⑲-3 混濁
肩に腕を回された状態のティニアは、抱きかかえられるように歩いていく。
腕を回すアルベルト、そしてその二人の後ろを静かについていくティナ。
三人はエーニンガー通りを抜け、細いリギューエートリ通りに入った。小さな小道は、何度も往来した通りだ。レンガや石畳の目立つ、古き良き通りであり、観光地である旧市街地からは多少離れており、静かな景色が広がる。
マリアとアルベルトが初めて対面したのも、リギューエートリ通りだった。
ここを真っ直ぐ進めば、住み慣れた家がある。
普段よりゆっくりとした足取りだが、一行は無言であった。時間はわからなかったが、太陽がとうに落ちていることからも、二十時は過ぎているだろう。
ティニアはあちこちを見つめては目が泳ぎ、落ち着きがない。
その沈黙を破ったのは、意外にもティナであった。
「あの、ティニアさん」
「何でしょ?」
ティニアは気の抜けた返事をした。
「私が入院中、言葉も話せなかった時から、何度も薬の調合や食事の手配をしてくださったと聞いています。改めて、お礼を云わせてください」
「お礼って。病院に勤めた以上はやることだし、そんな改まらなくても大丈夫だよ。お礼はレオン先生に言ったらどうかな」
「それでも、大変感謝をしております。……記憶がなく、色々とご迷惑をおかけしました」
「……記憶ないのは、困ったね」
前髪を直しつつ、ティニアは思いつめるように俯くと黙り込んでしまった。再びの沈黙に、アルベルトとティナは自然と視線を合わせた。ある思いが頭に過ぎり、アルベルトはその名を呼びかける。
「あの、ティナさん」
「はい」
アルベルトがティナへ呼びかけると、ティニアはアルベルトを拒否するように絡まれた腕を突き放した。
「どうしたんだ」
「ティナさんと、話があるんでしょ。私は先に行くよ」
そういうと、ティニアはくるりと振り返った。
「ティナさんをエスコートしたほうがいいんじゃないの。そういうの得意だよね?」
「い、いえ私は……」
「私は着替えたいから、先に帰ってるよ」
ティニアはスカートの裾を摘まむと、足早に歩き出した。
「あ、おい……!」
「……あの、私に何か?」
ティニアを追いかけようとしたアルベルトを呼び止めたのは、ティナだった。その間に、ティニアは速足で通りを抜けていく。アルベルトはティナが病み上がりであったことを思い出すと、歩調を彼女へ合わせた。
「……えっと、ティニアとは以前から知り合いで?」
「い、いえ……。会話をしたのも、今日が初めてです」
ティナは視線を逸らした。歩みが更に遅くなる。
「俺と、どこかで会ったことがあります?」
「…………」
ティナは俯き、一瞬だけ表情を曇らせるとアルベルトを見上げた。
「あの、どうして……」
恐る恐る尋ねたティナに、アルベルトは笑みを浮かべた。安堵したような笑みに、ティナも緊張が解けたのか表情が和らいだ。
「いえ……。すみません。私、記憶がなくて……」
「ああ。そういえばそうでしたね。俺、この町に来てから、どこかで会った気がする人とばかり出会うんですよ」
アルベルトは更に付け加えた。
「まあ、俺も覚えがないんですけどね」
「…………」
「俺は本当にくだらない人生しか歩んでこなかった。それでも、もう一度会えたら……って、そう思ってる人には会えないんですけどね」
アルベルトは苦笑いを浮かべた。
「……何方かをお探しなのですか?」
ティナが顔を上げた。自然と視線が交わる。
「え、誰から聞きました?」
「マ、マリアからでしょうか……」
ティナは視線を逸らすように、空を見上げた。
「ああ、マリアか。前は必死に探してたんですよ。不思議なくらいに」
「……そうですか」
ティナは一瞬立ち止まると、先を指さした。リギューエートリ通りには二人だけであり、ティニアはもう見えない。
「歩くのが遅くてごめんなさい。ここを真っ直ぐでしたよね。先にティニアさんの所へ行ってあげて下さい」
「いや、いいんですよ。もう」
「…………。すみません」
「いえ、気にしないでください」
アルベルトもまた、空を見上げた。空には月が闇を支配するかのように鎮座している。ティナの歩調に合わせるように、ゆっくりとした口調で、遠き日を語った。
◇◇◇
「1936年、俺は歩兵学校へ入るために、イタリアからドイツへ移住したんです。で、クリスマスに適当にバーへ行って、そこで……」
アルベルトは上空を見つめた。まだ周囲は薄暗くもなく、明るい。
「ティニアによく似た奴と、会いました。まあそいつは男に見えましたけど」
「それは……、ティニアさんだったのでは」
アルベルトは視線を横へ外すと、気恥ずかしそうに頬を赤らめる。
「いえ。本人は違うと言ってましたからね。とはいえ、顔も背丈も全然違うので、本当に別人なんだと思います」
「それなら、どうして……」
アルベルトは笑みを浮かべる。
「なんだろう。不思議なんですよ。でも、雰囲気っていうかが、似ている感じがしたんですよね」
「…………」
「あ、ティニアとティナさんは似てませんよ?」
ティナは言葉を詰まらせながら、なんとか否定した。
「確かに容姿は似てるかもしれませんけど、性格も話し方も全然別人でしょう?」
「…………」
「俺は、二人は全く似てないと思ってます。ゲオルクもそうだと思いますよ」
「…………ゲオルク?」
ティナは立ち止まった。アルベルトもまた自然と立ち止まった。
「診療所の、ゲオルクですよ」
「……レオン先生の事ですか? ……先生の名は、レオン・ハイムだったかと思いますが……」
「あれ。どうして…………。レオンだ、そうレオン。なんで」
「…………」
再び歩みだしたティナだったが、アルベルトは立ち止まったままであり、ティナは慌てて振り返る。アルベルトは目を虚ろに変え、赤い瞳を見せた。
その様子に、ティナは目を見開く。
「どうして、間違えた……? 俺は、誰と……」
「だ……、大丈夫ですか」
ティナの声に気づかず、アルベルトは思案したままブツブツと呟きだした。
瞳は更に虚ろに染まり、そして――。
――心臓が跳ねた。
どこに立っているのか、どこに自分が存在しているのかが曖昧になっていく。
妙に静かだ。音は何も聞こえず、僅かに聞こえていた町の喧騒も聞こえない。
先ほどまで暗かった空は、いつしか紫がかった青空へと変わる。
アルベルトの体は宙へ放り出されたかのように揺らぎ、意識が足元から崩れていく。
遠くには山脈が広がり、大陸の中央には森が広がっている。
森の中央には、気高い崖山が聳え立っている。
急に体に負荷がかかり、自由落下を始めた――。
「アルベルト・ワーグ!」
シェアハウスの中からティニアが現れ、慌てて駆け寄ってくる。服は着替えたようであり、あの血痕はもう見えない。




