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第五章 記の頭

 靴がなくなった。


 毒で溶けたので当然だが、裸足の神というのはなかなか情けない。老人が草鞋を編んでくれた。「神さまに草鞋など恐れ多い」と言いながら、手は器用に動いていた。こういうとき「ありがとう」と言えれば楽なのだが、封印中なので頷くだけになる。老人はそれでいいらしかった。


 草鞋を履いた。人間の履物を履くのは初めてだった。鼻緒が指の間に食い込んで痛い。嵐の神の弱点が鼻緒。笑えない。


 五つ倒した。残りは三つ。


 腕のひび割れ。足先の黒緑の変色。体の変化は止まっていない。戦うたびに——いや、川の近くにいるだけで、少しずつ進んでいる気がする。


 六日目の昼下がりに、それは来た。


 「哀」のような霧ではなかった。「毒」のような匂いもなかった。「夢」のような幻覚の前兆もなかった。


 何の前触れもなく——記憶が変わった。


 川辺で素振りをしていた。十拳剣を振り下ろした。刃が空を切った。


 空を切った——はずが。


 刃の向こうに、風景が変わっていた。


 出雲ではなかった。川も村も畑もなかった。


 黄泉だった。


 暗い。空がない。地面は泥と灰。灰色の宮殿が遠くにそびえている。腐った匂いが——しない。腐った匂いがしない黄泉。


 おかしい。黄泉は臭い。あの場所は死の匂いで満ちていた。父が、そして俺が、息を止めて歩いた場所だ。それが——臭くない。


 空気が——あたたかかった。黄泉の空気はあたたかくない。冷たくて、重くて、肺に鉛を詰め込まれたような息苦しさがある場所だ。それが、あたたかい。


 偽物だ。


 そう思う前に、声がした。


「——よく来たね」


 体が凍った。


 嵐が凍った。体に纏わりついている青白い嵐が、ぴたりと止まった。悲しみの風が、止まった。


 宮殿の入り口に、女が立っていた。


 長い黒髪。白い肌。穏やかな目。口元に笑み。柔らかい光を纏った——美しい女。


 知っている。


 知っている顔だ。


 黄泉で見た。変わり果てた姿で。腐った肉と、空ろな目と、動かない体と。あの顔を俺は一生忘れないと——あの顔の「元の形」が、今、目の前にいた。


「——母さん」


 声が勝手に出た。


 イザナミ。俺の母。火の神カグツチを産んで焼かれて死んだ——最初に死んだ神。黄泉の女王。


 ——壊れる前の姿で、立っていた。


「大きくなったね」


 母が——笑った。


 あの顔で。黄泉で見た顔とは全く違う、あたたかい顔で。こちらに手を伸ばしている。


「来なさい。見せたいものがあるの」


 足が動いた。


 動いていた。止められなかった。偽物だと分かっている。分かっているのに——足が動く。嵐が止まったまま、体が母のほうに引き寄せられていく。


 近づくと、匂いがした。花の匂い。黄泉にはない匂い。母が生きていたとき——俺が生まれる前の世界の匂い。知るはずのない匂いなのに、体が覚えている。鼻の奥が、痛かった。


「ここに座りなさい」


 宮殿の前に石の椅子があった。黄泉にそんなものはなかった。全部偽物だ。分かっている。しかし腰を下ろしてしまった。


 母が隣に座った。


「スサノオ」


 名前を呼ばれた。母の声で。


「あなたが産まれたとき——私はもういなかったから。何も教えられなかった。ごめんね」


「…………」


「泣いていたんでしょう。ずっと。私に会いたくて」


「……ああ」


「もう泣かなくていいよ」


 母が手を伸ばした。俺の頭に触れようとした。


 偽物だ。


 分かっている。


 分かっているのに——目を閉じた。触れてほしかった。一度でいいから、母の手を感じたかった。


 指先が——髪に触れた。


 温かかった。


 温かくて、柔らかくて、これまでの人生で一度も感じたことのない感触だった。嵐が完全に凪いでいた。悲しみが消えていた。胸の穴が——塞がっている。あの、生まれてからずっと空いていた穴が。


 このまま、ここにいたい。


 出雲に戻りたくない。


 腐った川も、オロチの頭も、どうでもいい。ここにいたい。母の隣にいたい。あたたかい黄泉でいい。嘘でいい。嘘の方がいい。


 ——嘘の方が。


 足の裏に、何かが来た。


 冷たかった。


 偽りの黄泉は全てが温かかった。空気も、地面も、母の手も。しかし足の裏だけが——冷たかった。出雲の泥の冷たさ。現実の冷たさ。


 振動。小さな振動。リズム。


 クシナダヒメだ。


 俺が動かなくなったことに気づいたのだろう。いつもの方法で——大地を通じて振動を送ってきている。方向の指示ではない。ただ、叩いている。「ここにいる」と叩いている。


 偽りの黄泉では全てが温かい。母の手が温かい。宮殿が温かい。花の匂いが温かい。


 足の裏だけが、冷たい。


 その冷たさが——嘘を裂いた。


 嵐が、少しだけ揺れた。


 凪いでいた嵐が、かすかに動いた。悲しみの風が、一筋だけ吹いた。温かいはずの偽物の世界に、冷たい現実の風が一本、通った。


 母の手が——冷たくなった。


 温かさが消えた。足の裏から伝わる出雲の冷たさが、偽りの温度を押し退けていく。


 目を開けた。


 母が笑っていた。あたたかい笑顔で。穏やかな目で。


 ——違う。


 この笑顔を、俺は知らない。


 俺が黄泉で会った母は、笑っていなかった。宮殿の奥に座ったまま、変わり果てた体で、俺をただ見ていた。「また来たのか」とだけ言った。あの目は——俺を見ていなかった。俺を通して、生きていた頃の自分を見ていた。


 目の前の母は、俺を見ている。穏やかに。優しく。「よく来たね」と言っている。


 こんな母を——俺は知らない。


 会った。


 俺はもう会った。


 会った母は、こうではなかった。


 立ち上がった。母の手が髪から離れた。温かさが消えた。胸の穴が——また開いた。塞がりかけていた穴が、前より大きく開いた。


 母が——まだ笑っていた。


 壊れる前の母。あるべきだった母。俺が産まれる前に死ななければ、こうだったかもしれない母。


 あり得なかった方の、母さん。


「…………さよなら」


 声が震えた。


「俺はもう会った。黄泉で。母さんは——こんなふうに笑わなかった。座ったまま、俺をただ見ていた。あの目は——俺を見ていなかった」


 母の笑顔が——揺れなかった。偽物だから。偽物は傷つかない。「記」の頭が作った映像は、俺が何を言っても笑い続ける。それが——いちばん辛かった。


「これは——あり得なかった方の母さんだ」


 嵐が戻った。


 青白い風が体から溢れ出し、偽りの黄泉を引き裂いた。宮殿が砕けた。暗い空が割れた。あたたかい空気が冷たくなった。花の匂いが消えた。


 母の像が——最後まで笑っていた。


 砕ける寸前、唇が動いた。「記」の頭の作った偽物なのか、それとも——


 何を言ったか、聞き取れなかった。


 聞き取れなくてよかった、と思った。聞こえていたら、壊せなかったかもしれない。


 ——出雲に戻った。


 川辺に立っていた。十拳剣を握ったまま。嵐が全開で暴れていた。


 振り向いた。村は——


 壊れていなかった。嵐が暴れたのは一瞬だけで、方向が川に向いていた。水面が大きく波立っているだけで、家も畑も無事だった。


 川の中に、何かが浮かんでいた。


 頭。小さな頭。「毒」や「夢」より小さい。子供の拳くらいの大きさ。灰色の鱗。目が——多い。体中に目がある。記憶を覗くための目だ。


「記」の頭。


 もう動いていなかった。


 俺が嵐を暴走させたとき、川に投げ出されたらしい。体中の目が閉じている。偽りの空間を維持する力が——俺に拒絶されたことで、そのまま耐えられなくなったようだった。


 十拳剣で突いた。もう死んでいた。念のためだった。


 六つ倒した。残り二つ。


 膝が——折れた。


 地面に手をついた。立っていられなかった。体力の問題ではない。嵐を使いすぎたわけでもない。


 胸の穴が痛かった。塞がりかけて、もう一度開いた穴。前より大きくなった穴。あの偽物の温かさが残っている手のひらで、泥を掴んだ。


 泣いてはいない。


 泣いてはいないが——嵐が泣いていた。体から溢れ出る青白い風が、音を立てて渦を巻いていた。泣き声のような音で。


「……スサノオ」


 顔を上げた。


 クシナダヒメが立っていた。手が泥だらけだった。さっきまで地面に手を押しつけて、俺に大地の記憶を送り続けていたのだろう。膝も泥だらけだった。


「……お前か。振動を送ってくれたの」


「あなたが動かなくなったから。いつもみたいに地面を叩いて——届いているか分からなかったけど」


「届いた。足の裏だけ冷たかった。それで——全部温かいのは嘘だと分かった」


「助かった」


 言ってから気づいた。「ありがとう」ではない。「助かった」と言った。封印していたのは「ありがとう」だ。「助かった」は——違う言葉だ。礼の形式ではなく、事実の報告。お前が送ってくれなければ、俺はあの偽物から出られなかった。それは事実だ。


 クシナダヒメが俺を見ていた。何か聞きたそうな顔をしていた。しかし聞いていいかどうか迷っている顔でもあった。


「聞いていい」


「……何を見たんですか」


「母さん」


「…………」


「壊れる前の母さんが、笑っていた。よく来たねと言っていた。頭を撫でてくれた」


 声が平坦だった。感情を乗せると嵐が暴れるので、意図的に平坦にした。それでも嵐がかすかに揺れている。


「……お母さんは、笑わない人だったの」


「黄泉で会ったとき、母さんは宮殿の奥に座っていた。変わり果てた体で、俺を見ていた。でも——俺を見ていなかった。俺の向こう側の何かを見ていた。あれが——俺が知っている母さんだ」


「…………」


「だから笑っている母さんは嘘だった。あんなに——穏やかな母さんは、俺は知らない」


 クシナダヒメが黙っていた。長い沈黙だった。


「……でも。会えたんですね。怒っていても」


「ああ。会えた」


「それで——いいの」


「いい」


 嘘ではなかった。嘘ではないが——全部でもなかった。いい、と思うことにしている。会えただけでいい、と思わなければ、この胸の穴が永遠に塞がらないから。


 クシナダヒメが、小さな声で言った。


「……強い人」


 初めてだった。この娘が俺に対して、肯定的な言葉を使ったのは。「変な神」「壊しただけ」「本心じゃない」「力を入れすぎ」「嘘」——否定と指摘しか聞いたことがなかった。


「強くない。会っただけだ。会ったから分かっただけだ」


「会ったから分かる——というのが、強いんです」


「……そうか」


「私は姉たちを、最後に見送れなかった。毎年、連れていかれる姉を見ていただけ。だから幻の中で——触ろうとした。あなたも触ろうとしたでしょう」


「した」


「でも壊した」


「お前もだろう」


「……ええ」


 二人とも、偽物を壊した。やり方は違ったが、理由は同じだった。偽物を抱えていたら、本物をもう探せなくなるから。


 風が吹いた。嵐ではない風が。出雲の夕方の風が。


 クシナダヒメが立ち上がった。泥だらけの手を川で洗おうとして——川がまだ腐っていることを思い出して、手を引っ込めた。そのまま着物の裾で拭いた。


「あの——」


「何」


「お母さんは——あなたが来て、嬉しかったと思います。見ていたのは、あなたの顔を覚えておきたかったから、かもしれないし」


「…………」


「勝手なことを言いました。忘れてください」


 足が速い。いつも通り。言い逃げの天才だ。


 俺は川辺に座ったまま、しばらく動けなかった。


 覚えておきたかったから。


 そうだったのか? あれは無関心ではなく——覚えようとしていたのか?


 分からない。死者に確認する方法はない。クシナダヒメの勝手な解釈かもしれない。


 しかし——そう思った方が、胸の穴が少しだけ小さくなる気がした。


 嵐が静かになっていた。


 夜。


 村のはずれで、俺は腕のひび割れと足の変色を確認していた。変化なし。今日は嵐を長く使わなかったから、進行が止まっているのかもしれない。


 ——気配がした。


 灰白色の肌。目のない顔。黒い炎が揺れる蝋燭。十歳くらいの子供の体。


「……ヒサメ」


 兄が——いた。暗がりの中に笑顔だけが浮かんでいた。


「見ていたのか」


 答えない。いつもそうだ。聞いたことには答えず、聞いていないことだけを言う。


「いい人ですね。」


「…………」


「いい人です。スサノオは。」


 二度言った。ヒサメが同じ言葉を二度言うのは珍しかった。


「何がだ」


「手放せた。あり得なかった方のお母さんを」


 ——お前も、母さんの子だろう。


 言いかけて、止めた。


 ヒサメは蛭子だ。イザナギとイザナミの最初の子。俺より先に産まれた兄。しかし——母に育てられていない。産まれてすぐ流された。目がないまま、黄泉に辿り着いた。


 俺は少なくとも、母の顔を見た。変わり果てていても、会えた。ヒサメは——会えたのか。黄泉にいるなら会えたはずだ。しかしヒサメは「黄泉の意志」であって、イザナミの子ではない。少なくとも、そう名乗っている。


 母の子としてではなく、黄泉の一部として、同じ場所にいた。


 それは——「会えた」に入るのか。


「ヒサメ」


「はい」


「お前は——母さんに、会いたかったのか」


 長い沈黙。


 ヒサメの笑顔が——変わらなかった。変わらないことが、答えだった。この笑顔は最初から固定されている。嬉しくても悲しくても同じ笑顔。目がないから、表情の変化が笑顔の形でしか出ない。


 しかし——蝋燭の黒い炎が、ほんの少しだけ揺れた。


「おやすみなさい。」


 それだけ言って、消えた。


 答えなかった。しかし蝋燭が揺れた。それで十分だった。


 俺は草鞋の鼻緒を直しながら、暗い空を見上げた。姉の太陽はとっくに沈んでいる。兄の月が——今夜は雲に隠れて見えなかった。


 六つ倒した。残り二つ。


 あと二つで——終わる。腐った川が清くなる。クシナダヒメが喰われなくて済む。


 それなのに——なぜか焦りがなかった。終わりが近いことが、純粋に嬉しくなかった。


 終わったら、俺はここにいる理由がなくなる。


 通りすがりは、通り過ぎなければならない。


 足の裏が冷たかった。クシナダヒメの振動は、もう消えている。

ご拝読いただきありがとうございました!

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