⑱-4 足りないもの
「そう、ティニアの本名は――レンだ」
ミランダの言葉を、マリアは静かに聞いていた。
それが、事実だ。
アルビノの少年レンは、ティニア。
ティニアが――レンだった。
そして、戦時中から戦後にかけ、ティニアは苦痛を浮かべ感情を噛み殺していた。知り合ったばかりのマリアでさえ、わかっていたことだ。
マリアはアルベルトの言葉を思い返していた。
ティニアは自分を必要とし、傾けば共倒れしてしまうと感じていたのだろうか。
懐かしい思い出を語った後の、彼女の微笑み。
その笑みが忘れられない。
だからこそ、彼女が感情を噛み殺す姿を、何度も見てきたのだ。
何かの報告を受けると、決まって数日姿を見せなくなった。
それでも、彼女は戻ってくると無邪気に微笑むのだ。
そして、人々の足元にまだ道があり、歩けることを教えてくれる。あくまでも、動くのは自分たちであるというのだ。
物理法則は思いを超える。
それは、彼女の口癖だ。
(そんなティニアを、私は疑いたくなんてない。彼女は……。敵じゃない)
それが例え、意固地な我儘だとしても――。
誰よりも辛いのが彼女であることは知っている。それでも、何もできないのだ。
ミランダたちにとっても、アドニス神父にとっても。
優先されるのは、ティニアだ。
それでも、誰一人として彼女に踏み込むことなど出来ない。
そして、人々に無力さを痛感させる。
謎しかない彼女が敵であったとしたら、彼女と戦うことが出来るのだろうか――。
マリアが鳥肌を感じた瞬間、ミランダが口を開いた。
「どうして、ティニアが偽名を使っているのか。そう思うだろう?」
顔を上げたのは、アルベルトだ。
途端にマリアの体が震えだし、奥歯を強く噛み締めた。
「待って」
「マリア?」
「…………。ごめん。私、少しだけ時間が欲しい」
「マリア!」
アルベルトはマリアの腕を掴むと、必死に名を呼び訴えたが、マリアは視線を逸らすことなく言った。
「今の私じゃ、決められないのよ」
「……マリア…………」
「ミランダさん。私はミランダさんを信じてる。だから、だからこそ……少し時間が欲しいの」
ミランダは目を潤ませ、表情を崩した。
「……ちゃんと話せるように、私も情報を集めたい。憶測で話をしたくないの」
マリアは胸に手を当てた。そこには、機械で作られた心臓がある。
本当は、ここで叫びたかった。
自分はケルンメンシュという実験体で、人間ではない。私を否定しないで、と――。
叫び声は心の中でだけ響き、言葉になる事はなかった。
胸を抑える指先だけが、小さく震えた。
俯いたまま、唇を強く噛む。
ミランダは一瞬目を閉じると、いつもの視線を送った。
「とにかく。今話したことは他言しないで。メアリーにもよ、マリア」
「わかった」
「アドニスは全部知っているのか?」
アルベルトの問いかけに、ミランダは頷いた。
「そうだな。彼は計画的にドイツから来た。どちらかというと、アドニスは私たちより分が悪かったけれど、スイスへ先回りしてくれたのよ」
「どうして、スイスへ渡ったんだ」
アルベルトの問いに、二人は押し黙った。そして、ディートリヒが言葉を放つ。
「祖国というべきか。……ドイツを見限り、亡命した。そういうことだ」
「ドイツに居た君ならわかるだろう、アルベルト」
畳みかけたミランダの言葉が、アルベルトを貫くようだった。
「ああ」
重苦しい空気が流れる。時計の針は午後五時を指している。
「ティニアも心配するから、ひとまずお開きだな」
「そうだな。ミランダさん、ありがとう。話してくれて」
「無理に信じろとは言わない」
「…………」
アルベルトは疲れたように目を虚ろにすると、席を立った。
「あんた、大丈夫なの?」
「ああ。お前こそ、大丈夫か。うちで夕飯、食べていくだろ。この後で、ティニアに会って大丈夫なのか?」
「うん。まあ。約束してたし……」
「それじゃあ帰ろう」
ディートリヒは歯がゆい気持ちを隠さずに顔へ出したまま、席を立った二人に向かった。
「気をつけてな。ティニアは察しがいいから、気をつけろよ。あいつも、俺たちにすべてを話したわけじゃないんだ。よろしく頼むよ。何も解決してなくて悪いな」
「いや。俺も色々と考えを整理したい」
「二人とも、滅多な事を考えるなよ!」
帰り際、ミランダの声が響いた。二人は振り返ると、手を振って応答したが、言葉になることはなかった。




