㉖-4 節制
アルベルトは、そっとティニアの肩や腰に腕を回した。
ティニアは強張ることなく、その身を委ねてくる。
許された抱擁だからなのか、ティニアがより柔らかく感じられた。
アルベルトの胸の奥で絡まっていた糸が、ゆっくりとほどけていく。
「——ねえ」
沈黙に耐えられなかったのか。それとも厭になったのか。
ティニアの声が、腕の中から聞こえた。
夜明けの町の静けさが、彼女の心音を聞かせる。
さらに、自分の心音と、部屋の掛け時計のこつこつとした音が重なる。
「……どうした?」
「このままでいいの? これで君は安心できるの?」
「ああ。安心できる」
「そっか。不安だったんだね……」
「……いきなり抱きしめたり、今まで悪かった」
ティニアはアルベルトの腕の中で、頭を横に振った。
「……僕、君のことが、分からないんだ」
「俺一人くらい、分からなくたっていいだろ」
「昨日の……、喧嘩したままだったら、どうしようかと思った」
「喧嘩か……。そしたら、お互いでまた謝ればいい。これからはそうしよう。俺はお前の傍にずっと居たいと思っている」
ティニアは何も答えなかった。
このまま時間が止まってしまえばいい。
二人だけの空間で、二人だけで存在できればいい。
名残惜しそうに腕を解く。ティニアは胸を抑え、今にも泣きだしてしまいそうな表情を浮かべていた。
苦しんでいるようにも、悲しんでいるようにも思えなかった。
つい、その頭を、髪を撫でてしまう。
ティニアは落ち着かない様子で、アルベルトの服の裾をつついた。
「今日、仕事休んでよ」
「……そういうわけには」
ティニアの我儘は珍しく、そして唐突だ。
「僕も休むよ……」
その言葉は、素直に嬉しかった。
不意に、服の裾をつつくティニアの手が、銀色に煌めいた。
きっと懐中時計だろう。
ティニアは何かを思い出せたのかもしれない。
彼女が今もそれを持っていることに、アルベルトは心を撫で下ろした。
だが、孤児院を尋ねてきた男の姿が脳裏を過ぎる。男からのプレゼントだったら——。
アルベルトの脳裏と胸に、ぷすりと針が刺さった。
何かが頭に浮かび——刹那、それらは消えていった。
いつもなら耐えがたいその痛みも、今は静かに受け止められたのかもしれない。
彼女と向き合うのであれば、彼女の秘密ごと受け止める必要があるのだろう。
アルベルトはなるべく微笑んだ。
「……わかった、休むよ」
「そう、良かった。ありがとう……」
本当に嬉しそうに、ティニアは微笑み返した。
「いや、お礼を言うのは俺の方だよ。……フリージアはどうするんだ? 孤児院に連れて行こうか?」
「ううん、僕が孤児院に頼んでくる。フリージアね、昨日から文字の勉強を始めたの。君が寄付してくれた、星の王子さまを読んでる。とても楽しそうなんだ」
「そうか。それは良かった」
「うん。連れて行って良かったと思えたんだ。……どう? 眠れそう?」
顔を上げるティニアはアルベルトに近づいた。呼吸も届く距離だ。アルベルトは衝動を抑えつつ、彼女の頭を優しく撫でる。そのまま髪をいじり、優しく手櫛する。
「……添い寝でもしてくれたら、眠れるかな」
一瞬だけ、沈黙が流れた。
「いいよ」
その言葉が嬉しかった。例えそれが、心配から出た言葉であったとしても。
アルベルトはティニアの髪を掬うと、指先で遊んだ。
どうしていいのかわからず、ティニアは困ったように見上げてくる。
困らせたいわけではない。
自我を制し、なんとか彼女から離れた。
「……もう少ししたらフリージアを孤児院へ送って、診療所にも連絡を入れるね。そしたら、一緒に居られるから」
——嬉しかった。
それなのに、切なさで心臓が苦しい。
「いいから。お前は普通に出勤するんだ」
——何故だろうか。彼女の優しさや気遣いを、素直に受け入れられない。
「でも、それじゃ君が——」
「心配するな。ちゃんと休んでいるから、お前は普段通りにしていたらいい」
「……本当に大人しくしてる?」
少しむくれたように、疑うような視線を向けてくる。
「ああ、今日はちゃんと休む。親分からも忠告されてたからな。あの人、そういうの破ると五月蠅いし」
「それなら、親分には僕が知らせるよ。君はとにかく休んでいて」
「わかった。ちゃんと休むから、な」
アルベルトの言葉に、ティニアは胸を撫で下ろした。




