㉙-3 面影、そして
何故だろうか。彼女が平気でいると思い込んでいた。
らしくないほど、感情を爆発させる彼女が限界であることが、厭でも分かる。
それにすら、気付けなかったなど——。
マリアは花瓶に目をやった。レンは、包装紙を丁寧に畳んで花瓶の横に置いている。つけてきたリボンは、花瓶に結ばれており、蝶の飾りごと活けていた。
マリアは蝶の飾りに願いを込めたことを思い出した。
思うだけでは駄目だ。
言葉にしなければ、意味がない。
「……ねえ、どうして蝶の飾りがあると思う?」
「急にどうしたのですか」
「蝶は、姿を変えるわ。何度も、何度も。そして、美しい未来へと羽ばたくの」
「…………」
「私は、その先の未来が繋がっていたらと。そう思うの。蕾で贈ったのも、貴女なら咲く過程から枯れる過程まで、慈しんでくれると思ったからよ」
視線を落としたマリアを前に、レンはぬいぐるみを抱きしめ直した。
「マリア……。この子の名前、憶えていますか?」
とても小さな声だった。
アルベルトに聞かせたくないのだろうか。
「うん。……アルブレヒトでしょ」
マリアも声を抑えた。レンは口元に力を入れると、ぬいぐるみを撫でた。
「……私は、それすらもう覚えていません。分からないのです」
とても寂しそうに笑った。
マリアは、彼女の事情をある程度知っている。表立ってはっきりと口にされたことはない。
それでも、彼女の本心が、彼女の苛立ちが伝わってくる。
「自分が何であるのかすら……」
ずっと、一人称や言葉遣いから息遣いまで、まるで別人のようになっている。
ティナとレン、二人と暮らしてきたマリアだからこそ。
その違いと、似通った部分とを実感した。
レンは静かに苦笑いを浮かべた。
以前なら、淡々と言葉を零し、曇りのない笑みを見せていただろう。含みのある表情をする人ではなかった。
「私ね。話せないことも、話してくれないことも、もどかしいわ」
「ッ……」
「でもね。これだけは言わせて。壊れていようが、なかろうが、貴方は貴女なの」
クマのぬいぐるみを抱きしめる腕に、少し力が込められた。レンはサイドテーブルへぬいぐるみを戻した。ぬいぐるみのマントが、少し靡いた。
「……其れ、あいつにも言われました」
「あいつって、アルベルトのこと?」
「そうです」
「納得してないみたいね」
「……完全に壊れてしまう前に、私は——」
レンはぬいぐるみをじっと見つめた。
何かを思い出そうとしているのかもしれない。
上書きされてしまった記憶が戻るとは思えない。
彼女は、今までどうやって来たのだろうか。
失われていく記憶を、どうやって補完してきたのだろう。
考えてしまうことを、マリアは止めた。
折角、レンに会いに来たのだ。
考えるだけなら、帰ってからでも出来る。
「ねえ」
マリアはレンを抱きしめた。
抱きしめて分かったが、思っているよりもかなり痩せてしまっている。
マリアは抱きしめる腕に力を入れ、もう一度抱きしめた。
「何……?」
「大丈夫、大丈夫よ」
マリアは微笑んだ。心から微笑むことが出来た。
「アルベルトなら、きっと今の貴女を受け止めてくれるわ」
きっと、守ってくれるだろう。
ヴェルローラの残党からも。
心も、身体も。
——レンという存在も。
ゆっくりと、体を起こした。レンの青い瞳は、真っ直ぐにマリアを見つめ返す。
「マリア、私は——」
「珈琲が入ったぞ」
台所から、アルベルトの声がした。アルベルトが話に割って入るような人物でないことは分かっている。話も聞こえていない素振りではなく、本当に聞いていなかったのだろう。
気遣いに感謝しつつ、マリアはアルベルトへ振り返った。
「今、何か……」
レンへ振り返ったが、口元を閉めてしまっていた。
何を言いかけたのかは気になるが、口をつぐんでしまったようだ。
反応のないレンを気遣ったのか、アルベルトはカップを両手に持った。
「部屋へ運ぼうか?」
「あら、飲みに行くわよ。ほら、貴女も」
「え、あ……」
マリアは手を差し伸べた。
驚くレンは、その手を受け取らない。
「え、起き上がれない?」
「…………」
押し黙ってしまった彼女へ、マリアは目を閉じた。
彼女の鼓動が聞こえてくるようだった。
マリアは差し伸ばしていない方の手を、胸に当てた。
「いい? 言葉にすれば、成らぬものも成るの。壊れているっていえば、壊れていくものなのよ」
足音が聞こえ、アルベルトも部屋へやってきた。心配そうに、顔を覗き込む。
「どうしたの? 立てるでしょう? 貴女は、ちゃんとまだ自分の足で立てるわ」
「…………」
「為せば成る。言葉にしたり、口にすれば、成る。そういうものなんでしょ? それとも、何かおまじないが必要?」
レンは何か言いかけると、言葉を飲み込んだ。そして、マリアの手を取った。
「ううん。大丈夫。……珈琲、久しぶりだなあ」
「あら、折角アルベルトと暮らしているのに……」
「ティニアは紅茶が好きだからな」
「そんなこと無いよ。僕は珈琲も好きだよ」
レンはそういうと、口元に手を当てた。
紛れもなく、ティナの癖の一つだ。
偶然かもしれないその仕草一つに、マリアの心臓は大きく音を鳴らした。




