㉔-4 耳鳴り
ティニアは視線を逸らすことなく、口元だけで笑った。何処かぎこちない笑みだったが、アルベルトの心は躍った。
フリージアは二人の顔を交互に見つめながら、楽しそうにパンをかじりだした。大きなベーコンが嚙み切れず、四苦八苦する少女は愛らしい。
そんなフリージアに見とれていると、ティニアの優しい言葉が降りかかる。
「君も早く食べちゃいなよ。体調が悪いんだし、お休みしてくれるならゆっくりでもいいけれど……」
「いや、仕事には行くよ。ただ、俺やお前が仕事に行く間、フリージアはどうするんだ」
アルベルトが別の話題を持ちかけると、ティニアの表情はパッと明るい笑みを浮かべる。やはり気まずさはありながらも、ティニアはティニアであり、優しい。昨晩の出来事はアルベルトに非があった。それでもその優しさに罪悪感と自己犠牲を感じつつ、お互いで自然と視線を外していく。
「午前中はフリージアが検診とリハビリがあるんだよね。だから、診療所には一緒に行くつもり。午後は孤児院へ連れて行くし」
「そうか。何かあれば、呼んでくれ」
「わかった」
「アルお兄ちゃん。帰り、あたしの迎えに来てくれますか? もしそうなら、嬉しいです……!」
フリージアはティニアの方へ目配せをする。不慣れなウインクは可憐であり、十歳ほどの少女だが中身は随分とませていると、二人は感じた。
「あ、そうでした!」
フリージアは食べていたパンを皿へ戻すと、ティニアの部屋まで足早に駆けていった。
不思議に思いつつも、ティニアは紅茶を手に取った。
カップの温かさを感じ取るように、優しく両手で包み込む。
「なあ、ティニア……」
「……何?」
「無理強いして、悪かった」
「…………」
「アルお兄ちゃん!」
口を開きかけたアルベルトの耳に、元気なフリージアの呼びかけが聞こえた。
ティニアは特に気に留めていないかのように、紅茶を飲む。
「どうした?」
「これ! お兄ちゃんの?」
フリージアの手のひらには、あの時見た白銀の懐中時計が静かに光り輝いていた。
「…………えっと……」
あまりの気まずさに、視線は部屋の隅へと泳いでいく。
この懐中時計が原因で、喧嘩をしたことを思い出す。
あの喧嘩を最後の喧嘩にしたかった。
神父アドニスに説教され、諭されたはずだった。
自分は何も学ばない。
すぐに、全て手の内から消え去っていくというのに。
「これ!」
フリージアはアルベルトの隣まで来ると、手のひらに乗る懐中時計を掲げた。
「あー。これか。あー、それは……」
「……お兄ちゃんのじゃないんですか?」
フリージアは首をかしげた。
「それは、ティニアのだよ」
「え?」
「……ティニアが、大切にしている時計なんだ」
気まずさがより増し、ティニアを視界に入れることが出来ない。
だが、ティニアは紅茶を飲む手を止め、アルベルトの方を見ているようだった。
「でも、ティニア様言ってましたよ。これ、お兄ちゃんのだって」
「……は?」
つい、ティニアの方を見てしまった。自然と視線が合わさるものの、当の本人は首をかしげている。
「え、これ君のじゃないの? 僕、こんな懐中時計、知らないよ」
まるで長い時が経過したかのような、沈黙は部屋を包み込んだ。
「だって、これは……」
大切なものだったのではないのか——。
そう、言葉を続けようとしたアルベルトへ、ティニアが先に言葉を投げかける。
「これは僕のじゃないよ。君のでもないなら、一体誰の時計なの?」
「……お兄ちゃんのじゃないの? あたし、文字盤が見たかったんです」
フリージアは俯いた。フリージアの手のひらで、懐中時計は光り輝いた。
磨きに磨かれたような、大きな傷跡以外に特に目立った傷がないように見える。
こんなにも近くで見られるとは思わなかった。
「これ、開かないんです。力いっぱいしたら、壊れちゃいそうだし……」
寝ていないせいだろうか。アルベルトにはモヤのかかったような圧迫感のある頭痛が、重みとなって襲ってくるようだった。
ティニアは、決して誤魔化しているようには見えない。
本当に知らないかのように、手に取って隠すような素振りすらない。
不安、焦り、緊迫感。
それらは、アルベルトの中を走り抜けていく。
「フリージア」
アルベルトの呼びかけに、フリージアは顔を上げた。
「はい」
「誰の時計かはわからないが、とても大切にされてきた時計だと思う」
「うん。あたしも、そう思います」
「そんな風に手で持っていたら、落ちてしまうかもしれないだろ?」
「あ……」
アルベルトはそう言うと、ゆっくりと席を立った。そしてフリージアの前に屈んで見せると、優しくフリージアの手を包んだ。懐中時計は、フリージアの手の中に納まった。
「あった場所に戻して来てくれ。開かないってことは、開けて欲しくないのかもしれない」
「……わかりました」
フリージアはそう言うと、足元を気にするように、部屋まで戻っていった。
そんなフリージアを目で追うティニアは、ポツリと呟いた。
「そんなに大切な時計だったんだね」
ティニアの言葉に、アルベルトは何も答えられなかった。




