⑳-5 揺れる
ティニアの勤務時間が終わるまで、アルベルトは孤児院で過ごした。
漸く帰路についた二人だったが、ティニアは町の外壁に描かれたフレスコ画を見上げ、立ち止まった。椅子を抱えていたアルベルトも足を止める。
「…………」
無言でフレスコ画に見入るティニアは観光客のように見えるが、感動しているような表情ではない。
「おい。雨が降るかもしれないから、早めに帰ろう」
「はい」
「そのフレスコ画が、気に入ったのか?」
「はい」
声は落ち着いており、何の感情も感じられない。ティニアの虚ろいだ瞳は、フレスコ画を見上げたままだ。
アルベルトは椅子を地面へ下ろすと、ティニアの隣へ立ち、同じようにフレスコ画を見上げた。
「他のフレスコ画も、見ていくか?」
「お時間が、許されるのでしたら」
「…………」
ティニアの瞳はフレスコ画から、アルベルトへ向けられる。青く、そして空虚な瞳は彼女らしさを失っていた。
アルベルトが手を差し出すと、ティニアは素直にその手を受け取った。驚いたのはアルベルトであり、ティニアではない。
無言のまま手を繋ぎ、フレスコ画を見上げた。その間、ティニアは一言も喋らなかった。
遠くの空で雷鳴が轟いている。
アルベルトは隣に佇む彼女へ声をかけた。
「一雨来そうだ。そろそろ帰ろう」
「わかりました」
手を繋いだまま、二人は旧市街地を抜けると、ライン川を渡る。家からはどんどん離れていくが、ティニアは何も言わなかった。
アルベルトは何かがおかしいという考えを振り払うように、普段は来ない古い通りまで足を進めた。
不意に修道院の看板の前でティニアが立ち止まったため、アルベルトは足を止めた。
ティニアは看板をぼんやりと見つめている。
「聖ゲオルク修道院か……」
アルベルトは独り言のように呟いた。
心がざわつき、鼓動が早くなるのを感じた。
ティニアは瞬きを繰り返すだけで、無表情のままだ。
アルベルトは繋いだ手を自身の胸へ運ぶと、ティニアの手の甲に口付けをした。
「その様な事をされますと、周囲の眼が貴方に厳しくなります」
「構うもんか。もう周知の事実だろ」
「そうでしょうか」
ティニアは繋がれたままの手をぼんやりと見つめている。
アルベルトはつないだ手を引くと、そっとティニアを抱き寄せた。彼女の金髪に触れ、ゆっくりと撫でていく。
「どうしたんだよ。しっかりしてくれ」
「私は正常です。アルブレヒト様」
「俺はアルベルト。アルブレヒト様じゃない」
アルベルトは言葉に詰まりそうになりながら、なんとか返答を返した。だが、焦りからもその言葉を否定してしまう。あれほどレオンから、否定するような言動をしないようにと言われていたのに。
「違うんだ。あ、いや。違うっていうのは……」
「以前」
ティニアは特に何の反応も示さず、言葉を発した。慌ててティニアを引き離し、その眼をじっと見つめる。ティニアもアルベルトをその眼で見つめ返した。
アルブレヒト様と、アルブレヒト熊公は同じ存在ではないのだろうか。
「以前、修道院で祈りを捧げていたような記憶があります。ですが、私にそのような記録はありません」
意味が分からなかった。
「記録……?」
「はい」
「……なんて修道院だ?」
アルベルトの問いかけに、ティニアは静かに答えた。
「バレンシュテット修道院、という呼び名のようです」
「バレンシュテット……? ドイツのか?」
ティニアは何も答えなかった。
「アルブレヒト熊公と一緒に居たのか?」
声が震えた。
何の反応もなかったティニアの指が、一瞬だけ硬直した。
「……ブランデンブルクの、アルブレヒト熊公だよ」
しかし、ティニアはすぐに首を横に振った。
「ブランデンブルクは、ヤクサに奪われました。記録によると、私の不手際です」
「は? ヤクサ……?」
「留守を言い使っていたのに。簡単に奪われました」
ティニアは涙で頬を濡らす。そして真っ直ぐとアルベルトを見つめ、その言葉を口にする。
「アルブレヒト様、私、可笑しいのです。これは、誰の記録なのでしょうか……?」
「そ、それは…………」
「全てが曖昧で、それでいて今が何であるのかが判らないのです。教えてください、私はどうしたというのでしょうか。壊れてしまったのでしょうか」
眼の前の女性の震える声。震える口元。溢れ出る涙。
目の前の女性の言動がちぐはぐでなければ、アルベルトは構わずに口づけを交わしていたであろう。彼女が嫌がり、振りほどこうとも、彼女を離すことなど無く。
「お前は、壊れてなんかいない」
「……では、ここは一体何処なのですか。うっ……頭が……!!」
ティニアは瞳から大粒の涙を零すと、頭を抱えたまま動かなくなった。震えが収まり、力なく項垂れる。
「ティニア……!」
抱き留めるように、アルベルトはその名を呼び続けた。
「しっかりしろ、ティニア……!」
それでも、彼女の真の名を、その口から聞くまでは、その名を呼ばないと決めている。
アルベルトの瞳からは涙が零れ、彼女の頬を濡らす。
「おい、目を開けろ……! 開けてくれ!」
アルベルトはティニアを抱きかかえると、診療所へと向かった。
動き出した白銀の歯車は崩れ落ち、遠き日の記憶を零したまま、そのまま忘れていく。零れ落ちた記憶は戻ることなく、ただ空虚へと消えていった。




