⑳-4 もう一つの椅子
孤児院では、既に里親の元に向かった子供が多く、比較的に年齢層の高い子供たちが勉強をしていた。手間は減っているものの、まだ手のかかる甘えん坊な子供が多い。
子供たちは玄関のドアが開くと、一斉に視線を送った。
嬉しそうな笑みを浮かべた子供たちは、手を止めると、ティニアの周りに集まってきた。
「ティニアおねえちゃん、おかえりなさい!」
「うん。……ただいま」
「あ、アルベルトも一緒だ! どうしたの? 忘れ物?」
嬉しそうな男の子の声に、ティニアは慌てて振り返った。ティニアはアルベルトがすぐ後ろにいることに、気付いていなかったのか、驚いて目を見開いて見せた。
「アルベルトおにいちゃん、また遊んでくれるの?」
「あ、いや……。えっと、椅子を……」
「その椅子は僕の椅子だから、皆は座っちゃダメだよ」
ティニアの指を立てた指摘に、子供たちは声を荒げる。
「こんなちっちゃい椅子、ティニアおねえちゃんが座ったら潰れちゃうよ!」
「し、失礼な! そんなにボクは重たくない‼」
「みしみしみし……」
「ちょ、やめい!」
子供たちを追いかけていくティニアだったが、すぐに食事の片づけをしているシャトー婦人へ声をかけた。
「シャトーさん、ごめん。予定より遅れた!」
「元々休みの予定だったじゃない。それより……」
シャトー婦人は孤児院を出入りする職員であり、子供たちの第二の母親だ。
「アルベルトさんと、仲直りできたの?」
「ちょっと待って。なんでシャトーさんがそんな事知ってんの」
「アルベルトさんを見てればわかるわよ。シュタイン親分もそう言ってたし」
「あのおっさん、一度〆よう」
物騒な事を言うティニアに、シャトー婦人は大笑いすると食器を下げながらアルベルトへ声をかけた。
「まったくもう……。アルベルトさんも仕事が終わっているのなら、子供たちと遊んでおくれよ」
「え。いや、俺はまだ仕事が……」
「上がりって言われてたじゃん。どうせ暇でしょ」
子供たちの御本読んで攻撃に遭っているティニアは、気難しい笑みを浮かべた。
「ティニアさん、もう少し言い方ってものがあるでしょう」
シャトー婦人がアルベルトを気遣うよう、目配せをするが、ティニアはムッとした表情を浮かべた。それが面白くなく、アルベルトはティニアを睨みつける。それでも、喧嘩した時よりも表情が緩んでいる。
「そうだぞ。お前はもうちょっと、言い方を気をつけろ」
「うるさいなあ」
ティニアは絵本を受け取ると、その場に座り込んだ。子供たちは椅子を持ち寄って集まり、年長の男の子がティニアへ椅子を薦めた。
「この椅子、おねえちゃん座って」
「気が利くね。ありがとう」
「お前が座ると壊れるぞ」
アルベルトの声が飛んできた。
「君ねぇ、……言い方ってものがあるでしょ」
ティニアは椅子を、絵本を持たない片手でそっとその歪曲を撫でる。木材の温かみがあり、先ほどの子供用の椅子のように一本木から削り出した重量感のある椅子だ。
「その椅子ね、ティニアおねえちゃんの為にアルベルトおにいちゃんが削ったって、おやぶんが言ってたよ」
「え……」
咄嗟にアルベルトへ視線を移すが、アルベルトは顔を赤らめて視線を外した。
「この椅子も、君が……」
「…………」
「そうか、君が削ったから、僕が座ると壊れる仕様なんだね」
「なんでそうなるんだよ」
子供たちは二人のやり取りを大笑いし合い、孤児院には笑顔が溢れた。ティニアは少々むくれながら、子供たちを静かにさせた。
「ほーら。静かにしないと、御本読まないよ?」
「えー。本なんかより、おにいちゃんと一緒に走って遊ぼうよ」
アクティブを好む子供たち二人が駄々をこねる。この二人の子供たちは明日、孤児院を発つ予定だ。
「一冊読んだら、遊んでもらおうか」
「ティニアおねえちゃんも走ろうよ」
「うーん。僕はちょっと」
「なんだお前、走るの苦手? ドンくさそうだもんな」
「君ねえ、そういう事言うんだ?」
無邪気にニヤりと笑むアルベルトに、ティニアは近くにあった柔らかなボールをアルベルトに投げつけた。そのボールはアルベルトの頭に軽く当たると、てんてんと音を立てて転がっていく。
「あれ。避けられなかった? あれあれ? それくらい君なら避けられるよね?」
「お前な……」
アルベルトがボールを掴もうとしたとき、ボールは別のボールが当たり、その場を離れていく。ティニアがもう一つボールを手に持つと、再びアルベルトへ投げつけた。ボールはまたしてもアルベルトに命中する。
「あれあれ。どうしたのかな?」
「子供の前で大人げないぞ、ティニア……」
彼女の名を口にした瞬間、アルベルトは口元を押さえた。意図的に避けていたはずだった。
ティニアという名は、本当の名前ではない。
ミュラー家で聞かされた時、自分でも説明のできない感覚が胸を走った。
――レン。
その名に、何故だか胸の奥がキリキリと痛んだ。
懐かしいような、大切な何かを忘れているような感覚。
最近もどこかで、同じ感覚を味わった気がするが、思い出せない。
「…………」
ぼんやりと視線を向ける先では、ティニアが子供たちに囲まれて笑っていた。
突然黙り込んだアルベルトを前に、ティニアは首をかしげた。
子供の一人が、ボールをティニアの元へ転がした。ティニアは足元に転がってきたボールを手にすると、子供たちを促した。
「大人げない彼の為に、皆でボール遊びをします! 御本は、それが終わってから読むから、何の本を読むか決めておいてね! ほーら、お外にいくよ!」
ティニアの元気な掛け声に、子供たちは歓声を上げた。
多くの子供たちが、里親の元に旅立った。
今見える光景も、長くは続かない。
今目の前にあるものも、いつか失われてしまうのかもしれない。
そんな考えが、理由もなく胸を締め付けた。
アルベルトは子供たちに、自身の少年時代を重ねた。
イタリアの孤児院で買われたことに、何の感情も沸かなかった。
彼らの言葉を耳にしたあの時、初めて怒りの感情に支配された。
軍学校へ入れられ、軍人となるべく生かされ、教育を受けた。
全てに悲観し、何も信じられぬ日々だった。
そんな折、ドイツのバーで出会った、一人の少年――。
アルベルトは思い出した。
レンという名を聞いた感覚と、少年と出会った時に感じた感覚が、同じであったことに。
少年とティニアはよく似ている。それは容姿のことではない。
何か、何かが思い出せない。肝心の何かを――。
子供たちと戯れるティニアを見つめ、アルベルトは右手を握りしめた。
まるで、焦りと不安を押しつぶすように――。




