㉖-3 力
控えめなノックの音が鳴り、アルベルトは気怠そうにドアへ視線を送る。
窓の向こうはまだぼんやりと薄暗く、明け方であることが分かる。
「……鍵、かかってないぞ」
応答はない。
長い夜を眠れなかったせいで、アルベルトの額はじんわりと汗ばんでいる。その汗を拭うように、ソファから起き上がる。
ドアを開けると、そこにはティニアが寝巻のまま立っていた。ティニアは視線が合った瞬間に俯いてしまう。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
驚いたのはアルベルトの方だ。ティニアは頭を下げた。
「昨日はごめんなさい」
「いや……。悪いのは俺だ。一方的に、感情的になって……」
ティニアは首を横に振った。短い金髪が、大きく揺れた。
アルベルトは言い淀み、押し黙ってしまう。
ティニアは不安そうに唇を震わせた。
アルベルトは拳に力を入れた。
「……お前の気持ちを考えなかった。疲れているのは分かっていたのに」
ティニアは俯いたまま、首を何度も横へ振った。
アルベルトの視界に、白銀の髪が見え隠れした。どうやら、フリージアが聞き耳を立てているようだ。それが単なる興味ではなく、心配しての行動であることは十分理解している。
「……ちょっと、部屋に入れるか?」
「え……、うん」
ティニアは警戒するように、部屋の中へと足を踏み入れた。アルベルトは、ゆっくりとドアを閉める。
鍵はかけなかった。
ティニアを怖がらせないよう、ゆっくりと振り返ったアルベルトは、不眠から軽い眩暈に襲われる。
「う……。くそ……」
「だ、大丈夫……!?」
「……ああ、大丈夫だ」
アルベルトは崩れ落ちるように、ベッドに腰を下ろした。
呆然と立ち尽くしていたティニアだったが、迷ったようにその隣へ腰を下ろす。
軽く三日は眠れていない。アルベルトは不眠から、自身の頭が冷静ではないことに気付いた。
こんな状況下でも、隣に座ってくるティニアに、心が躍る。
しかし、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
不安定な関係。
心の不安を取り除きたい。
それらは、一方的な我儘でしかないのだろうか。
「ごめん。僕のせいで、また眠れなかったよね……」
ティニアの声は震えていた。
「いや……」
「僕は、君を傷つけて、振り回してばかりだ」
「いや、俺の方だよ」
ティニアの名前は、本当はレンであるということ。
レンは、中世ドイツの貴族——アスカニア家に恩があるという。
知人から聞いた話でしか知らないことに、心が痛む。
それらを、彼女が語る事はないのだろうか。
不意にアルベルトは、自分はどうであったかを思い返した。
自分から、彼女に過去を語ったことはない。語れるような軽く、明るい話題ではないからだ。
それは、彼女も同じなのではないだろうか。
生きるためであったとしても、決して許されることではないことをしてきた。
例え、それが戦争であったとしても——。
アルベルトは、以前ライン川にかかる橋の上で話したことを思い返す。
目の前の彼女に言われた。戦争への後悔を抱えて欲しいのか、と——。
そしてはっきりと告げられた、抱えようとは思わないという彼女の正直な意思表示。
戦争の苦しみはアルベルト自身だけの苦しみであり、それを誰かに分けるなど以ての外だと言った。
人肌を求め、愛情を乞えば捨てられる。
打たれ、蹴り飛ばされ、一切れのパンすら受け取れない。
そう孤児院で学び、売られ、軍学校へ進学した。
全部、わかっていたことだったのに——。
戦場以外では、相手を欺き、嘘を並べ立て、直接ではないものの、多くの命を奪うこととなった。
いつしか嘘を重ねることに慣れ、惑わすことを得意とし、演技を続けてきた。
そんな自分が、平和な日常を望んだ理由。
平穏な世界へ足を踏み入れたくなった理由。
理由は一つだ。
「………………」
沈黙してしまったアルベルトへ、ティニアは心配そうな眼で見上げてきた。その表情がたまらなく愛しく、抱きしめたくてたまらない。
アルベルトは、自身の欲情にも似た想いに罪悪感を抱いた。
同時に、アルベルトを再び眩暈、そして吐き気が襲う。
今は弱さを見せたくはない。それでも、彼女はきっとそんな自身の弱さを見抜いてしまうだろう。
「今日は無理しないで。仕事も休んでよ……」
「親分に、何か言われたのか……?」
「ううん。見ていれば、わかるよ……」
ティニアは、アルベルトの頬に指で触れた。
彼女の指は、とても冷たい。
心地よい刺激が、全身へ駆け巡る。
「少し、いいか」
「なあに……?」
アルベルトはゆっくり立ち上がると、手や腕を広げた。
再び抱きしめられると思ったのか、ティニアは体を強張らせた。しかし、アルベルトはその姿勢のままティニアの返答を待った。
ティニアは首を傾げると、その愛くるしい顔で苦笑いを浮かべる。
「い、いつも急に抱きしめるのに、……今度はどうしたの?」
「いつも急で悪かったな」
気恥ずかしくなり視線を外すアルベルトに対し、ティニアは困ったように頬を指先で掻いた。
「うん。その、びっくりしちゃう、かな……」
「……そうか。お前に、抱きしめてもいいのかを聞くべきだったな」
「ええ、何それ…………」
いつものように引くわけでもなく、頬を赤らめるティニア。
こういったことに慣れていないだけなのか、それとも気恥ずかしいだけなのか。
意図せず上目遣いになったティニアの瞳、そして唇に、アルベルトの視線は吸い込まれた。
「抱きしめられたら、許してもらえるの?」
その唇が、静かに動いた。
「いや、許すとかそういう事じゃないんだ。ただ、俺が安心したいんだ……」
アルベルトは乱れた呼吸を落ち着かせると、ティニアを見つめ直す。ティニアは目を逸らすことなく、真っ直ぐ見つめ返した。
先ほどまでの沈黙とは違う空気に、ティニアは息を飲んだ。
「今、お前を抱きしめてもいいか、教えてくれ」
「…………」
ティニアは唇に力を入れた。目を閉じると、眉間に皺を寄せる。
苦痛を感じているように見えた。
そんなにも拒絶されることなのかと思い、アルベルトは腕を下げた。
項垂れるアルベルトに対し、ティニアは困ったように口を開く。
「……どうしたらいいの? その、抱きしめられる、って…………」
「え……。あ……」
ティニアは今までに見たこともないような頬を赤らめた表情で、視線を外していく。指先が震えていることに、アルベルトは気付いていた。
「何もしなくていい。その、委ねてくれたら……」
「……わかった」
ティニアはアルベルトの胸へ顔を埋めた。その動きは、まるでスローモーションのようにゆっくりだった。




