番外編①-2 彼方より
――逃げてきた。
元より孤児であった身の上。売られ、買われ、教育されると、戦地へ送られる。
道具に過ぎなかった自分を呪うことはなかった。しかし渡った国で、とある男から打ち明けられたのは、軍人である父親の存在だった。父親であると明かされた男に対しては、復讐心だけが燃え上がっていた。
軍人として育てられ、軍人になるべく学校へ上がり、戦地に立った。
父親と思しき男は、軍の中でもそれなりの地位にあった。
母親を捨て、腹の中にいた自分をも捨てた父親に、愛情など感じなかった。
戦場は死で覆いつくされていた。
罪のない人間を殺すという行為の異常さに、男は気付いてしまった。
男の保護者のような存在は、それをすぐに見抜いた。
保護者とは名ばかりの、自分を買った主人だ。
すぐに主人に呼び出され、拷問を受ける日々。
戦地で人を殺め続けるか、拷問を受けるか。
絶望の二択の中にあった、第三の選択肢。
父親を撃ち抜いたところで、戦況は変わらないだろう。
大戦の最中、自身が戦場から逃げたのは無意識下であった。
気付けば国境を越えていた。夢中だったのかもしれない。
いつ撃たれてもいいと思っていた。
撃たれた瞬間、幸運であったと思うだろう。
自ら引き金を引けば良かった。実に単純なことだ。
何か、心の引っ掛かりがそれを足止めした。
呆然としたまま、軍へ情報を提供することで、生き長らえた。
――何もなかった。
何もないまま、永世中立国の町で月日だけが流れていく。
町の名前がどうしても覚えられなかった。
町で小さな教会を見つけ、何も考えずに中へ入っていく。
神父の話など耳には入らず、祈りも捧げずに教会を後にした。
今日も何もしない。無意味な時間だけが過ぎ去っていく。
最後に食事をしたのは、いつだったか。
男は町の広場で立ち止まった。
色とりどりの花が咲き乱れ、建物の壁にはフレスコ画が描かれている。
色褪せて見えた。
白と黒でごちゃごちゃに塗られた世界。
瞬きを何度か繰り返したところで、男は激しい頭痛と眩暈に襲われていることに気付いた。
もう何日も眠っていない。
おぼつかない足取りで、建物に寄り掛かった。
空は青々としているのかもしれないが、真っ白な空だけが自身を見下ろしていた。
そんな男の視界に、クリアな金色が現れた。金色の柔らかな髪をした女だった。
◇◇◇
「……やあ、しばらくぶりだね」
女の声が耳に入ってくる。見れば、女が二人、会話をしている所だった。
だが、男は一人の女へ目を奪われていることに気付き、女に気取られぬよう体を強張らせた。
「おや、珍しい。顔色が悪いね? また働きづめかい?」
「そんなことはないんだけど」
「仕事でもないなら、体調が悪いんじゃないのかい?」
「…………なんだろう。多分、エラーだと思うんだ」
「エラー?」
女は慌てて言い換えた。
「しゅ、祝祭が近いよね!」
「祝祭? イベントというよりも、葡萄酒を飲むくらいじゃない?」
「そうだっけ……」
フェーラーとファイアー。
エラーと祝祭という、響きの似た二つの言葉を、彼女は言い直したらしい。くだらないただの雑談が、どうしてこうも頭に響くのか。男の全身には鳥肌が広がっている。
「どうしたんだい? なんかあんた、変だよ」
「何か、懐かしい感じがするんだ。とても、大昔に感じた様な、何か……」
「?」
金髪の女と会話している女は、不思議そうに首をかしげた。
男は、金髪の女以外は白黒の状態のままであることに気付く。
「いや、まさかね……。ああもう、うるさいなあ」
「何がうるさいんだい?」
「こっちの話」
金髪の女はそう言うと、空を見上げるように上を向いた。
女越しに、空を見上げる。やはり空は曇っているかのように、濁った白色をしている。
「今日はどうしたんだい? 休みかい?」
「お休みだよ。マリアにケーキを買っておこうかと思ってね」
「ケーキ? あの子、誕生日か何かかい?」
「そうだね、そんな感じ」
「手作りしないなんて珍しいね」
金髪の女は、悪戯そうに笑った。
「びっくりさせたいんだよ。ケーキを焼いていたら、バレちゃうでしょ?」
「なるほどねえ」
ケーキ。誕生日にケーキを食べた記憶はない。
そもそも、男にとって誕生日がいつであるのかは曖昧だった。
気付けば、金髪の女は一人で町を眺めていた。
柔らかな風を相手に、髪をすくい上げている。
滑らかな仕草に、目が離せなかった。
男は徐に、女へ歩み寄った。
突然、視界が鮮やかに彩られていく。
女が振り返ったのだ。
青々とした瞳が、こちらを驚いたように見つめている。
息を飲んだ。
特別美人だと思ったからではない。
女は太陽のように眩しく目に映った。
男は不思議な高揚感に包まれた。
「……あ…………」
なんと声をかければ良いかを、普段は使っていない脳みそをフル回転させる。
何も思い浮かばなかった。
女は空が眩しいのか、何かの音が煩かったのか、耳をふさいだ。
「…………ッ」
女は突然走り出すと、人混みに消えていった。男は呆然と立ち尽くすことしか出来なかったが、ふと周囲に目をやった。
背景だった白黒の街並みは、気付けば色とりどりに彩られている。
何が起こったのか、何度も思い返した。――思い返すのは、金髪の女のことだけだった。
それから毎日のように、町の広場まで歩いていった。
街並みは一変していた。
赤い花や白い花が多く、紫がかった花もある。
壁に描かれたフレスコ画は黒一色ではなく、何色もの色で形作られている。
男は喉の痞えが取れたような、重いしがらみが消え去ったのを感じた。
◇◇◇
「どうしたの?」
買い物かごを持ったティニアが、こちらを心配そうに見上げている。
「悪い。なんでもないんだ」
アルベルトはそう言うと、笑って見せた。ティニアはそれ以上何も言わず、静かに微笑んだ。
決してそれ以上は踏み込んでこないという、安心感がある。
全てを吐露してしまえば、彼女は受け止めてくれるかもしれない。それでも、思い返すことこそ辛かった。
暗転した世界で、透き通るような美しさを見せている、シュタイン・アム・ライン。
その名の通り、ライン川の流れる町は、アルベルトにとっては故郷よりも故郷だ。
故郷のように感じられるのは、ティニアの存在が大きい。
「ちゃちゃっと買って帰ろう」
淡々とそう語ると、ティニアは足早に町を進んでいった。




