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第六章 問いの頭

 残り二つ。


 七つの頭を倒すのにかかった日数を数えてみたが、途中から曖昧になった。出雲に来て何日経ったのか、正確には分からない。十日か、もう少しか。時間の感覚が鈍っている。毎日のように頭が来て、戦って、壊して、直して、また来る。この暮らしが日常になりかけている。


 それが少し怖かった。


 日常になるということは、ここが「居場所」になりかけているということだ。通りすがりに居場所はいらない。


 朝、老人が味噌汁を作ってくれた。腐った川の水ではなく、山の湧き水で作ったという。貴重な水だ。


「すまない」


 受け取って、飲んだ。うまかった。味噌というものを初めて飲んだ。高天原にはなかった。黄泉にも当然なかった。人間の食べ物は旨い。神の食べ物は——何を食べていたか思い出せない。食べていたのか? たぶん食べていない。神は食べなくても死なないが、食べると旨いということを、出雲に来て初めて知った。


「おかわりはありますか」


 老人が笑った。


「ありますとも」


 三杯飲んだ。三杯目でクシナダヒメが通りかかり、俺が味噌汁の椀を抱えて座っているのを見て、少しだけ目を見開いた。


「……神さまが、お味噌汁を」


「旨い」


「…………そうですか」


 何か言いたそうな顔だったが、言わずに行った。あの表情は「変な神」の亜種だろう。


 昼前に、それは来た。


 「怒」のように川を割って現れたのではなかった。「哀」のように霧が来たのでもなかった。「毒」の匂いも、「夢」の幻覚の前兆もなかった。


 声だけが来た。


「——お前は誰だ。」


 川辺で十拳剣を手入れしていた。刃を布で拭いていた。その手が、止まった。


 声は——どこから来ているか分からなかった。上でも下でもない。右でも左でもない。頭の中で鳴っている。しかし自分の声ではない。低い。古い。岩が喋ったらこういう声だろうという声。


「——お前は誰だ。」


 二度目。同じ質問。


 立ち上がった。十拳剣を構えた。周囲を見た。


 何もいなかった。


 川は流れている。村は静かだ。風が吹いている。しかし——声が、空間そのものから染み出すように響いている。


「……出てこい」


「出ている。お前の目の前にいる」


 目の前を見た。


 ——いた。


 小さかった。拳より小さい。蝶の羽のような、薄い膜でできた頭。体がない。頭だけ。口だけ。目は——一つもなかった。口だけがある。口だけで、浮いている。


 七つ目の頭。「問」。


 これまでの六つの中で、最も小さく、最も異質だった。


 斬ろうとした。反射的に。十拳剣を振った。


 刃が——すり抜けた。


 手応えがなかった。実体がない。声だけの存在。膜のような体は刃を通さない——通さないのではなく、そこにない。見えているのに、そこにいない。


「斬れない。俺に触れることはできない」


「……なんだ、お前は」


「問う者だ。答えろ。お前は誰だ」


 質問。


 ただの質問だ。しかし空気が変わった。質問が発せられた瞬間、体に圧力がかかった。答えなければ——という圧力。吐き気に似ている。体の内側から「答えろ」と突き上げてくるものがある。


 答えた。


「スサノオ。嵐の神だ」


 圧力が消えた。すとん、と抜けた。答えれば、解放される。


「次の問い。——お前はなぜここにいる」


 圧力。さっきより少し強い。


「川が腐っていたから」


 抜けた。


「——お前はなぜ戦う」


 圧力。もう少し強い。


「この土地の人間が喰われるからだ」


 抜けた。しかし今のは少し時間がかかった。「なぜ戦う」は「なぜここにいる」より深い質問だ。答えを探す時間が要った。


 パターンが見えた。


 質問が一つずつ深くなっている。外側から内側へ。名前→場所→動機。次は——もっと深い場所を突いてくる。


「——お前が守りたいものは何だ」


 圧力。


「……この村。この川。ここにいる人間たち」


 抜けた。しかし、今のは半分嘘だった。村を守りたいのは本当だ。川を清くしたいのも本当だ。しかし「ここにいる人間たち」と言ったとき、頭に浮かんだのは老人でも老婆でも子供たちでもなかった。一人だけだった。


「問」が——気づいた。


 嘘を言うと、圧力が残る。半分本当で半分嘘だから、半分だけ残った。体が少しだけ重い。


「——半分だな」


「……」


「もう一度聞く。お前が守りたいものは——何だ」


 圧力。さっきの倍。


「……クシナダヒメ」


 名前を言った。抜けた。今度は完全に抜けた。嘘がなかったから。


「問」の口が——笑った。口だけの存在が、笑った。


「それが聞きたかった。」


 嫌な予感がした。


「最後の問い。」


 空気が変わった。それまでの圧力とは次元が違った。体全体が、地面に縫い付けられたように重くなった。嵐が——動かない。指先が冷たくなった。


「——お前は、あの娘を愛しているか。」


 体が止まった。


 心臓は動いている。呼吸はしている。しかし——体が動かない。嵐が動かない。思考が回っているのに、体が凍っている。


 答えなければならない。答えなければこの圧力が消えない。しかし——


 愛しているか。


 愛している?


 ——分からない。


 分からなかった。「愛している」と言おうとした。口が開かなかった。嘘だから。いや、嘘かどうかも分からない。「愛していない」と言おうとした。これも口が開かなかった。これも嘘だから。いや——これも分からない。


 どちらも嘘ではなく、どちらも本当ではない。答えが——ない。この問いには、はいかいいえで答える場所がない。


 体が重くなっていく。


 膝が地面に落ちた。手をつこうとしたが、腕が動かない。十拳剣が手から滑り落ちた。


 圧力が、潰しにかかっている。答えられない問いは、体を潰す。「記」が記憶を奪うように、「問」は答えられない問いで体を縛る。


 愛しているか。


 あの娘を。名前を聞いて礼を言った娘を。「来なくていいです」と言った娘を。「本心じゃない」と見抜いた娘を。石を投げずに隣に座った——いや、まだ隣には座っていない。少し離れた場所にしか立たない娘を。


 愛しているか。


 分からない。本当に分からない。この感情に名前がつかない。名前のないものを「はい」か「いいえ」で答えろと言われても——


「——答えなくていい!」


 声が聞こえた。


 「問」の声ではなかった。頭の外から来た。現実の声。人間の声。


 クシナダヒメの声だった。


 遠くから叫んでいた。川辺のどこかから。俺が潰されかけているのを見て、走ってきたのだろう。


「答えなくていい! 全部の問いに答える必要なんかない!」


 ——答えなくていい。


 その言葉が、頭の中で反響した。


挿絵(By みてみん)


 答えなくていい。全部に答える必要はない。「問」は問いかけることで攻撃する。答えろ、と圧力をかける。しかし——答えないという選択肢を、俺は考えていなかった。問われたら答えなければならないと思い込んでいた。


 問いの構造そのものが罠だ。


 「はい」か「いいえ」を要求する問いに、「分からない」は答えにならない——と、俺は思い込んでいた。しかし。


 「分からない」は嘘ではない。


 最も正直な答えだ。


 口を開いた。圧力の中で、歯を食いしばって。


「分からない」


 圧力が——揺れた。完全には消えない。しかし揺れた。


「分からない。愛しているかどうかは分からない。名前がつかない。はいかいいえでは答えられない」


 圧力が——揺れた。完全には消えない。しかし揺れた。体が少しだけ動いた。指先が動いた。


「でも」


 息を吸った。


「あの娘が泣く世界は嫌だ」


 嘘がなかった。


「あの娘が喰われる世界は嫌だ。あの娘がいない世界は嫌だ。それが愛かどうかは分からない。でも——それだけで十分だ」


 圧力が砕けた。体が解放された。嵐が戻った。膝が地面から持ち上がった。


 ——しかし、「問」は消えなかった。


 口だけの頭が、まだ浮いていた。膜のような体が揺れているが、崩れてはいない。


「——次の問い。」


 まだ来る。


「お前は——」


「待て。まだやるのか」


「問いを止めることは——できない。止められない。問うことが俺だ。」


 質問が来た。さっきより速い。圧力が来た。麻痺しかける。


「——お前が恐れているものは何だ」


「この体が変わっていくこと」


 即答した。嘘なく答えれば抜ける。それは分かった。しかし答えるたびに腹の底をえぐられる。正直であることは、この場では痛みだ。


「——お前が失いたくないものは何だ」


「ここでの暮らし」


 即答。抜けた。しかし質問の間隔が短くなっている。考える時間がなくなっていく。


「——お前は何者になりたい」


「分からない」


 半分抜けた。半分残った。「分からない」は正直だが、完全な答えではないから圧力が残る。


 斬れない。実体がない。球形の嵐で毒を中和したように——閉じ込められないか。


 閉じ込める。問いを。


 嵐を引き込んだ。体の表面に纏わせた。球形に——しかし今度は自分を包むのではなく、手のひらの上に小さな球を作った。拳大の嵐の球。


 「問」に向かって投げた。


 球が「問」を包んだ。口だけの頭が嵐の球の中に閉じ込められた。


 問いの声が——反響した。球の内側で。


「——お前は何者に——お前は何を——お前は——」


 自分の声が跳ね返ってきている。問いかけが球面で反射して、「問」自身に戻っている。


 問いかけることしかできない存在が、自分の問いを聞いている。


「問」の口が——震えた。


「——やめろ。俺は問う側だ。問われる側ではない——」


「一つ聞いていいか」


 俺は球に近づいた。


「お前は——何のために問う」


 沈黙。


 球の中で、「問」が止まった。口が開いたまま、動かなかった。


 問いかけることしかできない存在に、問いが返された。「何のために問う」——この問いに「問」は答えられない。問うことが存在理由であり、その理由を問われることは存在そのものを疑うことだからだ。


 口が——崩れた。


 膜のような体がぼろぼろと剥がれ落ちた。球の中で声が遠くなった。最後に何か言いかけたが、もう聞き取れなかった。嵐の球が縮んで消えた。中には何も残っていなかった。


 七つ倒した。残り一つ。


 十拳剣を拾い上げた。刃に泥がついていた。拭いた。手が震えていた。


 振り向いた。


 クシナダヒメが立っていた。


 距離があった。二十歩くらい。走ってきて、叫んで、そこで止まったのだろう。近づいてはいない。


 目が合った。


 俺は——さっき何を言ったか、全部覚えていた。問いの圧力の中で、体が潰されかけながら言った言葉を、全部覚えていた。


 あの娘が泣く世界は嫌だ。


 言った。確かに言った。そしてクシナダヒメは——聞いていた。


 どうすればいいか分からなかった。取り消すこともできない。嘘ではなかったから。


 クシナダヒメが、何かを言おうとした。口が動いた。しかし声が出なかった。言葉を探しているようだった。見つからなかったようだった。


 結局、クシナダヒメは何も言わなかった。


 代わりに、歩いてきた。二十歩の距離を詰めた。十歩まで来た。五歩。三歩。


 今まで、この娘は俺の隣に立ったことがなかった。少し離れた場所。一歩か二歩の間。その距離を、自分で決めて、守っていた。


 二歩の距離で、止まった。


 いつもと同じ、と思った。


 ——一歩、踏んだ。


 一歩だけ。今までより一歩だけ近い場所に立った。隣、とまでは言えない。しかし手を伸ばせば届く距離に。


 何も言わなかった。俺も言わなかった。二人とも黙って川を見ていた。腐った川。まだ腐っている。あと一つ倒せば清くなるのか——分からない。核は七つの頭とは違うものだと、なんとなく感じていた。


 風が吹いた。嵐ではない風。


「……腕」


 クシナダヒメが小さく言った。


「え?」


「あなた……腕」


 見下ろした。


 腕のひび割れが——変わっていた。


 ひび割れの中から、何かが浮き出ている。硬い。ざらざらしている。黒緑で——鱗だ。ひび割れた皮膚の隙間から、鱗のような質感のものが生えてきている。


 腕だけではなかった。手首を返すと、手の甲にも一枚。指の関節にも。小さな鱗が、ひび割れに沿って点在している。


 オロチの鱗だ。


 足先の変色。腕のひび割れ。そして——鱗。


 体がオロチに近づいている。戦うたびに。この川のそばにいるだけで。少しずつ、人の形から離れていく。


「……痛くないの」


「痛くない」


「嘘」


「……少し痛い」


「また嘘」


「……だいぶ、痛い」


 三段階が定番になりつつあった。この娘は俺の嘘を三回で剥がす。


 クシナダヒメが俺の腕を見ていた。鱗を見ていた。その目は——暗かった。いつもの暗さとは少し違う暗さだった。蓋の奥で、何かが動いている。怒りとも悲しみとも違う、もっと複雑な何かが。


「……あと一つ」


 俺が言った。


「あと一つ倒せば終わる」


「…………」


「終わったら、この鱗も消えると思う。たぶん」


「たぶん」


「……分からない。でも——終わらせる」


 クシナダヒメが、一歩だけ下がった。


 元の距離に戻った。


 しかし——さっき、一歩踏み込んだことは消えない。あの一歩は俺の中に残った。


 夕日が出雲の山の向こうに沈んでいく。川面にオレンジ色の光が反射して、一瞬だけ、腐った川がきれいに見えた。


 あと一つ。


 「問」がぶつけてきた最後の問いが、まだ頭の中で回っていた。


 愛しているか。


 分からない。答えは出なかった。出なくてよかった。出ていたら——出ていたら、何かが変わっていたかもしれない。変わることが良いのか悪いのか、それも分からない。


 分かっているのは一つだけだ。


 この娘が泣く世界は、嫌だ。


 それだけで十分だ——と言った。十分なのかどうかも、本当は分からない。


 でも、嘘ではなかった。


 今日、俺が言った言葉の中で、いちばん嘘がなかった。

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