㉕-1 冥想
真っ暗だ。
マリアは、目の前の姿を受け入れられずにいた——。
自分は、どこに立っているのだろうか。
もしかしたら、落ちているのかもしれない。
音もなく、静寂は耳を突いた。
足元は泥沼にあるかのように、重く冷たい。
目に見える色が暗闇の黒なのかさえ、曖昧になっていくようだった。
マリアは闇の中、空だと思う方へ手を伸ばした。
虚空を撫でた指先には、何も存在していないようだ。
上下間隔を失い、足元が竦む。
——寂しい。
——独りぼっちだ。
何故だろうか。心から明かりが消え、泥沼に足を踏み入れたような気分だ。
やがて感情は虚無感で支配される。
涙が溢れそうになり、目元に触れようとした。
そこには、何もなかった。
まるで、自身の存在すら、存在していないかのように。
マリアは限界を感じ、大声を出した。
何も音は聞こえない。
もう一度声を上げるが、同じことだった。
マリアは自身の肩へ手を伸ばし、抱きしめた。
やはり、そこには何も存在していない。
曖昧な世界、境界——。
何も存在しない。
それなのに、自分の意思だけが存在しているかのように。
不意に背後に気配を感じ、マリアは振り返った。
「誰——?」
自分の声が聞こえた。
今まで見ていたものが、全て幻であったと意識した瞬間、目の前にはアパートの天井が広がっていた。
涙が頬を伝い、耳に掛かった。
「……夢、なの?」
もう一度、確かめるように声を出す。
妙にリアルな夢だった。
体の全身が、足の指先から毛先まで、全てが震え経つかのような感覚がある。
窓の向こうからは、外の喧騒が聞こえてくる。
「はあ……。夢で、良かった」
奇妙な夢だった。
それでも、はっきりと覚えている。
なんと寂しい夢だろうか。
時計の針は、八時十五分を指している。
「寝坊した……」
マリアが独り言を呟いた時、食器の振れる音が、台所から聞こえてくる。
同居人のティナだろう。
足音が迫ったかと思うと、控えめなノックの音が響いた。
「マリア、起きていますか?」
「……起きたところよ」
「仕事、休むのですか?」
「うーん……」
何故だろう。再び孤独感が押し寄せてくるかのようだ。
マリアは首を横に振った。
こんな日は、仕事に没頭した方が良い。
花束を作るのもいいだろう。今日は予約が三件入っている。
植木鉢のアソートをしてみたいと、ミランダに提案しようと考えていた。
何故だろうか、今日はそれらすらしたいとは思えない。
「大家さんに電話を借りてくる。今日は休むわ」
マリアはそう言うと、パジャマを脱ぎ捨てた。
◇◇◇
数えるほどしか休んだことはない。
フローリストの仕事は好きだ。
新しい知識を得ることも、花束を作ることも。
目立たないような水仕事まで……、毎日が楽しかった。
やりがいを感じられる仕事。
それが、マリアにとってのフローリストだ。
何故だろう。
よく分からないような感情が押し寄せ、漠然と思い悩んでしまう。
どうしてなのか、何故だろうか、と——。
ティナと部屋にいるのが落ち着かず、マリアはアパートを出ると、歩きだした。
マリアは、先ほどの電話のやりとりを思い返していた。
すでに遅刻しているマリアを、ミランダは心配していたようだった。
しかし、マリアは正直に言った。
——今日は、なんとなく行きたくないのだと。
「なんとなく休みたいだなんて……。初めてかもね」
ミランダは、マリアに熱は無いか、痛みは無いか、心は重くないか。そう何度も聞いてきた。
分からない、という曖昧な答えしか出てこなかった。
マリアの中にあったのは、そのよく分からない感情だけ。
心の病にでも、かかってしまったのだろうか。
戦時中に、マリアは寝たきりになり、お荷物感と無力感を散々味わった。
そんな日々に戻りたくはない。
決して——。
気付けばマリアの足は、勤務先である花屋ぺラルゴのある広場ではなく、教会と孤児院のある方角へ向かっていた。
「馬鹿ね。この時間、ティニアは診療所じゃない……」
自分の呟きから、ティニアを求めて彷徨っていることに気付いた。
どうして、こんなにもティニアを求めているのかは分からない。
気持ちは晴れぬまま、マリアは教会と孤児院に背を向けた。
行く当てなどない。
ライン川から南へ行けばよかったかもしれない。
こんな場所では、知り合いに会ってしまう。
マリアが立ち止まったその時だった。
「マリアじゃないか」
マリアは忘れていた。
一番出会いたくなかった人物を——。
「アルベルト……」
振り返ったマリアは、声の主ではなく、その隣の少女へ目を向けた。
声の主——赤毛で長身のアルベルトと手を繋いだ少女は、慌てて後ろに隠れた。
「え、誰……?」
マリアの言葉に驚いた少女は、更にアルベルトの後ろへと隠れる。
アルビノの少女だ。
まるで、あの時出会った少年——レンの姿が思い起こされた。
アルビノの二人を比べ、マリアは押し黙ってしまった。
フリージアは、レンには似ていない。むしろ、ティニアによく似ている。
「ああ、こいつは……」
アルベルトの言葉で、マリアは我に返った。
「まさか、もう娘が……?」
「んなわけないだろ」
「そうよね……」
思ったよりも、スムーズに会話できた。
戸惑い、言葉に詰まると思っていた。
アルベルトに、真実を話してはいけない。そう感じたあの時から、アルベルトを避けるように過ごしてきた。
幸運にも、あれから今日まで、アルベルトに会うことはなかった。それだけではない、ティニアに対しても、会うことはなかった。
ぺラルゴから花を届けに行っても、孤児院にはシャトー婦人しかいなかったのだ。
最後に会ったのは、いつだっただろうか。
毎日のように夕食を食べに行っていたのに——。
心がずしりと重く感じられた。
「どうしたんだ? おい、マリア……」
「あ、ごめん。ボケーっとしちゃって」
「大丈夫か?」
「うん。で、この子は?」
マリアは少女が怖がらぬよう、目線を同じ高さに屈んだ。




