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暁の芽吹 -レスティン・フェレスⅠ  作者: Ruri Lesewolf
Episode31「スカーレットの夢」
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㉛-6 誰がために君は笑う

 ドアが閉まる音だけが診察室に残った。診察室の外からは、アルベルトとティニアの声が聞こえてきた。明るそうなアルベルトの声に、何の感情も通っていないかのような返答を繰り返すティニア。

 二人の声は遠ざかると、やがて聞こえなくなった。


 誰も居なくなった診察室で、一人レオンはカルテへと視線を落とす。そこに書かれている症状は、これまでと何一つ変わらない。

 だが、レオンの心にはアルベルトの言葉が何度も繰り返されていた。


 先ほどティニアを見た瞬間に、ティナではないのかと目を疑った。

 隣にアルベルトがいなければ、ティナだと見間違えていたかもしれない。

 アルベルトは、それを見抜いていたかのように指摘した。


 話し方、佇まい、無機質のように聞こえる生真面目な返答。

 それら全て、診療所で治療していた記憶喪失の女性、ティナにとてもよく似ていた。

 出会った頃は言葉すら話せなかった彼女に、何故こうも自分が惹かれているのかは分からない。


 ティニアが柔らかく微笑んでさえいれば、レオンは声を上げていたかもしれない。


 結局のところ、ティナの記憶は戻らなかった。ティニアと同居していたマリアが暮らすアパートで共に暮らすと連絡を受け、退院を許可した。ティナとマリアは実の姉妹のように仲が良いというが、その後のティナに出くわしたことはない。


 アルベルトの言った意味が、耳に反響するようだった。

 レオンは記憶喪失で眠ったままの彼女に名前を付ける際、迷わなかった。


 彼女の名前は——Tiから始まる。そんな気がしたのだ。

 看護師たちに相談したところ、マナの提案したTina——ティナに決まった。最終的な判断に、レオンの意思は無関係だった。


 二人の名前が似ていること、容姿が似ていること。

 同じ仕草をするようになってしまったこと。

 それらは、単なる偶然か。それとも、必然か。


 考えは纏まらない。レオンは首を横に振った。

 

「疲れているのは、僕の方かもしれないな」


 レオンはそういうと、ベルを鳴らし看護師を呼んだ。数秒もせずに、看護師のマナがすぐに現れた。


「はい。お呼びですか先生」

「待合室にはもう誰も居ませんか?」

「はい。ティニアさんとアルベルトさんもお帰りになりました」

「……そうか。悪いけれど、この後と明日は休みにしたいのだが」

「え、どうかなさったのですか?」


 レオンは首を横に振った。


「ちょっとね。入院患者も今はいないし、久しぶりに休暇としようじゃないか」

「休暇って。急患が来たらどうするのですか?」

「別の病院に行ってもらえばいい」

「は、はあ……」


 マナは疑問に思いつつも、了解した。飼い犬の容態が悪いことを、以前レオンに話していたことを思い出したのだ。レオンは気を利かせてくれたのだろう。


「では、今日はもう帰ってもいいのですか?」

「ああ」

「はーい。先生も、お疲れさまでした。戸締りだけはお願いしますよ」

「分かりました。……マナ」

「はい?」

「いつもありがとう。アニーにもよろしく言ってくれ」

「はあ……?」


 マナは首をかしげながら、診察室を後にした。もう一人の看護師についても連絡しなければいけない。


 身勝手な休みを取ったのは、医師になってから初めてのことだ。

 幸いなことに、入院していた二人の子供も退院している。二人はティニアに懐いていた為、最後に挨拶がしたいと言っていたが、ティニアはその日も出勤できなかった。


「ティニアさん……」


 レオンはその言葉を口にした。

 ティニアという名前は、不思議と安心すると同時に、高揚感さえ覚えた。


 手の甲を目に当てる。天井のランプ明かりと自身の手が重なり、指の間から光が漏れている。たったそれだけのことでさえ、吐き気さえ湧いてくるようだった。特に苦手なことは、暗がりや閉所だ。過呼吸を起こし、発狂することもあった。

 そのトラウマに、心当たりはない。


「はあ、疲れているようですね……」


 レオンはそう呟くと、ティナのカルテを手に取った。

 イタリアのシチリア島から持ってきたカルテも重なり、ティナのカルテだけが分厚い。


 なんとか彼女の意識を取り戻したかった。会話をしたかった。笑顔を向けて欲しかった。


 ティナのカルテを一枚一枚捲っていく。初めての患者でもあった彼女に、どうしてここまで執着するのかは分からなかった。

 彼女に惹かれていることを認めなかったのは、自身が医師であり、彼女が患者であったからだ。


 アルベルトや花屋で働くマリアも、レオンとティナのことを応援しているかのようだった。

 心嬉しく思う一方、黒いもやが心を覆うようだった。


 何かが思い出せない。

 自分は一体何を忘れているのか。


 焦りと不安が押し寄せ、レオンは目を閉じた。

 ティナの見せる笑顔が、目の前に浮かんだ。

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