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暁の芽吹 -レスティン・フェレスⅠ  作者: Ruri Lesewolf
Episode26「運命の輪」
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㉖-1 月

 住み慣れた家は薄暗く、ランプが一つ灯してあるだけだった。

 アルベルトは足音を聞くや玄関まで駆けると、帰宅の主よりも先にドアを開けた。


「ただいま……」


 気付けば、アルベルトはティニアへ腕を回していた。ティニアは一拍遅れて、体を強張らせる。


「良かった……」


 気付けば言葉が漏れ出ていた。

 抱きしめる腕に力が入る。


 昼間、ティニアは孤児院を尋ねてきた眼帯をした男に手を引かれ、町へと消えた。

 見知らぬ男に、無理やり連れ去られたようにしか見えなかった。

 彼女の手を掴めなかったことを後悔し、平和呆けした自分を責め立てていた。


 シュタイン・アム・ラインの町を駆け回るも、二人を見つけることは出来なかった。

 焦りと不安は、眠気など払い退けてしまった。

 眠れるはずがない。


 寝るように懇願するフリージアを寝かせ、一人リビングのソファーで項垂れた。

 夜、暗くなっても帰らない彼女を思うと、胸が張り裂けそうだった。


 そのティニアが今、自分の腕の中にいる。

 このまま抱きしめていたら、自分は何をするか分からなくなりそうだ。


 湧き出る感情を抑え、なんとか彼女から体を起こした。

 過去の経験から、悪いことをしたなら打たれるかもしれない。反射的に、アルベルトは身構えた。しかし、ティニアは心配そうにアルベルトを見上げていた。


「……起きていたの? 僕、遅くなるって——」


 ティニアは擦れたような声色で、アルベルトを見上げる。拒まれたようには感じられない。


「心配してたんだぞ……」


 再び無意識に言葉は溢れ出し、気付けばティニアの頬に触れていた。

 ティニアの頬は人肌とは思えないほど冷たく、やつれているようにも感じられる。


 ティニアは驚くことなく、アルベルトの手に寄り添う。そして、目を閉じたまま頬をこすりつけた。

 思いがけぬ彼女の仕草に、心臓が飛び跳ねる。


「急にどうしたんだ……」

「え、いや……。これはその……」


 ティニアは自身の行動に気付いていなかったのだろうか。

 ティニアの呼吸が、音もなく繰り返される。


 彼女の唇が近い。

 ティニアの青い瞳が、潤むように揺れる。その瞳に、アルベルトの顔が映っている。

 ティニアはゆっくりとした手つきで、アルベルトの腕に触れた。


「腕、大丈夫……? 痛みは……」


 ティニアが言っているのは、眼帯の男に振り払われた、腕の事だろう。


 あの男の動きには、全くと言っていいほど、隙がなかった。

 戦時中の自分であれば、軽く避けられただろう。


 あの時、ティニアの手を掴むことが出来なかった。

 彼女を失ってしまったのではないか。取り返しの付かぬ事をしでかしてしまったのではないかと——。

 

 押し黙るアルベルトを見上げ、ティニアは口を開く。


「……また、眠れなかったの?」


 ティニアはアルベルトの頬に触れた。指先が、震えている。


「お前が心配だったからに決まってるだろ。どれだけ心配したか……」

「…………」

「本当に大丈夫なのか? どこも怪我は……」

「大丈夫だよ。……心配かけて、ごめんね」


 長いまつげが、瞬きで動く。暗がりでよく分からないが、頬が赤く染まっているように見えるのは、ランプの光のせいだろうか。

 こんな時に見惚れている自分に対し、嫌気が差す。


「……フリージアは?」

「もう寝ているよ」

「……そっか。そうだよね」


 アルベルトは、先ほどよりも優しく抱きしめた。

 服の擦れる音だけが、部屋に響く。


「あいつは誰なんだ」


 抱きしめたまま、彼女の耳元でそう言った。

 彼女からの返答はない。


「話せないことなのか?」

「……うん」

「そうか」


 結局、彼女は何も語らない。

 急に厚い壁が、ティニアとの間に立ち塞がってしまったかのようだ。


「もう寝ようよ。僕、疲れているんだ——」

「俺の気持ちが分からないわけじゃないだろ……?」


 ティニアは一瞬だけ視線を上げた。だがすぐに目を伏せ、力なく項垂れた。


 アルベルトはティニアを見下ろすと、ティニアの両肩を掴むように構えた。

 俯くティニアは、拒んでいるように見えた。


 そんなにも、自分の想いは彼女を苦しめるのだろうか。

 それでも、この気持ちを抑えることは出来なかった。


「キスしていいか」


 ティニアの青い瞳が、ぱっと開いた。瞳はよりランプの明かりを反射した。

 アルベルトの指に、一瞬だけ力が籠められる。

 拒まれないのではないかと、淡い期待が込み上げる。


 しかし、ティニアは堪えるように唇を噛み、眉間に皺を寄せた。

 彼女が唇を差し出しているわけではないのだと、嫌でも分かった。


 アルベルトは体の力を抜いた。


「悪い。……俺も疲れているみたいだ」

 

 アルベルトはゆっくりとティニアから体を離した。ティニアの身体は強張ったままだったが、すぐに息を吸い上げると、大きく吐いた。

 彼女が息を止めていたのだと、漸く気付いた。


 月明かりが、明るく街を照らす。その灯りは窓を伝うと、二人を照らした。


「それでも今夜は、俺の側にいて欲しい。本当に心配したんだ。ただ、それだけなんだ……」

「……あ——」

「ただ、理性を抑えられる気がしない。だから、今夜はフリージアと寝てくれ」

「分かった」


 ティニアは何度も振り返りながら、部屋を後にした。

 ドアの閉まる音を確認すると、アルベルトはリビングのソファーに座り込む。

 右手の甲を額に当て、長く溜息を吐いた。


 ティニアは、本当に疲れているようだった。


 彼女の頬の、冷たい感触。それは、アルベルトにポツダムでの出来事を思い出させた。

 自分を笑いに来た少年——若く細く小さく、アルビノであった少年だ。


 少年は言っていた。


 『君は、女心をまるでわかっていない』と。

 アルベルトは、少年の言葉を理解しきれていなかったのだと気付いた。


 少年と、ティニアの笑顔が重なる。

 あの少年は、ティニアと名乗る前のレンではないだろうか。


 何故、君は偽名を使っているのか。

 尋ねたとしても、彼女は話さないだろう。


 名を呼ぶことは、許されるのだろうか。

 拒絶でもなく、受け入れるわけでもない、先ほどのやり取りを思い返す。


「………………」


 アルベルトの言葉にならない擦れた声が、静かな部屋に消えていく。その声を聴く者はその場には誰一人としていない。

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