⑲-1 余波は日常を超える
軽やかな雨音は薬として平穏をもたらすものの、多すぎる雨音は不安や災害をもたらしてしまう。
旧市街地シュタイン・アム・ラインに振っていた雨は夕方には止み、分厚い雲だけが広がる。
胸の中を巡る感情を抑え――ミュラー家を訪れていたマリアとアルベルトは、ティニアが待つであろうシェアハウスへと戻った。
しかし、肝心のティニアは帰宅しておらず、心配したマリアとアルベルトは孤児院を訪れる。
宿直の職員が知っていたのは、二時間ほど前にティニアが帰宅したということだけだった。
薄暗くなった町並みが、不安を一層掻き立てる。
マリアは町にある時計塔を見上げた。時計の針は十九時半を過ぎている。
マリアとアルベルトはそのまま教会を訪れるが、もぬけの殻であった。
二人は町を走り回るものの、ティニアの姿はない。
「広場にも行ったのに! どこに行っちゃったの……。何かあったんじゃ」
マリアは狼狽していた。その朱色の美しい髪を雨粒が跳ねていく。
薄暗い空はより一層恐怖心を募らせた。
ティニアは今も二重スパイとして行動し、ヴェルローラの構成員として動いているのではないだろうか。
敵組織・ヴェルローラで廃棄処分を受けたとはいえ、アルビノの少年レンは、今ティニアとして生きている。
二人が同一人物だという確証はない。それでも、マリアはそう信じていた。
ティニアは以前、足を怪我していた。あれも任務の最中に負った傷だったのではないか――そんな考えが頭をよぎる。
もう二度と会えないのではないか。
湧いてくる考えは、どれも悪い考えばかりであった。
「教会にアドニスも居ないのは、流石におかしい。二人は一緒にいるんじゃないか?」
アルベルトの声は震えている。
普段ならアドニスへの嫉妬で見えなかったことまで、今は見えているのかもしれない。
「本当に、どこへ行っちゃったの……」
単純にどこかへ行っているのかもしれない。それを祈るしかなかった。
ティニアと、――レンと、何も話せていない。
顔を合わせ、再び走り出す。マリアは路地から曲がってきた女性とぶつかりそうになった。女性は、ティナであった。
「マリアじゃないですか」
「ティナ! なんでこんなところに!」
「貴女こそ。夕食に出かけたのでは? 私は散歩ですよ」
「そ、そう……。今、ちょっとあって。あ、えっと。彼はアルベルト。……ティニアの、新しい同居人よ」
「アルベルトです。貴女がマリアの同居人か」
ティナは薄手の上着を羽織っているだけの軽装で、傘をさしている。雨が降った後の町は、少々肌寒く、風も冷たい。
ティナの顔色は悪く、青ざめている。
「……初めまして。ティナと申します」
ティナは深々と頭を下げた。その丁寧な口調も、どこかぎこちない。
マリアの中に、ある考えが湧いてきた。
彼女の口から、全ての真相を聞いたわけではないが、ティニアがレン少年であるのなら、二人は旧知の仲だ。何か知っていることが、わかることがあるかもしれない。
「ねえ、ティナ。ティニアが居なくなって、帰ってこないの。見かけていない?」
マリアは小さな希望を抱いたが、ティナは首を横に振った。望みは脆くも崩れ去ってしまう。
「見かけていません」
「そう……。教会にも行ったんだけど、誰も居なくて」
俯くマリアを前に、ティナも俯いた。先を急ぎたいアルベルトが二人へ声をかけようとしたとき、ティナが顔を上げた。
「診療所へは行かれましたか?」
「え、診療所? もう時間が遅いから、閉まってそうだけれど……」
小さな可能性があるのなら、行かない理由にはならない。
そう感じたのは、アルベルトも同じのようだ。
「行こう、マリア。診療所へ」
「うん」
「足止めしてしまって、ごめんなさい。私も一緒に行きます」
深々と頭を下げるティナは、マリアをまっすぐ見据えた。
ティナが同行すると言い出したことで、マリアの胸に最悪の想像が浮かぶ。
マリアは首を横に振ると、ティナへ大きく頷いた。
走り出した三人は角を曲がり、町を駆け抜けていった。そして診療所のある通りに差し掛かった時。
そこには呆然と立ち尽くすティニアの姿があった。




