。使える条件はまだ調べているが、必要な力は大号令と同じだ。改誓に使えば、大霧のためには残らない」
レオンハルトは手帳から手を離し、椅子に深く背中を預けた。軍服の硬い襟元が緩み、喉にある古い傷跡が痛々しく覗いている。命令を発するたびに喉を焼き、自らの身体を削ってきた男の、強権の裏にある素顔。
リシェルは、その痛みを共有するように、無言で机の前に立っていた。
ページの端を押さえた彼の親指が動いた。傷のある喉を撫でようとして、やめたらしい。
リシェルは自分の懐を探り、小さな白い包みを取り出した。
それは、侍医に頼んで用意してもらった、喉のための薬だった。
彼女は無言のまま、その薬包をレオンハルトの机の上、彼の手のすぐそばに置いた。
「……これは?」
「喉の薬です。白湯に溶かして飲んでください。少しは痛みが和らぐはずです」
「薬師には、誰の分か聞かれました」
「何と答えた」
「声を出す仕事の、とても頑固な人ですと」
レオンハルトは驚いたように目を瞬かせ、やがて、その白く小さな包みを大きな手でそっと包み込んだ。
「……感謝する」
掠れた声が、先ほどよりも少しだけ優しく響いた。
大聖堂で初めて会った時の、氷のような皇帝の面影はそこにはない。
「泣き言を言っている暇はありませんね、陛下」
リシェルは顔を上げ、凛とした声で告げた。
「第六十日への前倒しは、私が祭儀法廷で必ず止めます。灯の残量が足りないのなら、大号令を使わなくても国が回る仕組みを、百日以内に私たちが作ればいいだけのことです」
「……ああ。そうだな」
レオンハルトの口元に、微かな笑みが浮かんだ。
大霧の予測までは、あと約七十五日。
祭儀法廷の審議は三日後に迫っていた。




