㉖-2 隠者
それはスイスのシャフハウゼン、シュタイン・アム・ラインにある小さな教会。
明朝の教会内を、長い金髪を靡かせた女性が、祭壇を目指し静かに歩いていた。
彼女の名を、ティナ。
コードネームはレイスという。
機械の心臓が埋め込まれていること以外は、人間の身——彼女はケルンメンシュだ。
ステンドグラスの光を浴びるような、美しい祭壇。その前で、片膝をついた。
そして目を閉じたまま、手を合わせた。
神父不在の静まり返った教会内には、遠くで鳴る鐘の音だけが響く。
「ラウル……。どうして、姉である私に声をかけてくれないのですか」
ティナは呟く。
「私は、貴方を一人にしてしまいました。それを、貴方は怒っているのでしょうか」
普段のティナは、長い金髪を三つ編みに結わえており、胸へと垂らしている。この日のティナは長い髪を垂らしたままだ。その髪を揺らしながら、ティナは祭壇の上——十字架を見上げる。
「今の私に、詩阿としての力があれば……」
遠い記憶が胸を過ぎった。
地球から遠く離れたレスティン・フェレスでは、それなりの力を得ていた。
その力は、今の自分に一つも存在していない。
「お願いします……。地球の神よ、精霊よ……」
ティナは胸に手を当てた。
神々しいステンドグラスの光は、幾重にも重なる。
「どうかラウルを、……レンを、マリアを守って……。お願いします……」
ティナは頭を下げ、尚も祈りを捧げ続ける。まるで許しを乞うように——。
◇◇◇
ティナが祈りを捧げるのと同時刻、エーニンガー通りの先にある小さな平屋の家で、金髪碧眼の女性ティニアが目覚めた。
起きだしたティニアの動きによって、隣で寝ていた少女フリージアは目を覚ましたが、彼女はそれに気付かない。フリージアも睡魔に勝てず、そのままベッドで惰眠をむさぼるように寝返りを打った。
重苦しい心のまま、ベッドから起き上がる。寝間着も着替えぬまま、恐る恐る部屋の扉を開ける。薄暗く静かなリビングが目に入る。
向かいの部屋は、既に明かりが灯っていた。それは同居しているアルベルトの部屋である。あの明かりは、昨晩から続く明かりなのか、ティニアにはわからない。
「………………」
ティニアは一度部屋に戻ると、ベッドの脇にあるサイドテーブルへと向かう。
そこには、くまのぬいぐるみと、懐中時計が置いてあった。
フリージアは、特にこの懐中時計を気に入っているように見えた。
懐中時計を指で触れる。
これが何であるのか、自らの記憶にはない。
長い沈黙の末、煌めく懐中時計を手に取ると、震える手をかざした。どうしてそうしようと思ったのかは分からない。
懐中時計はカチリと音を立てると、その文字盤を露わにする。
しかし、ティニアの視線は文字盤には注がれなかった。
オレンジ色の花びらが、懐中時計の文字盤の上に何枚もしまわれていた。
花びらはティニアの指をすり抜け、散っていく。
こつんと音を立て、何かが床へと落下した。
「あっ…………」
小さなリングだ。ティニアは、そのリングへと手を伸ばす。
指は震えているというより、緊張して強張っている。
自分なんかが、触れても良いのだろうか。
戸惑いながらも、ティニアはリングを拾い上げた。
「これは……指輪? 埋め込まれた宝石は、ルビー? ううん、ガーネットだ……」
煌めく石。
誰かのとても大切な、想いのこもった指輪であることが分かる。
そっと指輪を文字盤へ重ねる。
白い文字盤に、銀色の針。
その文字盤にも、見覚えはない。
散ってしまった花びらを、慎重に拾っていく。
一枚一枚、すくい取るように。
そして、花びらを文字盤へ戻した。
何故文字盤の上に、これらが納められていたのか——。
ティニアには何も分からなかった。
やはり、この懐中時計は自身の物ではないのではないだろうか。
アルベルトが嘘をついているとは思えない。
『ティニアが、大切にしている時計なんだ』
アルベルトはそう言っていた。しかし、何度思い出そうにも、記憶にはない。
溜息をつくと、静かに懐中時計の蓋を閉めた。
カチャリ。
軽い音が、部屋に響いた。
「私は愚かしい存在ですね」
「ティニア様……。あんまり、自分を責めないで」
白髪というよりは白銀に近い髪を持つ、十歳前後のアルビノの少女——フリージアは、ベッドから起き上がった。
何も言わぬティニアの服の裾を、軽く引っ張る。
「ティニア様、大丈夫?」
無邪気な少女の表情は曇ったままだ。
「ご、ごめんなさい。起こしてしまいましたね」
「あの、おかえりなさい」
「ただいま……」
「ティニア様、なんだか元気がないように見えます。あたしにまで、気を遣わなくても……」
「気を遣うなんて、そんな事ではないのですよ」
「ティニア様、いつもと違う口調だから……。大丈夫ですか?」
「あ…………」
フリージアの指摘に、ティニアは目を見開いた。
頭を強く左右に振ると、目を閉じた。眉間に皺を寄せ、何かを耐えるように。
「ごめん。そうだよね。変だよね」
「あの、ティニア様」
「……何?」
「アルベルトお兄ちゃんに、想っていることを相談してみるのはどうでしょうか。お話するのって、とっても大切だから」
フリージアは無邪気に微笑む。
「うん、そうだね」
「はい。お兄ちゃん、きっと待っていると思います」
「ありがとう。……ちょっと行って来るね」
ティニアは懐中時計をサイドテーブルへ置くと、部屋を出た。
アルベルトの部屋の前に立つと、躊躇いながら何度もノックをしようと試みる。
何度も深呼吸をすると、漸く再びドアに手を近づける。それでも手は震え、ノックをすることが出来ない。ティニアは目を閉じるともう一度深呼吸をした。




