㉖-5 女教皇
マリアは、慌ただしい業務を終えた。
充実した日だった。
その日は売れ残る花がないほど忙しく、悩んでいる暇などなかった。
おかげで、売れ残った花束や植木鉢を、孤児院や教会へ運ぶ作業もない。
ミランダとメアリーに挨拶をすると、店を後にした。空へ向かって、腕を大きく伸ばした。
「んー! 気持ちいい日ね」
太陽は高く、晴れ渡っている。気持ちのいい午後だ。
だが、マリアの心はティナの言葉も、夢のことも引っかかったままだ。
マリアは、アルベルトに出くわした日のことを思い返していた。
ティニアのことを語るべきではないと決めてから、塞ぎ込んでしまっていたように思える。
自分は、何がしたいのか。
レンのために、何をしたいのか。
今までのマリアは靄に埋もれたまま、その靄を掴もうとしていた。
アルベルトと話せたことで、マリアの目的は定まろうとしていた。
目を閉じれば、思い出せる。
アルビノの少年、レンに言われた言葉を——。
『生きて』
ただ流され、闇雲に生きろという意味ではないだろう。
平和に、穏やかに、拳銃などとは無縁の世界で生きられたら——。
マリアが生きていけるように、レンは真実を語らないのかもしれない。
それでも今は、生きていくために真実が知りたい。
今なら、それがはっきりと分かる。
歩けば、少しは考えがまとまるかもしれない——そう思った時だった。
背の高い眼帯をした男が、人混みをかき分けていった。
黒い外套を着込んだ男は、どこか浮いている。
「嘘——」
マリアは立ち止まった。
男は、そのまま人の波に埋もれていった。
「待って——」
気付いた時には、駆け出していた——。
◇◇◇
人気のない裏道だった。
まるで誘い込まれたかのような、明確な焦りが溢れていく。
男は歩いているのにもかかわらず、マリアは追いつくことが出来ない。
「待ってよ!」
行き止まりであろう路地へ曲がった時、その男は目の前に立っていた。
後を追うマリアに、男が気付かないわけがない。
「一体何をしに来たの?」
ラウルは右眼に眼帯をしている。そしてその下には、金色の瞳があるのだろう。
「答えて、ラウル……!」
「…………」
ラウルは無言のまま、マリアを足元から眺めた。
「ティナや私に、会いに来てくれたの……?」
「俺の名を知っているということは、奴から話を聞いたのか」
「……! あんたの名前だけじゃないわ。あんたが過去に何をしたのかも——」
周りのことなど、目に入らない。
路地には、自分たちのほかに動く気配はない。
「ラウル、貴方は今、どこで何をしているの……?」
「…………」
「ずっと一人で、辛かったでしょう……?」
ラウルは無反応だった。まるで機械のように、表情は何一つ動かない。
その時、マリアは思い出す。
ティナは言った。
ラウルはレスティン・フェレスで作られ、全身が機械で出来ていることを。
「戯言を」
「……冗談を言い合う余裕なんてないわ。貴方、本当に機械で出来ているの……?」
「ほう。少しは学んだか」
ラウルの声は笑っているように聞こえるが、表情が変わったようには感じられない。
「どこまで話を聞いている?」
「……ここで話をしても大丈夫なの?」
周囲へ視線を送るマリアの問いかけに、ラウルは溜息を吐いた。
「俺がそんなミスをするわけがない」
「……そう。安心したわ」
「ヴェルローラは殆ど壊滅することが出来た。とはいえ、油断はできないがな」
「壊滅……? じゃあ、ラウルはもう大丈夫なのね……」
「俺の心配をしている場合か?」
ラウルはそういうとシチリア島でしたように、マリアの目の前へ顔を近づけた。
「ど、どういうこと……?」
不安が、マリアを駆け巡る。
ヴェルローラの狙いは、自分にある。
そのことを言っているのだろうか。
ラウルは青い瞳で、マリアを見据えた。
まるで、全てを見透かすかのように——。
「お前は、自分のことについてどれだけ知っている?」
ラウルの問いかけに、マリアは頷いた。
何故、今そのことを問うてきたのか——。
「ケルンメンシュだってこと、心臓が機械で出来てるってこと——」
「あいつがそう言ったのか」
マリアが言い終わらぬうちに、ラウルは言い放った。
自分の息を吸う音だけが、耳に聞こえた。
「どういうこと?」
「あいつは結局、お前に何も話せなかったということか」
「そんなことない! ティナは……。レイスは、私に説明してくれたわ!」
「ふん。お前はケルンメンシュだとでも言ったのか」
「そ、そうよ……」
ラウルは目を閉じた。表情を一つも変えなかった男が、口元に笑みを浮かべる。
「じ、じゃあ、私は何なのよ……!」
ラウルの口元から、笑みが消えた。
「お前は特別に作られた、ムッターゲフェース——母なる器だ」
「…………。な、に……?」
話が、よく理解できない。
歯が音を立てた。震えが止まらない。
「尤もらしい事実だけを並べ、核心を話さない。成程、変わらんな。あいつはそういう奴だ」
ラウルは静かに目を閉じた。
「ヴェルローラを壊滅出来そうな今、お前に目覚められると困る」
「…………」
言葉が出てこない。
何が、どういうことなのか。
震えるマリアに対し、ラウルは眼帯を外した。
眼帯の下は、記憶の通り金色の瞳だった。
レンの瞳だ。
そんなことを考える余裕もなく、ラウルの言葉は耳を通り抜けていった——。




