㉞-2 知らなかった君の過去
笑みを浮かべた道化のように、アドニスはそこに居た。
何がそんなに楽しいのか。
一言で言えば、不気味だ。
そんな感情が、一同の胸に湧き上がっているようだった。
ヴァルクは溜息をつくと、顔を上げた。
「アルベルトさんは、レンがどういう人物なのか、分からない……いや、知らないみたいですね」
ヴァルクはアルベルトから見れば子供だ。しかし、アルベルトに臆することなく対等に話している。
一方のアルベルトもヴァルクを子供扱いせず、一人の話し相手として見ていた。
「ああ、ほとんど何も知らない。フリージアもな」
口に出した言葉で、心が焼き切れるようだった。
アルベルトは、レンのことを何一つ知らなかった。
ティニアという名前が本名ではないことは、以前ミュラー夫妻の話から聞いている。
それだけで満足していた訳ではない。
本人がいつか話してくれるのではないか、そう思っていた。
記憶が混濁し、別人のようになるまでは——。
奥歯に力を入れ、顔を歪ませるアルベルトを前に、ヴァルクは一瞬俯いた。怯えたのかもしれない。しかし、ヴァルクは再び顔を上げた。
「話す前に、俺たちのことを信じてもらうために、少し身の上話をさせてもらいます」
「必要なら、別に構わない」
「……俺たちの先祖は、遠い世界からやってきました。先祖たちは二手に分かれました。他の人たちに交じって生きていく者たちと、ここで密かに生きていく者たち。俺たちの先祖は、後者でした」
ヴァルクはマリアやティナ、そしてレオンへ順番に視線を送った。
「ここでの暮らしを始めたのは、千年前……いや、もっと昔だったかな。正確な年数は後で聞いてください。それほどまでに、遠い昔の話なんです」
マリアは黙って頷いた。
「……それほどまでに昔からここで暮らしていたのが、俺たちの先祖です。でも、二度の流行り病で子供も大人も関係なく、皆死んでいった。俺が生まれる前の話ですけどね」
ヴァルクは廃墟が連なった街並みへ視線を送った。自然とマリア達も、廃墟へと視線を送る。
決して平坦な道のりではなかっただろう。
長い時をかけて、静かに暮らしていた人たちの営みが、ここには在ったのだ。
「だけど、コルネリアの母親が亡くなって、ついに畑が枯れてしまった。生き残ったのは俺と赤ん坊のコルネリアだけ。そんな時に、レンが現れたんだ」
ヴァルクは、アルベルトを見上げた。
「レンは精霊に近い存在で、不思議な魔法を使うひとだった」
ヴァルクはアルベルトをまっすぐに見据えた。
「それが、本来のレンなんです」
アルベルトは息を飲み、マリアは視線を落とした。
「……精霊——?」
確かめるようにこぼれ出た声は、酷く掠れていた。
言葉にならないのか、僅かに唇が動いた。
これまで知ることのなかったレンの過去を、突然突きつけられたのだ。
すぐに受け入れられるはずもない。
その気持ちは、マリアにも少しだけわかるような気がした。
マリアにとっても、彼女がかつて人知を超えた存在であったことを、すぐに受け入れられたわけではない。
しかし、彼女の生き様、物の捉え方、命への考え方。
全てが達観していた彼女のことを思えば、妙に腑に落ちていった。
握る手に力が入ったのか、フリージアがアルベルトを見上げた。
アルベルトは我に返ったように、その手を握り返した。
焦り、怒り、悲しみ、驚愕……。
今のアルベルトが何を思っているのか、マリアには分からない。
ただ、自分が真実を知った時と同じように、簡単に受け入れられることではないだろう。
ヴァルクは不安そうにそれぞれの顔を見上げると、ぽつりぽつりと語りだした。
「……レンは昼間働いているから、夜の九時を過ぎると、この村へ来てくれました。それで食事や洗濯をしたり……。文字を教わることもありました。俺たちのことを大切にしてくれたんです。レンは、レンは——」
口ごもってしまったヴァルクは、思い詰めているようだった。レンは悪くない。そう言いたいのだろう。
したり顔をしているアドニスと視線が合ったコルネリアは、慌てて付け加えた。
「あ、アドニスさんも、食材を持って来てくれました。でも、毎日じゃなかったから……。あ、でもとても感謝してます!」
コルネリアの言葉を聞き、アドニスは腕を組んだまま頷いた。
その時、ヴァルクが息を吸う音が聞こえた。
「レンは悪くないんです! 俺らの母親の代わりをしてくれただけなんです! 悪いのは……、悪いのは——」
ヴァルクの声は、懇願するような叫びだった。
コルネリアもその後に続いた。
「レンお母さんは悪くないです! レンお母さんを責めないであげてください……」
ヴァルクとコルネリアの二人にとって、レンが何物にもかえがたい存在であったことが窺えた。
マリアは立ち尽くしているアルベルトの横を通り過ぎると、拳銃を捨てた。そして、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
「辛かったね……」
マリアの言葉に、ヴァルクとコルネリアは頷いた。二人とも、今にも泣きだしそうだった。
「今までの暮らしも辛かったのに、レンのことまで……。二人とも、もう無理をしないで、ね?」
「マリアさん……。マリアさんは、ずっとレンお母さんと暮らしていたんだよね。レンお母さんは、寝るのが早かったでしょ?」
「……ああ、そうか。昼間は仕事をしているから、夜は早く寝るんだと思ってた。でも、本当は寝たふりをして、ここへ来ていたのね……」
マリアの微笑みに安心したのか、ヴァルクが顔を上げた。
「それだけじゃないとは思うけど、大体はここに来ていたんじゃないかな……。ほとんど毎日来てくれた。俺たち、料理もまともに作れないから……」
マリアはヴァルクとコルネリアを抱き寄せた。
泣きじゃくるコルネリアと、泣くのを堪えるヴァルクの背中をゆっくりと撫でた。
「よく頑張ったわね……」
その言葉を口にすると、マリアは不思議な感覚を覚えた。
母親とは、何なのだろう。
レンは二人の母親ではない。それでも二人は、レンを母親のように慕っている。
血の繋がりがなくとも、食事を作り、身の回りの世話をして、無事を願いながら共に過ごす。それだけで、誰かの母親になれるのだろうか。
腕の中にいる二人の温もりを感じながら、マリアは答えのない問いを胸の内に残した。
マリアはゆっくりと立ち上がると、アルベルトへ振り返った。アルベルトは、まるで誰かに殴られたかのような顔をしていた。
毎夜のように里を訪れていたことも、ヴァルクとコルネリアの母親代わりになっていたことも、何一つ知らなかったのだ。
レンのそばにいたはずなのに、知らない彼女の姿ばかりが増えていく。
アルベルトは何も言わなかった。
ただ、俯いたまま唇を強く結んでいた。
マリアは一度目を閉じた。
レンと過ごした日々。
アルベルトが加わり、アパートを出た。
ティナと暮らしながら、手探りの生活だった。
笑顔のレンに、怒ったレン。
全てが彼女だった。
あの生活に、偽りはない。
レンの異変にもかかわらず、ずっと側に居たアルベルト。
その彼に、全てを打ち明ける時が来たのだ。
アルベルトは、レンの真実を知ってどうするのだろうか。
レンを見限って欲しくなかった。
人間ではない自分のことも、拒絶しないで欲しかった。
それらは全て、マリアの我儘なのだろうか。
マリアは目を開けた。
「アルベルト。私も、聞いた話で知っていることを、貴方に話せずにいたの……」
「……そうか」
黙って話を聞いているアルベルトの心情を思えば、少し休むべきなのかもしれない。
それに、今ここで自分のことまで打ち明ける必要はない。
まず伝えるべきなのは、レンのことだ。
「レンがどうしてティニアになったのか。私も知る限りの情報を話すわ」
マリアの言葉は、静かに響いていった。




