第八章 川底の宮殿
暗い。
冷たい。水の中なのに、息ができる。
目を開けたとき、私は知らない場所にいた。
天井がある。岩の天井。黒緑の岩が、低い位置で覆いかぶさっている。壁も岩。床も岩。全てが黒緑で、湿っていて、川の蔓が表面を這っている。
光源は一つ。暗い青黒い光が、奥の方から漏れている。蝋燭でも松明でもない。何かが発光している。
体を確認した。手。動く。足。動く。痛みはない。服は——濡れている。赤褐色の平服が水を吸って重い。髪が顔に張りついている。
ここはどこだ。
川底。そうだ。水に引き込まれた。あの瞬間を覚えている。嵐が凪いで、川辺にいて、足首に水が巻きついて——スサノオの手が指先に触れて、離れた。
それから暗くなった。
今、ここにいる。川の底の、岩で作られた空間。空気がある。核が維持しているのだろう。私が死んでは都合が悪いらしい。
起き上がった。
それがいた。
光の奥に。青黒い光の源が——それだった。
大きい。七つの頭とは桁が違う。スサノオが倒した「怒」の頭よりさらに太い首。鱗は一枚一枚が私の顔ほどの大きさがある。黒緑の体が宮殿の奥を埋め尽くすように横たわっていて、どこまでが首でどこからが体なのか分からない。
目が、こちらを向いていた。
赤くない。七つの頭は赤い目をしていた。この目は——黒い。深い黒。星のない夜空のような黒。その中に青い光がかすかに揺れている。
核。ヤマタノオロチの核。八番目にして最後の頭。
見ている。私を。
攻撃しない。動かない。ただ、見ている。
怖い。
怖い、と認めることにした。嘘をついても仕方がない。自分の中で「怖くない」と言い聞かせるのは、スサノオの「通りすがり」と同じだ。何度言っても嘘は嘘。
怖い。しかし——動ける。
姉たちが喰われるのを七年見てきた。毎年、姉が一人ずつ減った。二番目の姉が連れていかれた夜、私は眠れなかった。三番目のときは泣いた。四番目のときは吐いた。五番目のときは何も感じなくなった。六番目のときは、あと二年だと数えていた。七番目のときは——姉の背中を見送りながら、心の中で全ての蓋を閉めた。
この目の前のものは——そのオロチの核。姉たちを喰った存在。
憎い。
怖いが、憎い。怖さと憎さが同じ量だけあると、体は動く。どちらか一方だけなら潰れるが、二つが拮抗していると——不思議なことに、冷静になれる。
立ち上がった。
宮殿の中を見回した。出口を探す。壁、天井、床。全て岩。蔓が張り巡らされている。隙間がない。
壁に手をついて歩いた。岩の表面はぬめっていて、冷たかった。蔓が指に絡みつこうとして——振り払った。
手を壁に沿わせながら、奥に向かった。核の横を通ることになる。巨大な体のそばを歩く。鱗の表面が近い。呼吸が聞こえる。ゆっくりとした呼吸。眠ってはいない。目がこちらを追っている。
壁の出っ張りに腕が当たった。岩角が袖を引っかけた。
——裂けた。
赤褐色の平服の右袖が、肩のあたりから縦に裂けた。生地が古い。水を吸って脆くなっていた。
腕が露わになった。二の腕から手首まで。白い肌が、青黒い光の中で浮き上がっている。冷たい。川底の水気が肌に直接触れて、鳥肌が立った。
核が——見ていた。
裂けた袖の、露わになった腕を。じっと。
観察している。怒りでも欲望でもない。何かを確認しているような目。人間がどういう体をしているか知らない存在が、初めて見ている、という目。
——気にしない。
袖が裂けただけだ。腕が出ただけだ。姉を七人見送った夜に比べれば、どうということはない。
核を見返した。
「見るなら話しかけろ」
自分の声が思ったより低かった。こういうとき、声は低くなる。七番目の姉を見送ったときもそうだった。
核が——止まった。
目の奥の青い光が、ほんの少しだけ揺れた。
反応した。声に反応した。七年間、贄を差し出されるだけで——人間に話しかけられたことがないのかもしれない。姉たちは泣いていた。叫んでいた。しかし「話しかけろ」とは言わなかっただろう。
長い沈黙。
核の口が——動いた。
「——人間が怖くないのか。」
声。初めて聞く声。低い。古い。岩が喋ったらこういう声。
「怖い」
嘘はつかない。
「でも——慣れた」
核が——また見ている。今度は、さっきと少し違う目で。確認ではなく——興味。
腕が冷たい。袖がない。核が見ている。
私は壁にもたれて座った。この宮殿から出る方法は、今は見つからない。ならば——ここでできることをする。
この核から、情報を引き出す。
なぜ姉たちを喰ったのか。なぜ川を腐らせたのか。なぜ私をここに連れてきたのか。
聞き出す。時間はある。どうせ——出られないのだから。
ーーー
川面が揺れている。
俺が何度飛び込んでも、川底には届かない。
七度目だった。潜る。目を開ける。黒緑の水が視界を塞ぐ。手を伸ばす。何もない。浮上する。息を吸う。また潜る。
嵐を使えば——使ってみた。水の中で。
消える。嵐が消える。水に触れた瞬間、青白い風が溶けるように消えて、ただの腕になる。嵐は川の中では存在できない。
八度目。九度目。十度目。
何も変わらなかった。
十一度目に浮上したとき、岸に——あの笑顔があった。
「……ヒサメ」
灰白色の肌。目のない顔。黒い炎の蝋燭。暗がりの中で、笑顔だけが浮かんでいる。
俺はずぶ濡れのまま岸に上がった。
「川底に入る方法はあるか」
「川底には入れません。核の領域だから」
「お前なら入れるだろう。黄泉の意志なんだから。黄泉と根の国は繋がっている」
ヒサメが少し間を置いた。笑顔は変わらない。蝋燭の炎が揺れた。
「入れます。でも——連れて行けません」
「なぜ」
「核の領域は、核が許した者しか入れない。私は黄泉の存在だから通れる。でもあなたは——嵐の神だから。核が拒んでいる」
「拒んでいるなら——力ずくで」
「嵐は水の中で消えます」
分かっている。分かっているが——他に方法がない。
「ヒサメ。クシナダヒメは生きているか」
「生きています」
「怪我は」
「していません。核は攻撃していません」
「なぜ攻撃しない」
「分かりません。でも——攻撃する気がないように見えます」
攻撃していない。それは——良いことなのか。しかし安心はできない。あの川底に一人でいる。あの暗い場所に。
「また来ると思っていました。」
「何が」
「こういうこと。あなたは——大事なものを奪われる側の神だ。お父さんもそうだった」
父もそうだった。イザナミを奪われた。黄泉に。そして俺は——クシナダヒメを奪われた。川底に。
同じだ。父と同じことが起きている。
「……俺は父と違う。取り戻す」
「どうやって」
「分からない。でも取り戻す」
ヒサメが笑顔のまま黙っていた。蝋燭の炎が一度大きく揺れて、小さくなった。
「……一つだけ。気づいたことがあります」
「何だ」
「あなたの腕。鱗」
見下ろした。川から上がったばかりの腕。鱗が——光っていた。
水の中では嵐が消えた。しかし鱗は消えなかった。それどころか——光っている。淡い黒緑の光。川の中の色と同じ光。核と同じ光。
「核と同じ素材です。鱗は——核の一部でできている」
「……何だと」
「嵐は水の中で消える。でも鱗は消えない。鱗は核の領域でも存在できる」
鱗が——入り口になる。
この体の変化が、代償であると同時に、川底への鍵になるかもしれない。
しかし——今の鱗は腕だけだ。肩まで広がりかけているが、全身ではない。これで川底に入れるのか。入れないだろう。もっと——もっと鱗が広がらなければ。
もっと変わらなければ。
オロチに近づかなければ。
「ヒサメ」
「はい」
「鱗を——増やす方法はあるか」
ヒサメの笑顔が——変わらなかった。変わらないことが、答えだった。方法はある。しかしそれは、俺がもっと人間から——神から離れることを意味する。
「……川に触れ続ければ、増えます」
「どのくらいで」
「分かりません。でも——増えるたびに、嵐が弱くなります」
代償。クシナダヒメに近づくために、自分がオロチに近づいていく。嵐を失いながら、鱗を得る。
どこかで聞いた構造だ。何かを得るために何かを失う。父が黄泉に行ったとき——母を取り戻すために正気を少しずつ失っていったように。
「……やる」
川に手を入れた。
腐った水が肌に触れた。嵐が消えた。しかし鱗が——光った。腕の鱗が淡く光り、水の冷たさが鱗の部分だけ感じなくなった。
このまま、浸し続ける。
鱗が広がるまで。川底に入れるまで。
クシナダヒメが、待っている。
暗い場所で、一人で、あの核と向き合っている。あの娘は怯えない。泣かない。「見るなら話しかけろ」くらいのことは言っているだろう。しかし——一人だ。
腕のかわりに足を入れた。足先の黒緑の変色が、水の中でかすかに光った。
増えろ。増えてくれ。
嵐が少し弱くなった。体のまわりの青白い風が、ほんの少しだけ薄くなった。
構わない。
嵐なんかいらない。クシナダヒメがいればいい。
——そう思ってから、自分で驚いた。
「問」に聞かれたときは答えられなかった。「あの娘を愛しているか」。分からない、と言った。分からなかった。
今も分からない。
分からないが——嵐よりクシナダヒメを選ぶ、とは思った。嵐は俺の全てだった。悲しみの形。力の源。それを失ってもいいと思った。
それが愛なのか。まだ分からない。名前はつかない。
しかし——川の中に手を浸したまま、俺は朝まで動かなかった。
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