㉓-5 望み
「はい、到着! 晴れてきてよかったね」
住み慣れた家に到着すると、マリアの使っていた空き部屋の扉を開ける。そこにはマリアが残していった家具はなく、かつての物置部屋にしまっていた家具がしまわれている。
マリアは、ほとんど何も残さずに出て行ったのだ。
「今日からここがフリージアの部屋ね。掃除するから、待っていて」
「ありがとうございます」
「もっと、くだけた感じで良いよ。かしこまらないで。今日から家族になるんだし」
ティニアの家族という言葉に、フリージアだけでなくアルベルトが反応を示した。が、男は無言であった。
「君はちゃんと着替えて、お風呂入ってよ。雨に濡れたんでしょう」
「もう、今更な気がするが……」
「何言ってるの。この子に風邪でもうつしたら、承知しないよ?」
ティニアがフリージアの頭を優しく撫でる。フリージアは嬉しそうにティニアを見上げた。
「あの、ティニアおねえちゃん」
「ティニアでいいよ」
「じゃあ、ティニア様で」
「様…………?」
『様』という単語に、アルベルトは無言で反応した。アルベルトは頭を振ると着替えのために部屋へと引っ込んだ。
「俺も、なんか余裕がないな。寝てないせいか……?」
自室へ戻ったアルベルトに聞こえてきたのは、ティニアとフリージアの軽やかな笑い声だけだった。アルベルトは安堵すると、その湿った服を着替えだしたのだった。
◇◇◇
アルベルトがコーヒーを淹れに部屋を出ると、ティニアとフリージアが手を繋いで外へ出るところだった。
「君ってば、また珈琲? また眠れなくなっちゃうよ」
「そんなことより、どこへ行くんだ。もう二十一時過ぎだぞ」
「フリージアは夕日が見たいんだって」
「そうか」
アルベルトが腰に手を当てると、その腕に小さな手が絡む。フリージアだ。
「どうした?」
「おにいちゃんも、いこうよ」
「え、ああ……」
「えへへ……」
フリージアは右手にティニアの手を、左手にアルベルトの手を掴むと嬉しそうに外へ飛び出した。
外は緋色に染まっており、夕日はシュタイン・アム・ラインの街並みに溶けていく。
「きれいだね。あたし、ゆうひって好き」
「朝日はもっと綺麗だよ」
空を眺めるティニアがその場に腰かけると、フリージアはアルベルトの服の裾を引っ張った。笑顔でティニアの脇へ座ると、誘うように手招きした。仕方なくアルベルトもフリージアの横へ腰を下ろす。
「ティニア様! 朝日は、どんな色なの? 赤いの?」
「うーん。青……、紫かな?」
「紫なんだ」
フリージアは不思議そうに目を丸くしている。
「夜空が照らされてね、それでゆっくりと明るくなるんだ。そのまま青く、美しい天が広がっていてね、満天の星空が徐々に薄くなっていく。そうやって朝になるんだよ」
夜を寝られぬアルベルトにとって、夜明けとはホッとするものではなく、焦りであった。朝日をそんな風に美しいと感じたことなど無い。ティニアの語る朝日を、彼女の隣で見られれば幸福であろう。
「すてき」
「素敵だよね」
「そうだな、素敵だな」
「君にとっても、きっと気に入ると思うよ」
ティニアはそう言うと、アルベルトを見上げた。
夕日に照らされたティニアは、いつもよりも美しく目に映った。
アルベルトは、照れた顔をフリージアに知らぬように、視線を逸らすことしか出来なかった。
「どうしたんですか、おにいちゃん」
フリージアは訳が分からぬようで、首をかしげた。
そんなフリージアを見つめ、ティニアは優しく微笑む。
この時が永遠に続くのであれば、高望みをすべきではないのかと。
アルベルトは自問自答を始めるのだ。
◇◇◇
すっかり夜も更け、シェアハウスへと戻った三人。
フリージアはティニアの部屋で、パジャマに着替えようとしていた。
悪戦苦闘しているフリージアを嬉しそうに見つめながら、ティニアはアルベルトの部屋を訪れた。
出迎えたアルベルトは驚いたが、すんなりとティニアを部屋へ受け入れた。
ティニアは靴を脱ぐと、アルベルトのベッドに飛び乗った。
無防備に足をパタパタさせるながら、寝転んで見せた。
「君の部屋のベッドを貸してもらえないかな?」
「なんでだよ」
アルベルトはティニアの隣へ腰を下ろした。
「おお。僕なんかが寝ても全然広い」
ティニアは無邪気に転がり、アルベルトの隣にぴたりと止まった。
アルベルトは、診療所でのやりとりを思い出さずにはいられなかった。
短い時間だったが、ティニアと共に眠ることが出来た。
彼女のぬくもりと息遣いを思い出すと同時に、至近距離から来る彼女自身の熱を感じ取る。
「そ、そりゃそうだろ。俺の身長に合わせたサイズなんだから……」
「ふふふ、そうだね。僕のベッドとくっつけたら、もっと広くなるね」
アルベルトは息を飲んだ。——まさにその時、ティニアが起き上がった。
ティニアは歯を見せるように、無邪気な笑顔を向ける。
「…………」
「何で黙っているの?」
返答のないアルベルトを心配するように、ティニアはむくれると、服の裾を引っ張った。
「どうしたの?」
「い、いや……。 いきなりどうしたのかと思って……」
ティニアは怪訝な表情を浮かべると、アルベルトの瞳を覗き込むように見つめた。
息のかかりそうな距離。
鼓動が聞こえてきそうな距離。
「みんなして同じベッドで眠れないかなって思って」
「皆って……。あ、ああ。ベッドでフリージアと一緒に寝たいのか」
「フリージアだけじゃないよ」
「…………」
「みんなって言ったじゃない。君も一緒に寝るんでしょ?」
「は……?」
ティニアは何も分かっていなかった。
分かっていて言うような女でもない。
アルベルトも、それを頭では分かっている。
「だって、君は僕を枕にするんでしょ?」
「いや、だからそれは……」
ティニアは尚も淡々と語る。
「フリージアは一緒に寝てもいいって言っているよ。いつも一人で寝ていたから、寝相が悪くて蹴ったらどうしようって気にしてたけど」
「お前はいいのか?」
「ん? 蹴られてもいいかってこと?」
一瞬の間を置き、ティニアは顔を上げた。しかしその表情はキョトンとしており、首を傾げながら眉を吊り上げている。
「僕がこんなにお願いしているのに?」
意図せずこちらを見上げる、上目遣い。
ティニアの眼差し、息遣い、そして滑らかで柔らかな香り——。
彼女のまつげが長いことを、アルベルトは知った。
「どうしたの?」
ティニアの頬に、アルベルトの指が触れた。
アルベルトを見つめるティニアの表情に、変化はない。アルベルトの行動を理解していないかのように、笑みまで浮かべている。
アルベルトは力強く、ティニアを抱き寄せた。
ベッドはギシリと音を立てる。
「わわ、なに⁉」
ティニアは避けることもなく、その腕の中で狼狽える。
心音はけたたましく鳴り響き、自分の心音なのかもわからない。
「嫌なら拒めよ」
ティニアの青い瞳に、アルベルトの顔が映っている。
再び、アルベルトの指がティニアの頬に触れる。
そして、頬から唇へ、指を這わせた。




