㉛-1 一匹の狐
明朝だった。外はまだ薄暗く、夜の静けさが残っていた。
アルベルトが目を覚ました時、心地よい枕の感触はなく、腕も軽かった。隣で眠っていたティニアは、ベッド脇の椅子に腰かけたまま読書をしていた。
パラパラとページを捲る音を聞きながら、アルベルトはティニアを眺めていた。
ティニアの別人のようになる症状の間隔は目に見えて短くなっていた。二人で寝てはいるものの、アルベルトは共に暮らし始めた少女——フリージアも誘っていた。だが、フリージアはそれを断った。
最初は彼女を守りたい一心で気を張っていたが、気付けば眠りに落ちてしまっていた。身体の調子も良く、まるで魔法にでもかかったかのようであった。
昨晩も、彼女がいつベッドから抜け出したのか分からないほど、よく眠れたようだ。
仕事については、シュタイン親分と相談した結果、しばらくの間休むことになっている。全てはティニアの為だ。だが、生活するためには収入を得なければならない。
今の状態は長く続かないだろう。錯乱する彼女を外に出すわけにもいかず、フリージアの送迎と買い物以外では家に閉じこもりがちになっていた。
穏やかな朝とは裏腹に、先の見えない不安だけが残っていた。
アルベルトの視線に気付いたティニアは、本の陰から顔を覗かせた。
「おはようございます」
「うん。おはよう」
ティニアは本へ視線を戻した。表情に変化は見られないが、真剣に文字を追っているのが分かる。
アルベルトは横向きになり、頬に手を添えたままティニアを眺めた。
彼女の真の名をレンというらしいが、本人から聞いた話ではない。
心の中で何度もレンと呼びながら、ティニアと呼び続ける日々が続いている。
ティニア——レンは本から視線を外さないまま、口を開いた。
「どうしました?」
「ちゃんと寝たのか?」
「……そっくりそのままお返しします」
「眠れたよ。お前は?」
「……寝ましたよ」
レンを冗談で抱き枕にするなどと言っていたが、実際彼女を抱きかかえたまま眠った。途中覚醒もなく、この時間までぐっすりだった。
「悪い。結局、抱き枕にして……」
「別に構いませんよ。……貴方が眠れたのであれば」
なんとなくだが、レンは照れているように見えた。
無表情で感情に乏しくなっていくものの、彼女の気持ちが分かるようになってきた。
だが、口調、仕草、雰囲気は既に別人だ。
もう以前のようには戻らないのかもしれない。
本人も言っていたが、変化にすら気付かなくなってしまった。
寂しくはある。だが、彼女が生きていてさえくれれば、それだけで充分だ。
レンの細い指が、ページを捲っていく。
元々痩せていたが、今は頬がこけるほど痩せてしまった。
症状が出ていないうちに、なるべく食事を摂ってもらわなければならない。
「……そういえば、今日はマリアが夕食を食べに来る日だったな」
「そうですね」
思わず口から零れ落ちた独り言に、レンは答えてくれた。
昨日、マリアと会ってから、レンは少し柔らかくなった。
状況は何も変わらないものの、レンの中で何かが変わったような気がした。
夕食までマリアがいてくれたら、少しは食べられたのだろうか。
「何ですか?」
視線は文字を追ったまま、問い掛けられた。
見入ってしまっていることには気付いていたらしい。
「……今度は何を読んでいるんだ?」
「これは、とある作家の卵が書いた傑作……というよりも、学術書に近い書籍です」
レンはそう言うと、背表紙を撫でた。背表紙には何も書かれておらず、灰色の紙が貼ってあるように見えた。
「もしかして、孤児院の子供が書いたのか?」
「どうでしょうか」
レンは本に栞を挟むと、椅子から立ち上がった。
「そろそろ朝日を見に行くのですが、一緒にいかがですか?」
「もうそんな時間か。フリージアは?」
「まだ寝ているでしょう。声をかけてみます」
レンは本を椅子に置くと、部屋を出ていった。
アルベルトはゆっくり起き上がると、レンが読んでいた本に触れた。
手に取って気付いたが、その本は手作りのようだった。
一枚捲ると、タイトルと作者と思しき名が書いてある。
「レスティン・フェレスの狐は、どうして一匹なのか……?」
タイトルだろうか。
表紙の下の方にも、文字が書かれている。
「ヴァルク・ラダ……?」
不思議な言葉だ。
何処の国の言語だったか——。
レスティン・フェレスには聞き覚えがある。対してヴァルク・ラダとは人物名だろうか。孤児の中にそのような名前の子がいるのかもしれない。
本を捲って驚いた。中身の文字は全て手書きで、びっしりと書かれている。その文字の一つ一つが、子供の字のような丸みを帯びていた。
内容は、狐が一匹なのかという問いかけと共に、狐が一匹になった経緯が書かれているようだった。子供の書いた童話のようなものだろうか。
とても学術書には見えなかった。
冒頭によれば、セシュール国に降り立った一匹の狐は、共に連れられて遠い世界からやってきたのだという。非常に短命な狐を保護する目的があったと書かれているが、全て読むのには時間がかかりそうだ。
「狐か——」
世間の狐のイメージは悪い。何か悪戯があれば、狐の仕業だと言ってしまうほどだ。
それだけではなく、アルベルトにとっての狐は、悪魔そのものだった。
昔の主人から聞かされた話を鵜呑みにし、狐と呼称される人物へ復讐を誓った。
やがて部隊に配属され、戦場を駆け巡り、人を騙し、陥れる日々を送っていた。
それは、アルベルトにとっての生き地獄そのものだった。
目を閉じるたび、鮮明に思い起こされた。
呪いにでもかかったかのように、気付けば不眠症を患っていた。
しかし、今目を閉じても、それらが浮かぶことはなくなっていた。
ティニアとして生きるレンの笑顔や困った顔、呆れた顔が目に浮かぶ。
あの頃のように、コロコロと表情を変えることはなくなってしまったが、目を閉じれば思い返せる。
ただ、許されるのなら——。
「レン……」
呼べぬ彼女の名を口にした。
「何故だろう。とても懐かしい気分だ……」
その名を口にするだけで、心が満たされるようだった。
気を抜いたその刹那、全身が痺れるように震え、頭と胸を波打つような激痛が走った。
「う……」
アルベルトは激痛に耐えるため、頭を抱え、目を閉じた。
目の前に広がっていたのは、レンの笑顔でも、戦場でもなかった。
紫がかった青空。
聳え立つ山脈。
心地良い風の音。
何度か見てきた夢の景色に、一つの変化が見られた。
——巨大な月が空に浮かんでいる。
気付けば、燃えるように広がる赤い炎が、身体から燃え上がっていた。
金色の光を追うように、自身も天高く飛びあがる。飛び上がった瞬間、先ほどまでの青空が隠れるほど、黒い大きな影が空を覆いつくしていた。とたんに、身体は地面へと急降下を始める。
地面に激突する。そう思った時だった。
アルベルトは我に返ると、目の前には見慣れた自室が広がっていた。
激痛のあった頭と胸の痛みはなく、冷や汗と心臓の鼓動が、現実に起こったことを物語っていた。
「何だったんだ……?」
眠れているとはいえ、疲れが出たのだろうか。
アルベルトは首を横に振ると、本を椅子に戻した。
ふと、本の表紙に書かれている文字を目にする。先ほどは読めていた文字が、読めなくなっていた。
疑問に思いつつ、アルベルトは軽く着替えると、リビングへ向かった。




