第十八話 天文二十四年四月二日 武吉の嘘
その知らせを受けた武吉は背から落ちてしまわないように太郎をおんぶ紐でしっかりと縛り、急ぎ小早を走らせて中途島へ向かう。
骨折は完全には治りきっていないが、それどころではない。
焦る武吉は船が岸に着くのも待たず、急いで砂浜に飛び降りた。
小早の漕ぎ手たちにはそのまま待機を命じ、膝上まで水に浸かって飛沫を上げながら島に上陸。そのまま走り続けて、勝手知ったる義益の屋敷に駆け込んだ。
十日前の三島会議の際に見たはずの庭の桜の花は既に盛りを過ぎて殆ど葉になってしまっている。しかしそんなことにも気づかないほど、武吉はただただ、この一報が嘘であればと願って走った。
かくして。
筵の上に横たわる義益は、顔こそ綺麗なままであったが、全身傷だらけで、明らかに誰かに傷つけられた形跡があった。
胸や腹部は特に、どす黒く変色した多量の血液が固まって張り付いている。
「あ……あぁぁ……」
背負っていた太郎をその場に降ろし、武吉は冷たくなった従兄に縋り寄る。
誰だ? 誰が殺った? という疑問と、どうして? どうして従兄殿が? という疑問で頭の中がいっぱいになり、まともな思考なぞできる訳もなかった。
武吉は義益の上体を右腕で抱き上げる。病弱で細くて華奢な義益であるはずなのに、ずっしりとした重みが武吉にのしかかった。
「ちちうえ?」
太郎がその人だぁれ? と首を傾げながら武吉の袖を引っ張った。
溢れ出る涙を添木を括られた左手で拭いながら──もっとも、とめどなく流れる涙には全く無駄な仕草でしかなかったが、それでも武吉は太郎に優しく話しかける。
「太郎……今日のこと、忘れてもいいから。この人の顔を、どうかしっかり、よく見ておくれ……」
十日前の約束──泳げるようになったら、太郎を此処に連れてくる──。
もちろん、太郎はまだ泳げないけれど、先に約束を破ったのは従兄殿の方だから、知ったことか。
「……このおじちゃん、ちちうえのだいじなひと?」
「あぁ……そうだよ」
武吉の言葉に、義益の顔を、太郎はじっと覗き込んだ。
そんな太郎を見ていると、さらに武吉は涙が込み上げて嗚咽を漏らしながら太郎に教えた。
「この人はね、父上にとっても……太郎にとっても……とっても大切な人なんだよ……」
◆◇◆
妻が嫁いだ際、武吉は彼女に指一本触れることさえ許されなかった。
とても美人であったし、巡り巡って能島当主に就いたとはいえ能島の傍系出身の自分と、来島当主の姫君では吊り合うわけもなく、高嶺の花だと思っていたから──それ故彼女が少しぐらい気位が高くても、致し方ないものだと思っていた。
そのうちに気を許してもらえて、仲良くなれると気楽に考えていた武吉であったが、そんな状況の中──指一本触れていないはずの、彼女の懐妊が判明する。
その時、彼女が通康から無理やり義益と離縁させられ、武吉に嫁がされた経緯を知った。
だから、武吉は怒った。
梅に、通康に、そして能島村上に渦巻く、一歩下がった場所から高みの見物を決め込んでいるかのような、冷ややかな大人たちの思惑と己の境遇全てに──。
そして武吉は、己を侮るすべての者に、一矢報いてやろうと公言した。
梅の腹の子は自分の子であると。
梅が太郎を産んで、そのせいで直ぐに亡くなってしまった後も、武吉は真相をひた隠して、太郎を唯一の自分の子として──次期能島村上家の後継であると周知させていた。
故に。
武吉が二番目の妻に触れることはない。
太郎の後継の地位を脅かす存在の誕生を、武吉が誰よりも許さない。
そう──どんなに武吉自身が、彼女のことを愛していたとしても。
◆◇◆
武吉は現在能島城で暮らしているが、本来能島村上家の本城は、伯方島にあった。
武吉は義益の遺体を乗ってきた小早に乗せ、一路居城の能島ではなくその伯方島に向う。
後継者争いが勃発し幽閉されるまで、嫡子であった義益はこの本城で暮らしており、武吉は彼の遺体を本城に程近い、村上の菩提寺で供養してもらうことにした。
小早の漕ぎ手である家臣たちに手伝ってもらいながら義益の埋葬を終え、泥だらけで能島に帰ったのは、夕刻を過ぎて既に空に星が瞬いている頃であった。
「今日はもう、お休みになられませ」
花はそれだけ言うと、武吉の背中で眠っている太郎を受け取り、酒の入った提子と土器二つを置いて、一人にしてくれる。
ほんに、俺には過ぎた嫁だよと、思わず武吉は自嘲した。
一日中、何度も何度も泣いたせいで目は腫れぼったく、酷い顔色であることは武吉も自覚していた。
武吉は土器二つに酒を注いで、片方を自分の向かい側に置き、もう片方をぐっと飲み干す。
(たった、十日前だってのに……)
あの時の義益の顔と、美しい空がぐるぐると脳裏をよぎって──それなのに今日は──と思うと、後から後から涙がとめどなく溢れ続ける。
武吉は泣きながら眠りについた。
そして、夢でもいいからもう一度義益に会いたいと願った。
◆◇◆
三日後の天文二十四年四月五日。
叔父の隆重とともに、能島にとある来客が訪れた。
当初は義益の喪失感からくる気分不良と、ヤケ酒続きでの物理的な体調不良を理由に面会を断ったが、「いつまで寝込んどるつもりじゃぁッ!」と叔父に蹴り起こされ渋々面会を了承した。
「これはこれは。御当主殿にはお初にお目にかかる」
誰だこのおっさん──武吉は内心不貞腐れつつも、頭領らしく毅然と対応する。
「能島当主、村上武吉である」
「大内家家臣、弘中隆兼にございます」
お、大内──? 予想外の相手に、思わず武吉は叔父をチラ見するが、叔父はずっと隆兼の後ろで平伏したまま、こちらに顔を向けない。
訝しむ武吉だったが、隆兼の言葉に体を強張らせた。
「此度は御身の宿敵である村上義益の討伐、誠におめでとうございまする」
何故、この男が義益の死を知っている?
いや、確かに、俺が当主になる前は敵対してたんだから宿敵って表現はそりゃ理解できるけど、討伐ってなんだ……?
武吉の問いは声に出ていないはずなのに、目の前の男はペラペラとどんどん喋り始めた。
「我が主人、大内義長公と陶殿も、心から心配されておられましてな。能島殿がなかなか中途衆にとどめを刺されぬのは何故かと。中途衆が毛利と手を組むと厄介なことになりますので、その旨を隆重殿に相談致しまして」
隆兼の持つ扇が、パチンと音を立てた。
「そうすると隆重殿が私が是非にと仰せになられましてな……」
よき、叔父上に恵まれましたな。ニコニコと笑う隆兼に、武吉の拳が怒りで震える。
「能島殿はこれからも、このように我が殿の憂いを払うようにしっかり働いていただきたい。さすれば、厳島周囲での駄別安堵はいずれ、許されることとなるでしょう」
「なッ! 話が違うではないか! 奴を殺せば厳島での駄別安堵を許すと……」
大声で怒鳴った隆重だったが、武吉を前にさすがにマズいと思ったか、語尾が消えいりそうなほど細くなる。
しかし、時は既に遅し。武吉は全てを理解した。
心の底から笑いが込み上げ、けたたましく笑う武吉を見て、隆重と隆兼がぎょっと目を見開く。
ひとしきり笑った後、武吉は「相分かった」と隆兼に微笑んだ。
「お心遣い、感謝いたします隆兼殿。不肖この村上武吉、誠心誠意、大内にお仕えいたしましょう」
大内義長、陶晴賢、そして弘中隆兼──貴様らのその首、近々俺が貰い受けてやるぞ。
打倒大内を心に刻んで、武吉はにこやかな顔で、大きな嘘をついた。




