㉔-3 マーマレード
翌日、アルベルトは出勤のために起き上がった。
眠れぬ夜は地獄であったが、アルベルトにとっては重たい日常の一つだ。
焦りと無駄な自問自答、後悔と焦燥に支配され、滲む汗を拭う。
診療所で感じたティニアのぬくもり。その温かさに数時間眠れたのが幸いしたのか、いつもより体は軽い。
それが虚しく、それでいて心に巨大な穴を形成していた。
起き上がり活動すればするほどに、空虚は肥大化していく。
自らが引き起こした、最悪の展開だった。
それだけに、眠れなかった後のアルベルトには余裕などなかった。
広いリビングに人影はなく、アルベルトは椅子に触れた。
彼女の座る椅子は、空っぽのままだ。
「おはよう」
後ろから愛しき者の声が響くが、アルベルトは振り向くことが出来ずにいた。
「ああ、おはよう」
それでも朝の挨拶を送られたことに一喜一憂してしまい、己を恥じる。恥ずかしさは挨拶を拒ませ、ぶっきらぼうな挨拶となってしまう。それは再び後悔として男へ襲い掛かる。
「アルお兄ちゃん、おはようです」
少女の声に、アルベルトは反応し、無意識に振り返ってしまった。ティニアは朝食の準備に台所に立っており、その表情は伺い知れない。もう、二人きりではないのだ。
「おはよう、フリージア。眠れたか?」
「うん。お兄ちゃんは、あんまり眠れなかったみたいですね」
フリージアはパジャマを着たまま、ぼんやりとアルベルトを見上げた。二人の会話が聞こえぬように、ティニアはフライパンを手にコンロへ向かった。
「眠れないのは、今日に限ったことじゃない」
「いつもなのですか?」
「ああ、いつもそうなんだ」
「それはつらいよ。病院の、先生のところにいきましょうよ」
いつもなら、戯けた嫌味の一つが飛んで来ただろう。しかし、ティニアは無言だ。それが堪らなく恐ろしく、切ない。
アルベルトは、ティニアの背中へ声をかける。
「俺、そろそろ仕事へ行くよ」
「いってらっしゃい」
ティニアのその言葉は冷たく、重苦しい。
そんなつもりでは無かった。それは、単なる言い訳だ。
関係を焦り、壊してしまったのは自分自身だ。
「ティニア、俺は……」
アルベルトの言葉を止めるかのように、ティニアは厚切りのベーコンをサンドしたパンを突き出す。しかし、目線は逸らしたまま、合わさることはない。
「寝てなくても、何か口にした方がいいよ」
「……悪かった」
「…………」
口元だけ笑む女性は視線を外したまま、その手を震えさせている。
優しすぎる彼女の自己犠牲へ、抱くのは罪悪感ばかりだ。
アルベルトがパンを受け取ると、フリージアが椅子を運んでくる。フリージアはティニアの隣ではなく、アルベルトが座る椅子の隣に椅子を運んできた。
椅子は、アルベルトが手製した木彫りの椅子だ。
隣の席に座ったフリージアは、笑みを浮かべながら見上げてきた。
「お兄ちゃん。一緒に、食べよ……?」
「あ、ああ……」
「今、紅茶を淹れるよ」
アルベルトの斜め向かいに座ったティニアは、硬い表情のまま、沸いたばかりのポットを手に取った。
アルベルトはティニアを見つめたが、視線が合う事はない。それでも傍にいる事を許されているだけで良かったと、安堵してしまう。
湯気の立つ熱湯をティーポットに注ぐと、一分ほど蒸らす。
二人きりであれば、気まずい時間になっていたかもしれない。
「あたし、紅茶って好き。色もきれいだし、香りもいいし、ジャムで更に味が変わるのがすてき」
紅茶のように、フリージアは目を輝かせた。
「そうだね。今日はハーブティーじゃないから、ジャムを入れようか」
アルベルト側にあった小さなジャム瓶を、ティニアは手に取った。
いたたまれない気持ちが込み上げてくる前に、フリージアの言葉が重ねられる。
「ティニア様、ハーブティーっていうのは、とても苦いの?」
「うーん、苦いのもあれば、苦くないのもあるよ。ジンジャーだと少し辛いけど、あれはハーブティーに入るのかもね」
「ジンジャー? 体、あったまりそうだね」
「そうだね」
ティニアは当たり前のように、アルベルトのカップを手に取ると、色の鮮やかな紅茶を注いでいく。紅茶を注ぎ終わったティニアは、どこか落ち着かないようだった。何度もアルベルトの方を見ようと、ちらちらと目配せしているのに気づく。
しかし、視線が合わさると、気まずそうに視線を逸らされた。
ティニアは紅茶にレモンのジャムを入れると、小さなスプーンでかき混ぜる。一瞬だけ戸惑いながらも、アルベルトへカップを送る。
「レモンの輪切りがあればよかったけど、今日はないからジャムで。少しでもすっきりするといいけれど」
「……ありがとう」
彼女の配慮、優しさが心に沁みる。
ティニアはすぐに、フリージアのために小さなカップへ紅茶を注いだ。アルベルトのカップと同じように、カップへジャムを入れ、スプーンでかき混ぜた。
「ううん。はい、フリージア。熱いから気を付けてね」
フリージアは香りを楽しんだ後に、何度も息を吹きかけ、恐る恐る紅茶に口をつける。その仕草は愛らしく、空気は和んでいく。
ティニアはフリージアを見つめたまま、表情を緩ませた。アルベルトはフリージアに感謝しつつ、ティニアを眼で追った。その視線に気づいたのか、ティニアは漸くアルベルトと視線を合わせた。




