㉖-1 月
住み慣れた家は薄暗く、ランプが一つ灯してあるだけだった。
アルベルトは足音を聞くや玄関まで駆けると、帰宅の主よりも先にドアを開けた。
「ただいま……」
気付けば、アルベルトはティニアへ腕を回していた。ティニアは一拍遅れて、体を強張らせる。
「良かった……」
気付けば言葉が漏れ出ていた。
抱きしめる腕に力が入る。
昼間、ティニアは孤児院を尋ねてきた眼帯をした男に手を引かれ、町へと消えた。
見知らぬ男に、無理やり連れ去られたようにしか見えなかった。
彼女の手を掴めなかったことを後悔し、平和呆けした自分を責め立てていた。
シュタイン・アム・ラインの町を駆け回るも、二人を見つけることは出来なかった。
焦りと不安は、眠気など払い退けてしまった。
眠れるはずがない。
寝るように懇願するフリージアを寝かせ、一人リビングのソファーで項垂れた。
夜、暗くなっても帰らない彼女を思うと、胸が張り裂けそうだった。
そのティニアが今、自分の腕の中にいる。
このまま抱きしめていたら、自分は何をするか分からなくなりそうだ。
湧き出る感情を抑え、なんとか彼女から体を起こした。
過去の経験から、悪いことをしたなら打たれるかもしれない。反射的に、アルベルトは身構えた。しかし、ティニアは心配そうにアルベルトを見上げていた。
「……起きていたの? 僕、遅くなるって——」
ティニアは擦れたような声色で、アルベルトを見上げる。拒まれたようには感じられない。
「心配してたんだぞ……」
再び無意識に言葉は溢れ出し、気付けばティニアの頬に触れていた。
ティニアの頬は人肌とは思えないほど冷たく、やつれているようにも感じられる。
ティニアは驚くことなく、アルベルトの手に寄り添う。そして、目を閉じたまま頬をこすりつけた。
思いがけぬ彼女の仕草に、心臓が飛び跳ねる。
「急にどうしたんだ……」
「え、いや……。これはその……」
ティニアは自身の行動に気付いていなかったのだろうか。
ティニアの呼吸が、音もなく繰り返される。
彼女の唇が近い。
ティニアの青い瞳が、潤むように揺れる。その瞳に、アルベルトの顔が映っている。
ティニアはゆっくりとした手つきで、アルベルトの腕に触れた。
「腕、大丈夫……? 痛みは……」
ティニアが言っているのは、眼帯の男に振り払われた、腕の事だろう。
あの男の動きには、全くと言っていいほど、隙がなかった。
戦時中の自分であれば、軽く避けられただろう。
あの時、ティニアの手を掴むことが出来なかった。
彼女を失ってしまったのではないか。取り返しの付かぬ事をしでかしてしまったのではないかと——。
押し黙るアルベルトを見上げ、ティニアは口を開く。
「……また、眠れなかったの?」
ティニアはアルベルトの頬に触れた。指先が、震えている。
「お前が心配だったからに決まってるだろ。どれだけ心配したか……」
「…………」
「本当に大丈夫なのか? どこも怪我は……」
「大丈夫だよ。……心配かけて、ごめんね」
長いまつげが、瞬きで動く。暗がりでよく分からないが、頬が赤く染まっているように見えるのは、ランプの光のせいだろうか。
こんな時に見惚れている自分に対し、嫌気が差す。
「……フリージアは?」
「もう寝ているよ」
「……そっか。そうだよね」
アルベルトは、先ほどよりも優しく抱きしめた。
服の擦れる音だけが、部屋に響く。
「あいつは誰なんだ」
抱きしめたまま、彼女の耳元でそう言った。
彼女からの返答はない。
「話せないことなのか?」
「……うん」
「そうか」
結局、彼女は何も語らない。
急に厚い壁が、ティニアとの間に立ち塞がってしまったかのようだ。
「もう寝ようよ。僕、疲れているんだ——」
「俺の気持ちが分からないわけじゃないだろ……?」
ティニアは一瞬だけ視線を上げた。だがすぐに目を伏せ、力なく項垂れた。
アルベルトはティニアを見下ろすと、ティニアの両肩を掴むように構えた。
俯くティニアは、拒んでいるように見えた。
そんなにも、自分の想いは彼女を苦しめるのだろうか。
それでも、この気持ちを抑えることは出来なかった。
「キスしていいか」
ティニアの青い瞳が、ぱっと開いた。瞳はよりランプの明かりを反射した。
アルベルトの指に、一瞬だけ力が籠められる。
拒まれないのではないかと、淡い期待が込み上げる。
しかし、ティニアは堪えるように唇を噛み、眉間に皺を寄せた。
彼女が唇を差し出しているわけではないのだと、嫌でも分かった。
アルベルトは体の力を抜いた。
「悪い。……俺も疲れているみたいだ」
アルベルトはゆっくりとティニアから体を離した。ティニアの身体は強張ったままだったが、すぐに息を吸い上げると、大きく吐いた。
彼女が息を止めていたのだと、漸く気付いた。
月明かりが、明るく街を照らす。その灯りは窓を伝うと、二人を照らした。
「それでも今夜は、俺の側にいて欲しい。本当に心配したんだ。ただ、それだけなんだ……」
「……あ——」
「ただ、理性を抑えられる気がしない。だから、今夜はフリージアと寝てくれ」
「分かった」
ティニアは何度も振り返りながら、部屋を後にした。
ドアの閉まる音を確認すると、アルベルトはリビングのソファーに座り込む。
右手の甲を額に当て、長く溜息を吐いた。
ティニアは、本当に疲れているようだった。
彼女の頬の、冷たい感触。それは、アルベルトにポツダムでの出来事を思い出させた。
自分を笑いに来た少年——若く細く小さく、アルビノであった少年だ。
少年は言っていた。
『君は、女心をまるでわかっていない』と。
アルベルトは、少年の言葉を理解しきれていなかったのだと気付いた。
少年と、ティニアの笑顔が重なる。
あの少年は、ティニアと名乗る前のレンではないだろうか。
何故、君は偽名を使っているのか。
尋ねたとしても、彼女は話さないだろう。
名を呼ぶことは、許されるのだろうか。
拒絶でもなく、受け入れるわけでもない、先ほどのやり取りを思い返す。
「………………」
アルベルトの言葉にならない擦れた声が、静かな部屋に消えていく。その声を聴く者はその場には誰一人としていない。




