㉞-1 それぞれが知る君
ラウルの襲撃により、診療所は混乱に陥った。再起動したと思われるレンは、ラウルと共に姿を消した。
残されたマリアたちは、アドニスの魔法のような力によって、その場を脱出する。
辿り着いたのは、ボーデン湖の地下に存在する「セシュールの隠れ里」。そこは頭上に湖底を望む、不思議な空間だった。
「どういうことですか……?」
フリージアの声は震えていた。大切そうに握られた懐中時計は、周囲の光を反射させた。
「そのままの意味だよ」
里で出会った少年ヴァルクは、アルベルトにしがみ付くフリージアに対し、淡々と答えた。
「君たちの言うティニアっていうのは、レンのことなんだろ」
「レン……?」
「レンはティニアってやつの中に入ってる魂のことだ」
「中に入っている、魂……?」
二人の会話を黙って聞いていたアルベルトは、アドニスへ視線を送った。
「お前、何か知っているんだろう。あいつは無事なのか? こいつらの話は本当なんだろうな?」
「君の言う無事というものが、僕の想像する無事であるならば、無事ではありませんねえ」
「何ッ!?」
「はてさて。いざ話をするにしても、どこから話したものか……。バラバラに知っている事もあるでしょうからね」
若い男の姿で言葉を濁すのは、神父アドニスだ。初老であった筈の神父は、突然若い姿で現れた。
アドニスは天井を流れる水滴を眺めながら、唸りだした。
空というべきか、天井では水流が流れ、螺旋を描いた。
水の間からは、淡い光が差し込む。光は荒れ果てた里を神秘的に照らした。
隠れ里の緑と言えるもののほとんどは苔であり、それらは険しい岩石を覆っていた。若草は殆ど見受けられない。
住人と思われるのは子供の二人だけであり、他に人の気配はない。
時が止まっているかのような、この世のものとは思えぬ光景が広がっていた。
「……アルベルト、落ち着いて。冷静にならなきゃ、見えるものも見えないわ……」
「ティニアは今、どこでどうしているか分からないんだぞ!」
アルベルトは狼狽えていた。だが、その勢いに飲まれるわけにはいかない。
「アルベルトの気持ちが分からないわけじゃないわ。私だって心配なのよ。……今この場所が安全かどうかすら分からないのよ?」
「……そうですね。そこからにしましょうか」
アルベルトは、フリージアと手を繋いでいなければ、アドニスに食って掛かりそうな勢いだった。
アドニスがモノクルを掛け直すのを横目に、マリアは先ほどのティナの話を思い返した。
「ここ、本当にボーデン湖の地下なの?」
「そうですよ。ちなみに天井に見える湖は、実際のボーデン湖の底ではありません」
「え?」
「見えているあの水面は、ボーデン湖を映した鏡のようなものです。里は湖より、かなり深い位置にありますからねえ。この空間を作っているのは全て、とある方の魔法です。どうです、凄いでしょう」
飄々と語るアドニスの瞳は、煌めくように青く澄んでいる。その青い瞳は、見慣れた初老アドニスを彷彿とさせた。
「本当にアドニスさんなのね」
マリアの言葉に、アドニスは肩をすくませた。
「僕のような者が、他に居たらどうです? 気味が悪いでしょう。えぇえぇ、気味が悪いことこの上ない。これが僕の真の姿ですよ、マリア」
「神父って、そんなキャラだったの?」
「失敬な。失礼じゃありませんか。この方が優雅でしょう?」
アドニスは自信満々に語ると、アルベルトへ視線を向けた。
「君はまた酷い顔ですねえ。まあ、当然と言えば当然でしょうね」
「いい加減にしろ。お前がここに連れてきたんだ。戯言はいい。あいつがどういう状況なのかを説明しろ」
「まあ、今から説明したところで状況は何も変わらないでしょう。むしろ、もっと悪くなるかもしれませんからねえ」
「なんだと——!?」
大きな声を上げたアルベルトだったが、手を繋ぐフリージアの存在に気付き、我に返った。
アルベルトはフリージアの手を優しく握り返した。
しかし、アドニスの言葉に納得いかなかったのは、マリアも同じであった。
「……全ての運命が決まってしまったわけじゃないわ。何かやれることがまだあるはずよ!」
「ほう。人形と言われて落ち込んでいたとは思えない言動ですね!」
「なッ——。だっ、大体、レンが倒れたって連絡をよこしたのは、アドニスさんじゃない!」
この日、マリアはレンたちとの食事会を終え、帰宅したばかりだった。アパートに着くや否や、大家から電話だと呼び止められた。その相手が、アドニスだった。
アドニスは、ティニアが倒れたことと、すぐに診療所へ向かうようにと告げただけで電話を切った。
あの電話がなければ、マリアはこの場にはいなかっただろう。
ただ一つ気に掛かるのは、あのときアドニスが、レンのことを「ティニア」と呼んでいたことだ。
自分が何も知らないと思ったのか。それとも——。
今は憶測を巡らせている場合ではない。マリアは考えを振り払うように、首を横に振った。
マリアとアドニスを交互に見上げていたヴァルクは、呆れた顔でフォローを入れた。
「気にしない方がいいですよ。アドニスさんは、そうやって心をえぐる事を言った後に、救いの言葉を述べて心を掻っ攫おうって人ですから」
「ヴァルク、君も言うようになりましたね」
「レンが苦労するわけだよ」
レン。
その名を発せられるたび、小刻みに震えるのはアルベルトだ。
アルベルトにとって、真実を先延ばしにしたかったわけではない。
レンという名前すら、人から聞いて初めて知ったことだった。
長い時を生きてきた彼女が、一体何者なのか。
アルベルトは何も知らない。
レンの一番近くに居たのは、自分自身だと思っていた。
それが今は、手の届かない場所へ遠ざかっていくように感じられた。
今、無事なのか。怪我をしていないか。
一体、彼女の身に何が起こっているのか。
彼女と笑い合える日々は、もう来ないのだろうか。
次々と湧き上がる考えを、アルベルトは心の中で飲み込んだ。
まだ何も決まったわけではないのだと。
「その辺にしておきなよ。アドニスさんは話が長いから、話が逸れたら指摘した方がいいよ。でないと、この人は永遠に喋っているからね」
「ほっほう。ヴァルク。君は本当に言うように……」
尚も語ろうとするアドニスの言葉を止めたのは、ヴァルクの後ろに隠れていたコルネリアだった。コルネリアはヴァルクやフリージアよりも幼い少年だ。
「ここに、この人たちを飛ばしたのは、アドニスさんでしょ? どうして説明しないのですか?」
「そうだよ。勿体ぶってないで話しなよ。それとも、何か理由があるの?」
押し黙っているアドニスを不気味に感じつつ、ヴァルクとコルネリアはお互いを見つめ合った。




