㉘-2 風
ティニアはフリージアを迎えに、孤児院へ向かった。
独り家に残されたアルベルトは、ベッドから起き上がった。ティニアが座っていた椅子の背もたれに触れた。椅子の上には、ヘルマン・ヘッセ著の小説『荒野の狼』が置かれている。
アルベルトは、その本を手に取った。
挟まれている手作りの花の栞を落とさぬように、ぱらぱらと捲っていく。
読んでいるというよりも、見ているだけに近い。
前に読んだ時も、同じことをしたような気がする。最後に読んだのは、いつだったか——。
「正直に言うと、そこまで好きな内容じゃなかったような……」
アルベルトは自虐のように一人笑った。
内容の批判をしたいわけではない。自分の価値観が変わってしまったのだ。昔と今では、言葉そのものの捉え方が違っている。
先ほどのティニアの笑顔が心に浮かぶ。
彼女の穏やかな笑みは、久々に見たような気がする。
アドニスが語ったという話は、それほど面白い話だったのだろう。
ページを捲る指が、不意に止まった。
「あった。マリアだ」
そのページでは、キャラクターの一人であるマリアが登場していた。前読んだときも、この辺から面白くなったと記憶している。
アルベルトは最初のページを目指すように、後ろから捲っていった。その間も、ティニアの栞が落ちないように気を遣った。
そして、ある部分で手を止める。
「孤独は独立である……」
指を添えて、一語一語を口に出していく。
「……不思議で、静かで、……偉大だった」
あの時も、この言葉に随分と惹かれた。
惹かれていた、という表現はどこか合わない。
「溺れていたんだな。孤独という言葉に……」
ティニアが言うように、アルベルトは『荒野の狼』の主人公に似ているのだろうか。
魅力溢れるヒロインのマリアよりも、ずっと目に映るのは——。
アルベルトが独り言を呟いた時、玄関のドアの開く音がした。
すぐにフリージアの、少女らしい甲高い声が聞こえてくる。
パタパタと小走りする足音が近づくと、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「アルお兄ちゃん! 入ってもいいですか?」
「ああ、構わない」
ドアを開け、顔を覗かせたフリージアは、アルベルト目掛けて駆け出した。
「お兄ちゃん!」
「わ、フリージア!」
両手を広げたフリージアは、アルベルトに抱き着いた。
熱があるせいだろうか、反応が一瞬遅れた。
「転んだらどうするんだ」
「熱が出たって聞いたのです! 具合は? 大丈夫なのですか?」
言葉と共に、その銀髪が大きく揺れる。
長い銀髪を見ることも、アルビノに出会うことも、そう多くはないはずだ。今まで感じたこともないような、とても懐かしいような気持ちが、じんわりと湧いてくる。
一瞬。ポツダムで出会った少年が心に浮かんだ。
「お兄ちゃん? やっぱり、具合が悪いのですか!?」
「い、いや。大丈夫だ……。ティニアは?」
「ティニア様は、夕飯の準備をするって! あ、あたし手伝うって言っていたのです!」
フリージアは顔を上げると、すぐに部屋を出ていった。
まるで風のように軽やかなその姿に、アルベルトは笑ってしまった。
——風。
戦場の風は、まさに昌運を運ぶ。
勝敗を決めるのは勿論のこと、命を弄ぶ。
——風。
嫋やかさは乙女のように柔らかく、山峰のように気高い。
黄金に煌めく風のように——。
アルベルトはベッドから起き上がる。
裸足のまま、床へ足を下ろす。
それは冷たかった。
ああ、地面に足を下ろしている。
この世界の現実に、自分は足を下ろしている。
今を生きている。
何故か、そう感じた。
アルベルトはリビングへ足を踏み入れた。




