㉔-1 鳴りやまぬサイレン
アルベルトは尚も強い力で、ティニアを抱き寄せる。ティニアは目を見開いたまま、慌てて顔を伏せた。アルベルトはティニアの口元に手を当て、上を向かせる。
ティニアは唇を震わせながら、その言葉をなんとか紡ぎだす。
「やめて……」
「嫌なら、振りほどけばいい」
そうだ、嫌なら振りほどけばいい。彼女には、それが出来る。
「どうしてこんなことするの、やめて……!」
「どうして? じゃあお前は何で、いつまでそうやって…………。いつまで、とぼけているつもりなんだ」
ティニアの体が強張り、力が入る。その力を強引に抑えながら、アルベルトはその唇をみつめる。
唇が、瞳が近くなり、そして――。
「嫌……! 離して」
唇から発せられた言葉。
明確な拒絶。
そして触れる手に、頬から滴る雫が指へ触れ、男は正気に戻った。
「ッ…………」
慌てて拘束を解くと、ティニアはベッドから床へ崩れ落ちた。
沈黙が、部屋を支配してしまう。
アルベルトは先ほどの自問自答を思い出す。眠れていないせいで、冷静な判断が出来ず、思うが儘に行動してしまっている。
気付いたところで、全ては遅すぎた。
「俺……、そんなつもりじゃ…………」
「………………」
彼女を手に入れたかった。
ずっと、永遠に傍に置いておきたいと思っていた。
その為なら、何だって出来るのだと。恐ろしい気持ちが芽生えてしまった。
もう好意を、気持ちを隠せるわけがない。
アルベルトに隠している気はなかったが、肝心のティニアへは何も伝わっていなければ意味はない。
――拒絶、そして変わる関係を恐れている。
それでも、目の前の女性と手に入れたいと、愛を乞う——。
「ティニア様、パジャマってこれでいいですか?」
ふいに少女の声が部屋へ響き、扉が開けられる。放心状態だったティニアは、涙を流したままフリージアを見上げた。
フリージアは少し大きめのブラウスを羽織っているが、それは可愛らしいネグリジェにも見える。
「あ…………」
フリージアは口元に手を当てると、座り込んだまま涙を流すティニアへ駆け寄った。
「ど、どうしたの。ティニア様! 泣いて……」
「ごめん、なんでもないの。うん、パジャマはそれでいいけれど、ボタンが一つずつ、ずれているね」
ティニアは袖で涙を拭うと、アルベルトを振り切ってフリージアのボタンを留めようと屈んだ。しかしティニアの手は、小刻みに震えており、ボタンを留めることが出来ない。
「あれ、どうしたんだろう。ごめん、自分でボタン留めてもらえる?」
「う。うん……」
慌ててボタンを留める少女を見つめ、ティニアは手をついてなんとか立ち上がると、少女へ向かって声をかけた。
「今日は二人で寝よう。このお兄ちゃんは、ちょっと、疲れているから」
「あ、はい……」
ボタンを留め終えたフリージアは、足早に部屋を後にするティニアを目で追うだけだった。ティニアは何も言わず、ドアを静かに閉めた。
フリージアはアルベルトへ向き合うと、愛らしい声で語りかける。
「おにいちゃんも、大丈夫?」
「あ、ああ……。わるい、変なところ、見せちまって」
「ううん。二人は恋人なんだから、喧嘩もするよね。でも、ティニア様は悲しくて泣いてたわけじゃないと思う……」
ティニアは泣いていた。
泣かせたのは、自身だ。
「だって、口元に力が入っていて、何かを堪えてたみたいだったの」
「…………」
少女は冷静にティニアを分析しているようだった。そのことに違和感を感じつつも、アルベルトにそれを指摘する余裕などなかった。
「あの、お兄ちゃん……」
「……お兄ちゃんか。名前で呼んでもいいんだぞ。アルでもいい。どうした?」
「じゃあ、アル様?」
「いや、……それはちょっと」
様付け。
その言葉で頭によぎったのは、ティニアが心因性昏迷状態になった時の呼び名、“アルブレヒト様”だ。
「あの、アルおにいちゃん。あのね……」
「なんだ?」
「ティニア様の部屋の、くまのぬいぐるみ、知ってる? あの子ね、名前があったの」
「うん? ああ、あれか」
アルベルトは以前、ティニアの部屋を覗いた。ベッド脇のサイドテーブルの上に、くまのぬいぐるみは鎮座していた。黒と白のチェックのマントを羽織る、可愛らしいぬいぐるみだった。
「あの子の名前、アルブレヒトっていうんだって。お兄ちゃんのこと?」
「いや、俺じゃないよ」
あのぬいぐるみに付けられた名前。それは、恐らく歴史上の人物——アルブレヒト熊公のことだろう。
熊公は八百年以上も昔に亡くなった人物だ。
そんな存在に、自らは勝つことが出来るのだろうか。
ティニアと熊公の間に何があったのか。
何一つ知らない。
「ふう……」
息が詰まりそうだった。
ティニアと喧嘩をしてしまった一件以来、懐中時計の話すらしたことはない。
ティニアは、今も肌身離さずに持っているのだろう。
銀の懐中時計は、誰からもらった物なのか。結局わからずじまいでいた。
あやふやなまま、それは心をえぐるかのように、暗い影となって残っている。
そして、思い出す。
『そんなもの、くだらない』
かつての自分が、ティニアへ言い放った言葉。
知らなかったでは済まされぬ後悔という泥沼は、毒のように徐々にアルベルトを暗い闇へと誘う。
そんなティニアの真の名は、レンであるという——。
どこか懐かしいその名を呼べる日は、来るのだろうか。
マリアはその事について、何か知っているような口ぶりだった。
ティニアが何も話さないのは、自分が信頼されていないからではないだろうか。
理性を失い、自己中心的に動くなど、あってはならないことだったはずだ。
本当に、らしくない。
こんな自分を信頼するような人間は、恐らく——。
「……ねえ、アルお兄ちゃん」
「どうしたんだ。フリージア。……怖がらせたか?」
「ううん……。あのね。なんとなくだけど」
フリージアはその煌めく青い瞳でアルベルトを見上げると、視線が重なった。フリージアは人の眼を見て会話を好むようであり、目線が合うまでにその話をしようとはしなかった。
「ティニア様は、アルお兄ちゃんのこと好きだと思う」
「……それはないさ」
「でも……」
「ほら、いいから今日は休んでな。ティニアが待っている」
「あたしね、二人のこと、応援してるから」
「はは。応援されたか」
フリージアは手を振ると部屋を後にした。フリージアの去った後の部屋で、アルベルトは乾いた笑いを浮かべる。
「俺は、こんな事をしたかったんじゃない」
その呟きは虚しくも闇へと消えゆく。




