表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/15

第九章 核が語る

 核は喋らなかった。


 あれから——どのくらい経ったのか分からない。川底には朝も夜もない。青黒い光が変わらず灯っている。私は壁にもたれて座り、核は宮殿の奥に横たわっている。見ている。ずっと見ている。


 「人間が怖くないのか」と聞いたきり、黙った。私が「怖い」と答えたのが意外だったのか、それとも「慣れた」が気に障ったのか。


 どちらでもいい。黙っているなら、こちらから動く。


 壁を伝って歩いた。宮殿の反対側に何かあるかもしれない。出口。あるいは手がかり。


 蔓が動いた。


 壁から伸びていた蔓が——私の足元に伸びてきた。


 止まった。攻撃か。


 蔓が足首に触れた。巻きつかない。触れただけ。冷たい蔓の先端が、足首の表面をなぞるように動いた。


 攻撃ではない。試している。


 反応を見ている。悲鳴を上げるか。泣くか。逃げるか。


 姉たちなら泣いただろう。叫んだだろう。しかし私は——泣く分の涙を、七年前に使い果たした。


 蔓を避けて歩いた。足を上げて、一歩横に。


 別の蔓が裾を掴んだ。引いた。


 ——裂けた。


 赤褐色の平服の裾が、膝の上あたりから真横に裂けた。水を吸って脆くなった生地が、蔓の力に耐えられなかった。左脚が膝から下、露わになった。


 裂けた裾を見た。


 気にしない。


 脚が出ただけだ。膝から下。冷たい。川底の水気が直接肌に触れて、鳥肌が立っている。


 核が——見ていた。


 昨日は腕を見ていた。今日は脚を見ている。同じ目。確認の目。人間の体がどうなっているか調べているような、興味と無関心の中間にある目。


 裂けた裾の端を、手で整えた。これ以上裂けないようにまとめて結んだ。結び方が雑だったが、仕方がない。針も糸もない。


 核を見た。


「続けていいけど——話しかけてほしい」


 核が止まった。蔓が止まった。


「黙って見ているだけなら、こちらも退屈。試すなら試すでいい。でも、話しかけてくれた方が助かる。私は——あなたのことを何も知らない」


 長い沈黙。


 核の黒い目の奥で、青い光が揺れた。


「……何を知りたい。」


 声。低い。古い。しかし昨日より——少しだけ、柔らかかった。柔らかいというより、硬さが一枚減った。


「全部」


「全部は長い。」


「時間はある。出られないから」


 核の口が——わずかに動いた。笑ったのではない。しかし無表情の奥で、何かが動いた。


「……出雲は、清かった。」


 語り始めた。


「今のこの川を見て、信じられないだろう。しかし——清かった。水は透明で、魚がいて、草が青くて、人間が水を汲んでいた。」


 腿が冷たい。川底の水が直接肌に触れている。核はまだ話している。


「俺は——この川にいた。名前はなかった。川の力だった。水が流れるように流れ、草が育つように育ち、魚が泳ぐように泳ぐ——その全体を動かしている力。それが俺だった。」


「川の——守護者」


挿絵(By みてみん)


「守護者という名前はなかった。ただ、そこにいた。川がある限り、俺がいた。」


 私は壁にもたれたまま聞いていた。裂けた裾の端を指で弄りながら。核の声は低いが、聞き取りやすかった。岩に反響して、宮殿全体が喋っているように聞こえる。


「人間が増えた。」


 核の声が、少しだけ硬くなった。


「山を削った。木を切った。川に土が流れ込んだ。水が汚れた。魚が減った。草が枯れた。」


「…………」


「俺は——怒った。」


 その一言に、何百年分の感情が詰まっていた。


「守ろうとした。水を清く保とうとした。しかし人間は止まらなかった。汚し続けた。俺がいくら清めても、人間は汚した。」


「それで——贄を」


「代償を求めた。川を汚すなら——対価を払えと。最も大切なものを差し出せと。」


「最も大切なもの」


「娘だ。人間にとって——次の世代を繋ぐ存在。それを差し出させれば、人間は川を汚すことの重さを理解すると思った。」


 指が、裾の端を握りしめていた。


 姉たちの顔が浮かんだ。一番上の姉。いつも笑っていた。二番目の姉。料理が上手だった。三番目。四番目。五番目。六番目。七番目。


 全員の顔を、私はまだ覚えている。


「理解したか。」


 私の声は平坦だった。平坦でないと、次の言葉が出ない。


「人間は——川を汚すことをやめたか。」


 核が黙った。


「やめなかっただろう。」


「……やめなかった。」


「娘を差し出しても、やめなかった。毎年一人喰っても、やめなかった。」


「…………」


「なら——姉たちを喰う必要はなかった。」


 声が震えた。平坦に保とうとしたが、最後の一音が割れた。


「喰っても意味がなかった。人間は変わらなかった。あなたの怒りは——正しかったかもしれない。川を汚されたことへの怒りは。でも方法が——」


 言葉が途切れた。


 方法が間違っていた、と言えばいい。しかし「間違っていた」で済む話ではない。七人の姉が死んだ。間違いの代償が七人の命だった。


 核が——黙っていた。


 長い沈黙。宮殿の中に、水が滴る音だけが反響していた。


「……怒りが八つの頭になった。」


 核が、再び話し始めた。声がさらに低くなっていた。


「最初は一つだった。俺だけだった。しかし怒りが大きくなるたびに——分かれた。怒りが頭になった。哀しみが頭になった。記憶が。問いが。毒が。夢が。水が。」


「七つの頭は——あなたの感情の分身」


「俺から剥がれ落ちた感情だ。怒りを頭にして吐き出し、悲しみを頭にして吐き出し——最後に残ったのが、俺だ。核。」


「何が残ったの。七つの感情を全て分けた後に。」


 核が——止まった。


 黒い目の奥の青い光が、大きく揺れた。


「……寂しさ、だろう。」


 寂しさ。


 怒りでも悲しみでもなく——寂しさ。


 誰にも理解されなかった守護者の、最後に残った感情。川を守り続けて、汚され続けて、怒りも悲しみも吐き出して、最後に残った核が——寂しかった。


「……だから、人間を連れてきたの。私を」


 核が答えなかった。しかし答えないことが答えだった。


 贄ではなかった。


 私をここに連れてきたのは、食べるためではなかった。寂しかったから——誰かと、話したかったから。何百年も一人で川底にいた存在が、初めて「話しかけろ」と言われて、話し始めた。


 憎い。


 憎いが——分かる。


 分かってしまう自分が、少し嫌だった。



 三日が経った。


 腕を川に浸し続けた。


 鱗が広がっている。右腕の全体が鱗に覆われた。左腕も肘まで来た。肩にも出始めている。触ると硬い。黒緑の鱗の一枚一枚が、指先くらいの大きさになっている。


 嵐が——弱い。


 体のまわりの青白い風が、明らかに薄くなっている。以前は渦を巻いていた嵐が、今はそよ風くらいしか出ない。蛇口が錆びていくように、嵐の出が鈍くなっている。


 代わりに鱗が増えている。嵐を失って、鱗を得ている。


 老人が心配して見に来た。


「神さま。そんなに川に浸かっておられたら——」


「大丈夫だ」


「大丈夫ではないでしょう。腕が——腕が変わっておられます」


「……知っている」


「なぜ——」


「クシナダヒメが、川底にいる」


 老人が黙った。


「この鱗は核と同じ素材でできている。鱗が広がれば——川底に入れるかもしれない」


「……しかし」


「他に方法がない」


 老人が俺の腕を見ていた。涙ぐんでいた。なぜ泣くのか分からなかった。俺の体だ。俺が決めることだ。


「……クシナダヒメを、助けてくださるんですか」


「助けるかどうかは分からない。ただ——あいつが一人でいるのが嫌だ」


 老人が何か言おうとして、やめた。代わりに味噌汁を持ってきた。


 飲んだ。旨かった。


 旨いと思える。まだ人間の味が分かる。鱗が広がっても、舌はまだ俺のままだ。


 夜。川辺で足を水に浸していた。足先の変色が足首まで広がり、鱗に変わり始めている。水に触れると鱗だけが淡く光る。


 クシナダヒメは——今、何をしている。


 暗い場所で、一人で。核を相手に。あの娘のことだ。泣いてはいないだろう。怯えてもいないだろう。核を問い詰めているかもしれない。情報を引き出しているかもしれない。


 あの娘は——強い。


 俺より強い。嵐がなくても、剣がなくても、声と目だけで戦える。


 しかし強い人間にも限界はある。


 足の裏に——何も来ない。振動がない。大地を通じたクシナダヒメの信号は、川底からは届かない。


 遠い。


 同じ川にいるのに、こんなに遠い。


 鱗が光っている。俺の腕と足が、川底と同じ色で光っている。


 もう少し。もう少しだけ——


 嵐が、また少し薄くなった。

ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


「続きをチェックしたい!」

→ 【ブックマークに追加】をポチッと!


「面白かった!」「続きに期待!」

→ 下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】に!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ