第九章 核が語る
核は喋らなかった。
あれから——どのくらい経ったのか分からない。川底には朝も夜もない。青黒い光が変わらず灯っている。私は壁にもたれて座り、核は宮殿の奥に横たわっている。見ている。ずっと見ている。
「人間が怖くないのか」と聞いたきり、黙った。私が「怖い」と答えたのが意外だったのか、それとも「慣れた」が気に障ったのか。
どちらでもいい。黙っているなら、こちらから動く。
壁を伝って歩いた。宮殿の反対側に何かあるかもしれない。出口。あるいは手がかり。
蔓が動いた。
壁から伸びていた蔓が——私の足元に伸びてきた。
止まった。攻撃か。
蔓が足首に触れた。巻きつかない。触れただけ。冷たい蔓の先端が、足首の表面をなぞるように動いた。
攻撃ではない。試している。
反応を見ている。悲鳴を上げるか。泣くか。逃げるか。
姉たちなら泣いただろう。叫んだだろう。しかし私は——泣く分の涙を、七年前に使い果たした。
蔓を避けて歩いた。足を上げて、一歩横に。
別の蔓が裾を掴んだ。引いた。
——裂けた。
赤褐色の平服の裾が、膝の上あたりから真横に裂けた。水を吸って脆くなった生地が、蔓の力に耐えられなかった。左脚が膝から下、露わになった。
裂けた裾を見た。
気にしない。
脚が出ただけだ。膝から下。冷たい。川底の水気が直接肌に触れて、鳥肌が立っている。
核が——見ていた。
昨日は腕を見ていた。今日は脚を見ている。同じ目。確認の目。人間の体がどうなっているか調べているような、興味と無関心の中間にある目。
裂けた裾の端を、手で整えた。これ以上裂けないようにまとめて結んだ。結び方が雑だったが、仕方がない。針も糸もない。
核を見た。
「続けていいけど——話しかけてほしい」
核が止まった。蔓が止まった。
「黙って見ているだけなら、こちらも退屈。試すなら試すでいい。でも、話しかけてくれた方が助かる。私は——あなたのことを何も知らない」
長い沈黙。
核の黒い目の奥で、青い光が揺れた。
「……何を知りたい。」
声。低い。古い。しかし昨日より——少しだけ、柔らかかった。柔らかいというより、硬さが一枚減った。
「全部」
「全部は長い。」
「時間はある。出られないから」
核の口が——わずかに動いた。笑ったのではない。しかし無表情の奥で、何かが動いた。
「……出雲は、清かった。」
語り始めた。
「今のこの川を見て、信じられないだろう。しかし——清かった。水は透明で、魚がいて、草が青くて、人間が水を汲んでいた。」
腿が冷たい。川底の水が直接肌に触れている。核はまだ話している。
「俺は——この川にいた。名前はなかった。川の力だった。水が流れるように流れ、草が育つように育ち、魚が泳ぐように泳ぐ——その全体を動かしている力。それが俺だった。」
「川の——守護者」
「守護者という名前はなかった。ただ、そこにいた。川がある限り、俺がいた。」
私は壁にもたれたまま聞いていた。裂けた裾の端を指で弄りながら。核の声は低いが、聞き取りやすかった。岩に反響して、宮殿全体が喋っているように聞こえる。
「人間が増えた。」
核の声が、少しだけ硬くなった。
「山を削った。木を切った。川に土が流れ込んだ。水が汚れた。魚が減った。草が枯れた。」
「…………」
「俺は——怒った。」
その一言に、何百年分の感情が詰まっていた。
「守ろうとした。水を清く保とうとした。しかし人間は止まらなかった。汚し続けた。俺がいくら清めても、人間は汚した。」
「それで——贄を」
「代償を求めた。川を汚すなら——対価を払えと。最も大切なものを差し出せと。」
「最も大切なもの」
「娘だ。人間にとって——次の世代を繋ぐ存在。それを差し出させれば、人間は川を汚すことの重さを理解すると思った。」
指が、裾の端を握りしめていた。
姉たちの顔が浮かんだ。一番上の姉。いつも笑っていた。二番目の姉。料理が上手だった。三番目。四番目。五番目。六番目。七番目。
全員の顔を、私はまだ覚えている。
「理解したか。」
私の声は平坦だった。平坦でないと、次の言葉が出ない。
「人間は——川を汚すことをやめたか。」
核が黙った。
「やめなかっただろう。」
「……やめなかった。」
「娘を差し出しても、やめなかった。毎年一人喰っても、やめなかった。」
「…………」
「なら——姉たちを喰う必要はなかった。」
声が震えた。平坦に保とうとしたが、最後の一音が割れた。
「喰っても意味がなかった。人間は変わらなかった。あなたの怒りは——正しかったかもしれない。川を汚されたことへの怒りは。でも方法が——」
言葉が途切れた。
方法が間違っていた、と言えばいい。しかし「間違っていた」で済む話ではない。七人の姉が死んだ。間違いの代償が七人の命だった。
核が——黙っていた。
長い沈黙。宮殿の中に、水が滴る音だけが反響していた。
「……怒りが八つの頭になった。」
核が、再び話し始めた。声がさらに低くなっていた。
「最初は一つだった。俺だけだった。しかし怒りが大きくなるたびに——分かれた。怒りが頭になった。哀しみが頭になった。記憶が。問いが。毒が。夢が。水が。」
「七つの頭は——あなたの感情の分身」
「俺から剥がれ落ちた感情だ。怒りを頭にして吐き出し、悲しみを頭にして吐き出し——最後に残ったのが、俺だ。核。」
「何が残ったの。七つの感情を全て分けた後に。」
核が——止まった。
黒い目の奥の青い光が、大きく揺れた。
「……寂しさ、だろう。」
寂しさ。
怒りでも悲しみでもなく——寂しさ。
誰にも理解されなかった守護者の、最後に残った感情。川を守り続けて、汚され続けて、怒りも悲しみも吐き出して、最後に残った核が——寂しかった。
「……だから、人間を連れてきたの。私を」
核が答えなかった。しかし答えないことが答えだった。
贄ではなかった。
私をここに連れてきたのは、食べるためではなかった。寂しかったから——誰かと、話したかったから。何百年も一人で川底にいた存在が、初めて「話しかけろ」と言われて、話し始めた。
憎い。
憎いが——分かる。
分かってしまう自分が、少し嫌だった。
三日が経った。
腕を川に浸し続けた。
鱗が広がっている。右腕の全体が鱗に覆われた。左腕も肘まで来た。肩にも出始めている。触ると硬い。黒緑の鱗の一枚一枚が、指先くらいの大きさになっている。
嵐が——弱い。
体のまわりの青白い風が、明らかに薄くなっている。以前は渦を巻いていた嵐が、今はそよ風くらいしか出ない。蛇口が錆びていくように、嵐の出が鈍くなっている。
代わりに鱗が増えている。嵐を失って、鱗を得ている。
老人が心配して見に来た。
「神さま。そんなに川に浸かっておられたら——」
「大丈夫だ」
「大丈夫ではないでしょう。腕が——腕が変わっておられます」
「……知っている」
「なぜ——」
「クシナダヒメが、川底にいる」
老人が黙った。
「この鱗は核と同じ素材でできている。鱗が広がれば——川底に入れるかもしれない」
「……しかし」
「他に方法がない」
老人が俺の腕を見ていた。涙ぐんでいた。なぜ泣くのか分からなかった。俺の体だ。俺が決めることだ。
「……クシナダヒメを、助けてくださるんですか」
「助けるかどうかは分からない。ただ——あいつが一人でいるのが嫌だ」
老人が何か言おうとして、やめた。代わりに味噌汁を持ってきた。
飲んだ。旨かった。
旨いと思える。まだ人間の味が分かる。鱗が広がっても、舌はまだ俺のままだ。
夜。川辺で足を水に浸していた。足先の変色が足首まで広がり、鱗に変わり始めている。水に触れると鱗だけが淡く光る。
クシナダヒメは——今、何をしている。
暗い場所で、一人で。核を相手に。あの娘のことだ。泣いてはいないだろう。怯えてもいないだろう。核を問い詰めているかもしれない。情報を引き出しているかもしれない。
あの娘は——強い。
俺より強い。嵐がなくても、剣がなくても、声と目だけで戦える。
しかし強い人間にも限界はある。
足の裏に——何も来ない。振動がない。大地を通じたクシナダヒメの信号は、川底からは届かない。
遠い。
同じ川にいるのに、こんなに遠い。
鱗が光っている。俺の腕と足が、川底と同じ色で光っている。
もう少し。もう少しだけ——
嵐が、また少し薄くなった。
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