⑰-5 嗚咽
「話す相手を間違えているんじゃない?」
マリアは目の前の男を見上げた。
男――アルベルトは川から視線を上げ、マリアへ向けた。
「俺はマリアと話をしている」
「それこそ、ティニアと話したらいいじゃない」
「ティニアは、多分知っているよ」
アルベルトはそのまま釘を収納する箱へしまい込むと、静かに立ち上がった。
「あいつは何も言わないからな。それでも、俺はあいつの傍に居たくなった。その為に、お前を追い出してしまった」
「だから、追い出された訳じゃないって。もう、何度言ったらわかるの」
マリアはアルベルトを睨みつけたが、アルベルトの視線は北へ向いていた。
アルベルトはライン川を見つめているのではない。北にあるドイツを見つめているのだと、マリアは気付いた。
――ドイツ。
マリアは一度も行ったことが無く、知識もほとんどない。
世界大戦では、随分と残虐な行為をしていた国である。
暮らしているシュタイン・アム・ラインが誤爆攻撃を受けたのも、ドイツと間違えたからだと言われている。
ティニアにとっての恩人も、中世とはいえドイツ人だ。
アルベルトだけではなく、ティニアにとっても因縁のある国なのかもしれない。
「そんな俺でも軍と関係のない、銃を使わない仕事につけたんだ。お前だって、出来るさ」
「……私が銃を扱うような、良からぬことをしていたとでも考えてるの?」
「これから、良からぬことをしようと考えているだろ」
沈黙という肯定をしてしまうものの、マリアは言葉が何も出て来ず、そのまま黙り込んでしまった。アルベルトはマリアの方を見ずに、ドイツの方角を見つめている。
まともではない異質な存在である自身が、この世界に受け入れられるとは到底思えない。
アルベルトは、マリアが実験体――ケルンメンシュであると知っても、親しくしてくれるだろうか。
「マリアはマリアだ」
「……。それ、ティニアにも何度も言われたなぁ」
一瞬息を止めそうになりながら、なんとか瞬時に言い返した。涙ぐんだ声は、震えたまま、頬を濡らしたことで一気に加速する。いっそ、声を出して泣きじゃくれたら、どんなに楽だろうか。
ティニア、そう彼女の名を偽名で呼ぶことに、違和感しかない。彼女の名を、真の名で呼びたい。
「わたし、もうティニアといっしょにいられない」
「なんでだよ。いればいいだろう、今晩だけじゃなく、ずっと来たらいいだろ。たまに泊ったって、戻ってきたって」
マリアは首を振った。溢れかけていた水滴は、そのまま頬を撫でた。
抑えていた感情が溢れていく。
心の震えが止まらない。
アルベルトはマリアの顔を見ないように顔をあげたまま、マリアを強く抱き寄せた。
「……なにしてんのよ。やる人を、間違えてるん、じゃな…………」
泣き声とともに、言葉を、声を何とか紡ぎだす。最後はマリア自身でも、何を言っているのかわからないほどに、嗚咽まじりだ。
「こうするしか、思いつかない」
「馬鹿じゃないの、ティニアに見られたら」
「それこそ、ティニアは抱きしめてやるさ。あいつだって、今のお前を見たら……。今、呼んでこようか?」
「やめてよ、はなしを、聞いて、たの?」
言葉が出ない。
「いいから泣いてろ」
マリアはもう、抵抗する事が出来なくなり、わーっと声を上げた。涙はライン川のように永遠と流れだした。周囲を気にする余裕などなかった。
シュタイン家の指示が大きくなり、スクワットが開始された。異常な光景は人々をマリアから遠ざけていく。
ティニアはレンだ。
ティナは何も言わなかった。
それでも、確証はある。
ティニアと、何年も一緒に暮らしてきたからだ。
ティナから全てを聞き出してもいいだろう。
廃棄処分された少年が、どうして女性として生きているのか。全く分からない。
でも、それでも――。
事情があるにせよ、本人の口から真実を聞きたい。
マリアとティニアの間にある絆を信じたい。
――決して、試したいわけじゃない。
でも、どうすればいいのだろうか。
彼を、あの子の目を、貫いた眼を見て、どうやって。
あの澄んだ、真の強い瞳を。
アルベルトは何も知らない。ティニアはずっと黙っているのだろうか。真実も告げられず、どうするのか。
真の名はティニアではなく、――レンであるということも。
ティニアは今まで、何を、どういう思いでマリアを見ていたのか。
あれだけ強い思いを抱いているドイツを、アスカーニエン家の心配をすべきではなかったのか。
マリアなどではなく、恩を返すために。返せずとも、彼らの子孫の傍に居たかったのではないか。
ティニアはどうして、スイスへ渡ったのか。
自身のために、彼女はスイスへ渡ったのではないのだろうか。
――違う。
多くの移民を連れていた彼女は、最初からスイスを目指していた。
――何か、目的のために。
――レンには目的がある。
ティナの言っていた言葉が、強く心を刺した。




