㉛-6 誰がために君は笑う
ドアが閉まる音だけが診察室に残った。診察室の外からは、アルベルトとティニアの声が聞こえてきた。明るそうなアルベルトの声に、何の感情も通っていないかのような返答を繰り返すティニア。
二人の声は遠ざかると、やがて聞こえなくなった。
誰も居なくなった診察室で、一人レオンはカルテへと視線を落とす。そこに書かれている症状は、これまでと何一つ変わらない。
だが、レオンの心にはアルベルトの言葉が何度も繰り返されていた。
先ほどティニアを見た瞬間に、ティナではないのかと目を疑った。
隣にアルベルトがいなければ、ティナだと見間違えていたかもしれない。
アルベルトは、それを見抜いていたかのように指摘した。
話し方、佇まい、無機質のように聞こえる生真面目な返答。
それら全て、診療所で治療していた記憶喪失の女性、ティナにとてもよく似ていた。
出会った頃は言葉すら話せなかった彼女に、何故こうも自分が惹かれているのかは分からない。
ティニアが柔らかく微笑んでさえいれば、レオンは声を上げていたかもしれない。
結局のところ、ティナの記憶は戻らなかった。ティニアと同居していたマリアが暮らすアパートで共に暮らすと連絡を受け、退院を許可した。ティナとマリアは実の姉妹のように仲が良いというが、その後のティナに出くわしたことはない。
アルベルトの言った意味が、耳に反響するようだった。
レオンは記憶喪失で眠ったままの彼女に名前を付ける際、迷わなかった。
彼女の名前は——Tiから始まる。そんな気がしたのだ。
看護師たちに相談したところ、マナの提案したTina——ティナに決まった。最終的な判断に、レオンの意思は無関係だった。
二人の名前が似ていること、容姿が似ていること。
同じ仕草をするようになってしまったこと。
それらは、単なる偶然か。それとも、必然か。
考えは纏まらない。レオンは首を横に振った。
「疲れているのは、僕の方かもしれないな」
レオンはそういうと、ベルを鳴らし看護師を呼んだ。数秒もせずに、看護師のマナがすぐに現れた。
「はい。お呼びですか先生」
「待合室にはもう誰も居ませんか?」
「はい。ティニアさんとアルベルトさんもお帰りになりました」
「……そうか。悪いけれど、この後と明日は休みにしたいのだが」
「え、どうかなさったのですか?」
レオンは首を横に振った。
「ちょっとね。入院患者も今はいないし、久しぶりに休暇としようじゃないか」
「休暇って。急患が来たらどうするのですか?」
「別の病院に行ってもらえばいい」
「は、はあ……」
マナは疑問に思いつつも、了解した。飼い犬の容態が悪いことを、以前レオンに話していたことを思い出したのだ。レオンは気を利かせてくれたのだろう。
「では、今日はもう帰ってもいいのですか?」
「ああ」
「はーい。先生も、お疲れさまでした。戸締りだけはお願いしますよ」
「分かりました。……マナ」
「はい?」
「いつもありがとう。アニーにもよろしく言ってくれ」
「はあ……?」
マナは首をかしげながら、診察室を後にした。もう一人の看護師についても連絡しなければいけない。
身勝手な休みを取ったのは、医師になってから初めてのことだ。
幸いなことに、入院していた二人の子供も退院している。二人はティニアに懐いていた為、最後に挨拶がしたいと言っていたが、ティニアはその日も出勤できなかった。
「ティニアさん……」
レオンはその言葉を口にした。
ティニアという名前は、不思議と安心すると同時に、高揚感さえ覚えた。
手の甲を目に当てる。天井のランプ明かりと自身の手が重なり、指の間から光が漏れている。たったそれだけのことでさえ、吐き気さえ湧いてくるようだった。特に苦手なことは、暗がりや閉所だ。過呼吸を起こし、発狂することもあった。
そのトラウマに、心当たりはない。
「はあ、疲れているようですね……」
レオンはそう呟くと、ティナのカルテを手に取った。
イタリアのシチリア島から持ってきたカルテも重なり、ティナのカルテだけが分厚い。
なんとか彼女の意識を取り戻したかった。会話をしたかった。笑顔を向けて欲しかった。
ティナのカルテを一枚一枚捲っていく。初めての患者でもあった彼女に、どうしてここまで執着するのかは分からなかった。
彼女に惹かれていることを認めなかったのは、自身が医師であり、彼女が患者であったからだ。
アルベルトや花屋で働くマリアも、レオンとティナのことを応援しているかのようだった。
心嬉しく思う一方、黒いもやが心を覆うようだった。
何かが思い出せない。
自分は一体何を忘れているのか。
焦りと不安が押し寄せ、レオンは目を閉じた。
ティナの見せる笑顔が、目の前に浮かんだ。




