第七章 嵐が止まる夜
何も起きない日が、三日続いた。
頭はあと一つ。核。しかし核は動かなかった。川底のどこかにいるはずだが、気配すら出さない。待っているのか。こちらから来いと言っているのか。あるいは——七つの頭を全て失って、弱っているのか。
分からない。しかし——正直に言えば、この三日間は悪くなかった。
悪くなかった、と思うこと自体が問題なのだが。
朝。老人が味噌汁を作り、俺が薪を割り、老婆が洗濯物を干す。昼。畑の手入れをする。種を蒔く。水をやる。クシナダヒメの「もっと浅く」「それは逆」「常識です」を聞く。午後。子供たちが来る。嵐に触ろうとして、止められて、また来る。夕方。川辺に座る。腐った川を見る。
戦いのない日常だった。
嵐の神が畑仕事をしている。言葉にすると間抜けだが、やっていると——不思議と落ち着いた。土の匂い。種の重さ。水の冷たさ。全部、嵐の中にはないものだった。嵐は何も育てない。壊すか通り過ぎるかしかできない。しかし土は——種を受け取って、何かを育てる。
昼下がり、老人が干し柿をくれた。
「季節外れですが——去年の分がまだありまして」
食べた。甘かった。甘いという味を高天原で感じた記憶がない。
「……うまい」
「そうでしょう。ばあさんが作ったんです」
「ばあさんが」
「四十年作り続けとります」
四十年。一つの干し柿に四十年分の蓄積がある。俺は生まれてからまだ——何年だ? 神の年齢はよく分からない。しかし四十年の干し柿には負ける気がした。
子供が一人、俺の膝の上に登ってきた。
「おっきい人、今日はバリバリしないの?」
「しない。今日は休み」
「明日は?」
「分からない」
「おっきい人、いつまでいるの?」
答えに詰まった。
「……分からない」
「ずっといればいいのに」
子供は何でも言う。言われた方が困ることを、何の悪意もなく。この子供は将来「問」の頭より手強い質問者になるかもしれない。
子供が飽きて走っていった後、クシナダヒメが来た。
「腕を見せなさい」
前置きがなかった。いつもそうだ。この娘は用件以外の言葉を使わない。
「なぜ」
「昨日、鱗が増えているように見えたから」
見ていたのか。気づいていたのか。
袖をまくった。
クシナダヒメが——触れた。
俺の腕に。鱗の表面に。指先で、そっと。
冷たかった。クシナダヒメの指は冷たかった。あるいは俺の腕が熱いのか。鱗が熱を持っているのか。
「……増えてる」
声が低かった。
「手首から肘は全部。肘の上にも広がっている。右だけじゃない。左にも出始めている」
左は気づいていなかった。確認した。確かに、左の手首のあたりにも、ざらざらした質感が出ている。
「……痛い?」
「痛くない」
「…………」
「少し——」
「嘘はいいです。もう慣れました」
三段階を先回りされた。この娘は俺の嘘のパターンを完全に把握している。
クシナダヒメが、俺の腕を持ったまま言った。指が鱗の上にある。離さない。
「……なぜ戦うの。自分が壊れかけてるのに」
「通りすがりだから」
言ってから、自分でも「まだ言うか」と思った。何度目だ。もう数えていない。
クシナダヒメの目が——変わった。いつもの暗い目。しかし今日は、暗さの奥に光があった。怒りに似ているが、怒りではない。もっと熱い何か。
「嘘。もう通りすがりじゃないでしょう」
指が、鱗の上で少しだけ力を込めた。
「通りすがりは味噌汁を三杯おかわりしません。通りすがりは子供を膝に乗せません。通りすがりは畑で種の蒔き方を覚えません」
全部見ていた。全部覚えていた。
「……通りすがりは、長く続けると嘘になるんだな」
「最初から嘘でした」
そうだ。最初から嘘だった。第一章の、川辺で名前を聞いた瞬間から。あのとき通りすがりは終わっていた。認めるのに七つの頭を倒す時間がかかっただけだ。
「……ここにいたいから、いる。それだけだ」
言った。初めて言った。通りすがりではない理由を。
クシナダヒメの指が——離れた。
しかし離れ方が、いつもと違った。ぱっと離すのではなく、ゆっくりと。指先が鱗の上を滑って、最後に俺の手首のあたりで止まって、それから離れた。
何も言わなかった。二人とも。
夕方になった。
空がオレンジ色に染まった。山の稜線が黒く浮かび上がり、雲が焼けて赤くなった。出雲の夕暮れは、高天原の夕暮れより色が濃い。高天原は光が強すぎて色が飛ぶ。ここは——地上は、色が残る。
川辺に行った。
クシナダヒメがいた。先に来ていた。いつもの場所。いつもの川辺。腐った川を見ている。
隣に——
隣ではない場所に腰を下ろした。二歩の距離。いつもの距離。
しばらく黙って川を見ていた。
腐った匂いにも慣れた。最初はひどいと思った匂いが、今は「出雲の匂い」として体に馴染んでいる。それが怖い。慣れるということは——ここが自分の場所になるということだ。
「全部終わったら、どうするの」
クシナダヒメが言った。川を見たまま。俺を見ずに。
「……海原を治めろと言われてる」
「海原」
「父に言われた役目だ。海を治める。広くて、深くて、誰もいない場所だ」
「遠いの」
「遠い」
「……そう」
この「そう」に、何が入っているか。
聞けなかった。聞いてはいけない気がした。「そう」の中身を知ったら、俺は海原に行けなくなるかもしれない。
日が沈んでいく。オレンジが紫に変わっていく。星が一つ、二つ、見え始める。兄の月がまだ低い位置にある。
「……川が清くなったら」
クシナダヒメが言った。
「ここは、きれいな場所になると思う」
「そうだな」
「春には花が咲く。川魚が戻ってくる。子供たちが川で遊べるようになる」
「…………」
「見てほしかった」
最後の三文字が、とても小さかった。
見てほしかった。清くなった川を。花が咲く出雲を。
過去形だった。「見てほしい」ではなく「見てほしかった」。もう見てもらえないと——分かっている言い方だった。海原は遠い。俺はここにいられない。
「…………」
返事ができなかった。
嘘なら言える。「見る」と言えばいい。「戻ってくる」と言えばいい。しかし俺は「ありがとう」を封印したときに決めたのだ。本心でないことは言わない、と。
戻ってこられるか分からない。だから「戻る」とは言えない。
しかし「戻らない」とも言えなかった。それも——本心ではないから。
黙っていた。
二人とも黙っていた。川の流れる音だけが聞こえていた。腐った川が、それでも流れ続ける音。
風が止まった。
嵐が——止まった。
体に纏わりついていた青白い嵐が、ぴたりと凪いだ。悲しみの風が、消えた。
生まれて初めてだった。
嵐が完全に止まったのは。泣き疲れた日も、眠った夜も、嵐は止まらなかった。弱まることはあっても、消えることはなかった。それが——今、消えている。
風のない体。嵐のない、ただの体。
軽かった。こんなに軽い体は知らなかった。
クシナダヒメが——こちらを見ていた。嵐が消えた俺を、目を見開いて見ていた。
「嵐が——」
「止まった」
「……なんで」
「分からない」
分からなかった。なぜ止まったのか。悲しみが消えたのか。消えてはいない。母のことも、高天原のことも、まだ胸の穴として残っている。しかし今この瞬間——この夕暮れの川辺で、隣にこの娘がいて、腐った川の匂いがして、星が出ていて——悲しみが、嵐になる必要がなかった。
穏やかだった。
こんな時間が俺にも来るのだと思った。嵐のない、静かな時間が。
あと少しだけ——このままで。
——川が動いた。
音はなかった。
水が——クシナダヒメの足元に伸びてきていた。いつの間に。腐った水が、蛇のように岸を這い上がり、クシナダヒメの足首に巻きついていた。
「——え」
クシナダヒメが足元を見た。
遅かった。
水が一気に膨張した。足首から膝、膝から腰、クシナダヒメの体を包むように水が這い上がった。腐った黒緑の水が、人の形に沿って持ち上がった。
「クシナダヒメ!」
手を伸ばした。指先がクシナダヒメの手に触れた——触れた瞬間、水が俺の手を弾いた。
嵐を出そうとした。
出なかった。
嵐は——凪いだままだった。止まったばかりの嵐が、戻らない。焦って体の奥から引きずり出そうとしたが——空だった。蛇口が空回りしている。水がない。嵐がない。
なぜ——今——
嵐が止まったこの瞬間を。待っていた。
核が。
「——答えが出るまで。この娘を預かる。」
声が、川底から来た。低くて深い声。七つの頭とは違う。もっと古い。もっと重い。
水がクシナダヒメを引き込んだ。
クシナダヒメの目が俺を見ていた。水が肩まで来ていた。口元まで来ていた。あの暗い目が——最後に俺を見ていた。
怯えてはいなかった。
怯えの代わりに、何かが目に浮かんでいた。言葉にはならなかった。水が口を塞いだから。しかし——目だけが何かを言っていた。
水が頭を覆った。
クシナダヒメが、川底に沈んでいった。
「——待て!」
川に飛び込んだ。
嵐がない。体一つで水に入った。泳いだ。潜った。目を開けた。腐った水が目に染みた。何も見えない。黒緑の水が視界を塞いでいる。
手を伸ばした。何もない。水しかない。
潜った。もっと深く。
何もいない。川底の泥に手が触れた。クシナダヒメの気配がない。さっきまでここにいたのに。足首を水に掴まれたのを見たのに。
息が続かなくなって、浮上した。
川面に顔を出した。空気を吸った。
嵐を出そうとした。出ない。まだ出ない。少しだけ——ほんの少しだけ嵐が体の奥で揺れているが、外に出てこない。凪いだ嵐が、戻りかけて、まだ戻らない。
もう一度潜った。目を開けた。何もない。
三度目。四度目。何もない。
五度目に潜ったとき——足の裏に振動が来た。
クシナダヒメからではなかった。もっと深い場所から。もっと古い振動。
核の声だった。大地を通じて。
「嵐がなければ、ここには入れない。」
「嵐があっても、ここには入れない。」
「川底は俺の領域だ。」
振動が消えた。
水面に出た。
川辺に這い上がった。全身ずぶ濡れで、泥だらけで、腐った水の匂いが体中に染みていた。
空を見た。
星が出ていた。さっきまで一緒に見ていた星が。嵐が凪いで、穏やかで、「見てほしかった」と言ってくれた——その声が聞こえなくなった。
隣に、誰もいなかった。
二歩の距離に。一歩の距離に。どこにも。
嵐が——戻ってきた。
体の奥から、ゆっくりと。青白い風が、体に纏わりつく。悲しみの嵐が、戻ってくる。
遅い。
遅すぎる。
必要なときに止まって、必要でないときに戻ってくる。この嵐は——いつも、そうだ。
老人が走ってきた。「クシナダヒメは——」と叫んで、俺の顔を見て、止まった。
俺がどんな顔をしていたのか、自分では分からない。
老人が、何も言わずに、その場に座り込んだ。
俺は川の前に立っていた。
水面が静まり返っていた。さっきまで暴れていた水が、何事もなかったように流れていた。腐った匂いが風に乗ってきた。
クシナダヒメがいない。
足の裏が冷たかった。泥の冷たさ。あの振動は——もう来ない。
嵐が泣き声を上げていた。青白い風が渦を巻いて、夜空に向かって吼えていた。
誰も聞いていなかった。
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