第6話 サーシャの祈りと、消えゆく不浄
薪割りに精を出す騎士たちの喧騒をよそに、教会の裏手側の木陰。
湊は、孤児院の少年と、彼が連れてきたらしい一人の少女———サーシャに、裾を引かれていた。
サーシャは、赤く腫らした目で湊を見上げている。
「・・・ねえ、レオ。このお兄ちゃん、本当になんでも治せるの?」
「うん。この兄ちゃん、歩くだけで地面がピカピカになったり、花を咲かすんだ。だから、」
「うん。お兄ちゃんは、私のお母さんの病気治せる?わ、私なんでもするから、お母さんを治して」
「俺もおねがい。いや、お願いします」
湊は困惑した。自分は元々ただのサラリーマンだ。
今はチート能力があるとはいえ、病気なんて治せるだろうか?
だが、サーシャの泣き腫らした諦めかけの目を見て、ただ放っておくことはできなかった。
「・・・なんでも、とはいかないけど。お見舞いくらいなら行けるよ」
「本当!?お母さん、もうずっと起き上がれないの。・・・あっち、騎士様たちが怖いから、こっちから行こう?」
湊は、二人の小さな手に案内され、教会の裏門からこっそり抜け出すことに成功した。
湊の頭には、瞬く間に綺麗になった湖が浮かんでいた。
病は、昔は不浄とも言ったらしい。もしかしたら。
それで無理なら、夜にまた行こう。俺のチート能力は、どうしてか、夜向きが多いから。
案内されたのは、街の端にある、日当たりが悪くジメジメとした小さな民家だった。
中に入ると、嫌な臭いが鼻をつく。それは病魔というよりも、この世界の医療ではどうしようもない「停滞した気配」だった。
ベッドには、サーシャの母親が横たわっていた。
浅い呼吸を繰り返し、その肌は毒素に侵されたように土気色に変色している。
「(……ひどいな。これは放っておけない)」
湊がベッドの側に歩み寄った、その瞬間だった。
【不浄を嫌うもの】が自動発動中
湊が部屋に足を踏み入れただけで、空気が一変した。
壁を覆っていたカビがサァーッと消え去り、澱んでいた空気は、まるで高原の朝のような清涼な風に取って代わられた。
「……あ、れ? 身体が、軽い……?」
母親が、信じられないというように声を漏らした。
湊は、ただ彼女の力になりたいと思い、その熱っぽい額にそっと手をかざした。
「……熱、下がるといいですね」
魔法を唱えたわけではない。ただ、願っただけだ。
けれど、病はチート能力によって、退散してくれたようだった。
彼女の顔色が戻ってきている。体力まではすぐには戻らないだろうが、むしろそれでいいのかもしれない。彼女には休息が必要だろう。
「……お母さん!? お母さん、顔が白くないよ! 赤いよ!」
サーシャが叫び、母親に飛びつく。
母親は驚いた様子で身を起こし、自分の手を見つめた。
数年ぶりに力が戻り、視界が驚くほどクリアになっていた。
「……月……? 太陽の光の中に、涼しいお月様が見えた気がして……」
「……。気のせいですよ。ちょっと風通しが良くなっただけです」
湊が照れ隠しに微笑むと、部屋の隅に置かれていた枯れ瓶の泥水さえもが、透き通った最高級の湧き水へと変わっていた。
「……おいおい。坊ちゃん、勝手に持ち場を離れちゃ困るぜ。カイル隊長が、主を失った犬みたいに街中で叫び回ってるぞ」
背後から、バレルの呆れたような声がした。
彼は騎士たちのパニックを他所に、レオたちの動きから湊の行き先を察して、先回りしていたのだ。
バレルは、ベッドの上で元気にサーシャを抱きしめている母親と、室内を埋め尽くす「奇跡」の光景を目の当たりにし、持っていた古いロザリオを握りしめた。
「……はあ。数年寝たきりで、毒素に侵されてた女が、一瞬で完治かよ。……おい、サーシャ。あんたの連れてきたお兄ちゃんはな、聖女様も真っ青の『歩く聖域』だぞ」
「やったー! お兄ちゃん、魔法使いさんなんだね!」
サーシャが湊に抱きつく。
「いいえ、ただの通りすがりの……」
湊がいつもの台詞を言おうとした時、カイルたちが血相を変えて突入してきた。
「ミナト様ーーーッ!! ご無事ですか! 不浄な場所で御身に穢れが――ッ! ……あ、れ?」
カイルたちは、突入した瞬間に立ち止まった。
そこには、自分たちが守るべき「貧民街の病人の家」などなかった。
そこにあるのは、湊が立っているだけで作り出された、世界で最も清らかな「癒しの空間」だった。
カイルは、母親とサーシャの笑顔を見て、そして湊の穏やかな顔を見て、その場に膝をついた。 「……隠密で、名もなき民に慈愛を配られるその御姿。……我ら太陽騎士団、不徳ゆえにミナト様のお考えを察することができず、心より恥じ入るばかりにございます!!」
「いや、だから、そんな大層なことじゃ……」
湊は、また居心地が悪そうに頬を掻きながら、レオとサーシャに手を引かれて教会へと戻ることになった。
バレル司祭は、最後にもう一度、湊が座っていたベッドを一瞥した。
そこには、湊が触れたわけでもないのに、欠けていた木製のベッドの足が、瑞々しい若木の枝として再生し、小さな花を咲かせていた。
「(……神は不浄を嫌う、か。……嫌うどころか、あいつが歩く場所には、絶望の入り込む隙間すらねえな)」
無信仰な司祭は、生まれて初めて、神話というものが実話だったのかもしれないと、本気で思い始めていた。




