㉒-1 経過した年月
マリアは夢を見ていた。
はっきりと夢だと自覚できたのは、目の前に広がる景色が何度も見たものだったからだ。
紫がかった青空には、白い雲が心地よさそうに浮かんでいる。
辺り一面、腰までの高さのある草で覆われた草原に、マリアはいた。
音という音はなく、風の音も草の擦れる音も聞こえない。
不意に気配を感じ、振り返る。
紫がかった空に、黒い雲が覆いつくしていく。
まるで、その空間にはマリアしか存在していないかのようだ。
マリアはこの景色を知らない。そもそも、この景色はスイスなのか。それとも、イタリアのシチリア島なのだろうか。
戦時中、ドイツ近辺から南下している間に見た風景とも違っている。
「…………」
不意に意識がはっきりとし始め、夢から覚めたことを徐々に受け入れる。
目の前には、シェアハウスとは違う天井――引っ越し先であるアパートの天井が広がっている。
「はあ……。何なんだろう」
魘されるわけでもなく、ただ心地いいとまで感じる――謎の夢。
幾度となく現れるこの夢に、何か理由を探してしまう。
気になるのは、それが夢の中だけに留まらないことだ。
眩暈や頭痛などを伴う、不思議な発作のようなもの。
このところ毎日のように続いていることに、不気味さを感じる。
鳥の羽ばたく音を耳にし、窓へ目を向ける。
外はまだ明るい。
部屋の掛け時計は、六を指しているが、朝ではなく夕方だ。
仕事を終えて帰宅し、ベッドに身を投げたことを思い出した。
ゆっくりと体を起こし、サイドテーブルに置いてあったグラスで水を飲み干す。
水は、心配したティナが置いてくれたのだろうか。
冷たい刺激は喉を通り、やがて胃に到達する。
その感覚は、まるで人間であるかのようだ。
マリアは、機械の心臓――コアを埋め込まれた実験体、ケルンメンシュである。
それはマリアにとって、受け入れるしかなかった現実だ。
かつて共に暮らしていた義理の姉レイスはティナとして、今はマリアと同居している。
あの時の日々に戻れるわけではないが、マリアはこのまま時が止まればいいと感じるほどだった。
「ティナと話をしなきゃ……」
話――。何を話すかは決まっている。
かつての同居人である、ティニアのことだ。
ティニアはレンという名で、その身を隠して生きている。
信頼するミランダたちの話は事実であろう。
ティニアが直接マリアに、それらを打ち明ける日は来るのだろうか。
恐らく同一人物であろうティニア――レン。
彼女のことを話さなければならないが、マリアには迷いが生まれている。
本人と話がしたい、そう考えていたからだ。
事実を知ったと分かれば、ティニアはレンとして、敵としてマリアと対峙するのだろうか。
本人の知らぬところで、彼女の話を聞いてしまっている。
夢のことに気を取られているわけにはいかない。
マリアは身支度を整えると、台所兼リビングへ向かった。
◇◇◇
台所では、ティナがお湯を沸かそうとヤカンをコンロに置いたところだった。
テーブルには茶葉と、二つのカップが置いてある。
「おはようございます、マリア。体調はいかがですか」
「おはよう、ティナ。うーん、なんとなくスッキリしないのよ。あ、水ありがとう。美味しかったわ」
「水分を摂った方が良いと思いまして。ぐっすり眠っているようでしたので、起こしませんでしたが」
長い金髪を三つ編みにして、胸の方へ垂らしたティナは、リビングの窓を眺めていた。
「ちょっとは外に出たほうがいいんじゃない?」
「……そうですね。明日は散歩に出ようと思います」
病み上がりとはいえ、ティナは部屋にほとんど引き籠っている状態が続いている。彼女はティニアとアルベルトが喧嘩をした時を最後に、外出をしていない。
ティナはあの日以来、何も語ろうとはしなかった。マリアの意思を尊重し、気持ちが整うのを待ってくれているのかもしれない。
「ねえ、ティナ」
「どうしました?」
「ラウルは今、どうしているの?」
眼帯の男――ラウル。
関係性はまだわからないものの、アルビノの少年レンと行動を共にしていた男だ。
アウローラの拠点を襲撃した、謎の敵組織・ヴェルローラに所属している。
彼は二重スパイであり、情報を流していたという。
「……分かりません」
「私、ティナが診療所に入院していることを話したのよ。あいつは、ティナの居場所を知らない感じだったわ」
「スイスという国、そしてシュタイン・アム・ラインを警戒しているのかもしれません。私たちの存在がヴェルローラに知られることは避けなければなりませんから」
「所長を撃ったのは、眼帯の男だって噂があったわ」
ティナの表情が硬くなった。その仕草だけで、返答が予測できる。
「やっぱり、……所長を撃ったのは、ラウルなの?」
ティナは目を閉じたまま、黙って頷いた。
アウローラの所長は、マリアにとって父親のような存在であった。
所長は初老の男性で、顔をくしゃくしゃにして笑う人だった。
どこかの国で軍人をしていたという噂もあったが、戦場に戦士を派遣する会社を経て、活動していたと聞いている。
年月が経過したからだろうか。
涙さえ出ない。
機械の心臓であると知ったことで、自分の感情さえ信じられなくなっていた。
マリアの表情が曇ったのを、ティナは見逃さなかった。
「何か理由があるの?」
マリアの問いかけに、ティナはまた黙って頷いた。
「所長は、とある財団と関わりを持っていました。それがある時、財団の素性がヴェルローラへ知られそうになっていました」
「まさか……」
「情報漏洩を避けるために、意図的に撃たれたのです」
「そ、それだけの理由で、所長は殺されたの?」
「所長は全てを受け入れていました。だからこそ、撃たれるならラウルに、と――」
「…………。所長は、ラウルとも顔見知りなの?」
「はい」
ティナは静かに答えた。
「ラウルって、一体何者なの?」
「…………」
ティナが言葉を口にしようとした刹那、マリアを激しい頭痛が襲った。続けざまに眩暈が襲い、足元がおぼつかなくなった。頭の中が回るようだった。
マリアは吐き気に襲われながら、その場に崩れ落ちる。
「マリア!」
ティナが覆いかぶさるように、背中からマリアを抱きしめた。
しかし、マリアの目の前には、先ほど夢に見た光景――紫がかった青空が広がっていた。




