㉘-1 おおかみ
マリアがラウルと出会う、その少し前——。
アルベルトは不眠から来る体調不良で仕事を休み、ベッドで横になっていた。
ティニアがフリージアを連れて孤児院へ行って、どれくらいの時間が経過しただろうか。
どうやら眠っていたらしい。まるでおとぎ話に出てくる魔法にでもかかったように、身体は驚くほど軽い。胸にあった鉛の痞えが消えている。
耳元で、紙を捲るような音がした。
ぼんやりとした頭を奮い立たせ、重たい瞼を開ける。
目の前には、自室の天井があった。
「もう少し寝ていてもいいのに。まだ十四時だよ」
耳に降ってきたのは、思った以上に心配そうな声だった。
短い金髪が揺れる。
ティニアだ。
「お前、……孤児院は?」
「フリージアなら、シャトー婦人に預けてきたよ」
「そうじゃなくて……。孤児院は休んだのか?」
「代わってもらったよ。どうしたの? ……怖い夢でも見た?」
「い、いや——」
ティニアはゆっくりとした動きで、アルベルトの頬に触れた。指は、そのままアルベルトの額へと移った。ティニアの指先は少し冷たく、心地よく感じられる。
彼女の服の擦れる音だけが、耳に入る。
「うーん。少し下がったけれど、まだ熱があるね」
夢でも見ているのだろうか。アルベルトはティニアの手を掴んだ。
ティニアは目を丸くしたが、すぐに苦笑いを浮かべた。
「どうしたの。もしかして、寝惚けてる?」
ティニアはくすりと笑った。
彼女に看病されているのだと理解するまで、時間を要した。
ティニアはさも当たり前のように、アルベルトの側に居る。
ティニアを掴む指に、一瞬だけ力が入る。
その指に、ティニアは手を重ねた。
「お願いだから。辛いなら、そう言って欲しい」
どうして、診療所へ行かなかったのか。
仕事を自分なんかのために休むべきではない。
看病されること自体、初めてだ。
堪らなく嬉しいと感じる反面、罪悪感や劣等感が湧き上がる。難解な性分であるせいか、素直に受け止めることが出来ない。
「……俺なんか、放っておけばいいんだ」
「またそういうことを言う。一緒に居たいのか、居たくないのかはっきりしないんだね」
「そ、それは——」
「君が、側に居てくれって言ったんでしょ?」
「……お前が俺の側に居たいと思ったんじゃないのか? 俺が言ったからなのか?」
ティニアは寂しそうに笑う。
「何? 枕にならないから、拗ねているの?」
ティニアは悪戯っぽく首をかしげ、髪を耳へ掛けた。
「ま、まさか……」
「ほら、無理しないで寝なよ。ね?」
「……ありがとう」
「ううん」
ティニアはベッドの脇にある椅子へ腰かけた。手には本が握られている。
「ヘッセか……?」
「うん」
「好きだなあ」
「君もね……」
自然と出た言葉に、アルベルトは気恥ずかしくなった。
本音を彼女に伝えるのは、一体いつになるだろうか。
「……何のやつだ?」
「ん、タイトル? “荒野の狼”だよ」
「荒野の狼か。どんな話だったか……」
「読んだことがあるの?」
「読んだとは言えないかもな。流し読みしただけだ」
「意外と適当なんだね」
起き上がろうとしたアルベルトを見て、ティニアは立ち上がった。
座っていた椅子に本を置くと、ティニアはアルベルトの体を抱きかかえるように触れた。
そのまま、ティニアの力を借りて起き上がる。
「悪い。読んでたんだろ?」
「ん-。読んだところまで、また捲ればいいだけだし。水でも飲む?」
「いや、まだいい」
ティニアは本を取ると、また椅子に座り直した。
慣れた手つきで、本をぱらぱらと捲っていく。
「僕はまだ全部読んだわけじゃないから、ネタバレはしないでね」
「まだ読んでない本があったのか。……それ、ネタバレを楽しむような内容じゃないだろ」
「辛辣だなあ」
そういうティニアは少し笑っていた。
「後半から、マリアが出てくるんだよな」
「へえ。この後マリアさんが出てくるんだね。……ネタバレじゃん」
「最初はバカにしたように接するのに、徐々に自然に生きる彼女に惹かれていくんだ」
「ちょ、ちょっと! 君さ、話の先を言うなんて、意地悪だね!」
「はは。悪い……」
ティニアの口元が緩む。本気で怒っているようには見えない。
その唇から、言葉が漏れた。
「君は——」
「うん?」
「君は、この主人公にとてもよく似ていると思う」
「……ええ? ハリーにか?」
「似てない? こことか」
「どこだよ。どちらかと言ったら、お前に似てると思うが……」
「ええ~」
笑いながら、ティニアは文字を指で滑らせていく。
まるで、アルベルトを表す言葉を探すかのように。
しかし、ふと手を止めると、ティニアはまた笑いだした。
「何だよ」
「ううん。君の名前、アルベルト・ワーグでしょ?」
「確かにワーグだが……」
「やっぱり狼だったんじゃないか」
頷くティニアは、本で顔を隠しながら震えた。どうやら笑っているようだ。
「何を言うかと思えば。そういうお前も、狼なんじゃないのか?」
「……どういう意味?」
ムスッとした表情を浮かべるティニアは、本を畳んだ。
「そうだな……。孤高というか、独りでも平気そうだったり……」
「えー! だって、ボクはおおかみなんかじゃないし——」
ティニアは我慢出来ないほどの笑いが込み上げてきたように、笑い出した。
「どうしたんだよ、急に」
「いやあ……。伝承とかって、伝え聞いていくうちに所々変わっていくじゃない?」
「それがどうしたんだ」
「ふふふ……。ついこの間、アドニスから聞いた話を思い出しちゃってね」
「どういう話だ?」
「……遠い、遠い昔の話だよ。人伝いに広がっていった話というのは、尾ひれが付くなあって」
ティニアはそう言うと、寂しそうに笑った。




