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第四章 毒と夢

 三日ほど、何も起きなかった。


 頭は残り五つのはずだが、動きがない。嵐の前の静けさ、という表現があるらしい。俺自身が嵐なので、ややこしいが。


 その三日間で俺は二つのことをした。


 一つ目は、素振りの練習。刃先にだけ嵐を纏わせる、あの技を繰り返した。全開か無かの二択だった嵐を、量で調整する。蛇口みたいなものだ。全開にすれば水が溢れる。少しだけ開ければ——少しだけ出る。理屈としては単純だ。しかし嵐は水と違って感情でできているので、蛇口が感情のどこについているかが分からない。探りながらやるしかない。


 二つ目は、畑の手伝い。


 これは戦いより難しかった。土を掘る力加減が分からない。種を蒔く深さが分からない。水をやる量が分からない。全部クシナダヒメに聞いた。彼女は答えてくれたが、教え方が簡潔すぎて一回では理解できないことが多かった。


「もっと浅く」


「これくらいか」


「深いです」


「……こう?」


「まだ深い。種が見えなくなる直前で止めてください」


「見えなくなる直前という概念が分からない」


「……常識です」


 常識。それは人間の常識だ。神の常識には「種の蒔き方」は含まれていない。島の産み方なら知っている。しかし島を産んでも畑にはならない。


 老人は俺に親切だった。「ありがとうございます」と毎日言った。俺はその度に口を開きかけて、閉じた。封印した言葉が喉の奥で引っかかっている。代わりに小さく頷いた。


 老人は不思議そうな顔をしていたが、何も聞かなかった。


 四日目の朝。


 風向きが変わった。


 いつもの腐臭ではない。もっと鋭い匂い。鉄を溶かしたような、舌の奥がしびれるような匂い。嵐が——縮んだ。体に纏わりついている嵐が、外に出るのではなく内側に逃げ込もうとした。


 毒だ。


 川の下流から、緑色の霧が這ってきていた。「哀」の白い霧とは違う。黄みがかった緑。植物の汁のような、しかしもっと人工的な色。この霧に触れたら——


 川岸の草が、霧の端に触れた。一瞬で黒く変色し、溶けるように崩れた。


 毒だ。触れたものを腐食させる霧。


「六つ目か」


 いや、頭の順番は分からない。ただ、これまでの三つ(怒、哀、水)とは質が違う。直接的に殺しにくる。


 十拳剣を抜いた。


 ——吹き飛ばせばいい。嵐で。


 そう思って、止まった。


 風向きだ。今日の風は下流から上流に向かって吹いている。俺が嵐で毒の霧を吹き飛ばせば——風に乗って、上流にある村に飛ぶ。


 あの畑が。あの家が。あの子供たちが。


 クシナダヒメが。


 嵐を使えない。


 嵐で吹けば村が毒に包まれる。刃先だけの嵐でも、風圧で霧が散る。毒は粒子だ。嵐を少しでも出せば、粒子が飛ぶ。


 詰んだ。


 剣だけで毒の霧に突っ込むか? 霧に触れれば体が腐食する。あの草のように。俺は神だから草よりはましだろうが——腕のひび割れが広がっている状態で、さらに毒に触れるのは危険な賭けだ。


 霧が、じわじわと近づいてくる。下流から上流へ。風に乗って。ゆっくりだが確実に。


 あと数分で村に届く。


「嵐を出すな——村に来る」


 足の裏に振動。クシナダヒメだ。大地を通じた指示。あの日以来、戦いのたびにこの方法で通信している。


 分かっている。嵐は出せない。しかし嵐を出さなければ——


 霧が足元に達した。


 靴の先が黄緑の霧に触れた。革が——焼けた。焦げた匂いがして、靴先が黒く変色した。


 痛くはなかった。まだ皮膚には届いていない。しかしこの霧の中を歩けば、すぐに体に届く。


 退がるか。退がれば霧が村に進む。進むか。進めば体が腐食する。


 嵐を——


 出せない。出したら村が死ぬ。


 出せない出せない出せない——


 出せない、なら。


 ——閉じ込めれば?


 思考が一瞬で切り替わった。理屈ではなかった。体が先に動いた。嵐が勝手に答えを出した。


 嵐を外に出すのではなく——内に引き込む。自分の体の表面を、嵐で覆う。外に出さず、内にも入れず、皮膚の上にだけ嵐を纏わせる。球のように。殻のように。


 できるのか?


 分からない。やったことがない。嵐は常に「外に出す」ものだった。出すか、出さないか。二択。しかし——第三の選択肢。出さずに纏わせる。


 やってみた。


 嵐を引き戻した。体から溢れ出ようとする青白い風を、無理やり体の表面に押し留めた。苦しい。風船を内側から膨らませるのではなく、外側から押さえつけている感覚。嵐が暴れる。出たがっている。出るな。ここにいろ。俺の周りにだけいろ。


 ——球になった。


 俺の体を中心にして、半径一メートルほどの嵐の球体ができた。青白い風が球面を走っている。外には出ていない。内側にも入っていない。体の表面にだけ——


 霧が球に触れた。


 毒の粒子が嵐の球面に当たって——弾かれた。いや、弾かれたのではない。嵐の風圧で粒子が分解されている。毒が、球の表面で中和されている。


 効いている。


 毒が来ない。嵐の球が毒を中和している。俺の体には届かない。


 そして——球の外にも嵐は出ていない。風圧は球の内側だけで完結している。村には飛ばない。


 守りながら——動ける。


「……これだ」


 走った。毒の霧の中を、嵐の球を纏ったまま走った。霧が球面で弾かれ、俺の周囲だけが清浄な空気を保っている。異様な光景だろう。青白い球が緑の霧を割って進んでいく。


 足の裏に振動。クシナダヒメの声——ではなく、驚き。振動のリズムが乱れている。何をやっているんだ、と聞いている。説明している暇はない。


 霧の中心に、頭がいた。


 「水」と同じくらいの大きさ。口から毒の霧を吐き出し続けている。体表から黄緑の液体が滲み出ている。目は——濁っている。白く濁った目。何も見ていない目。ただ毒を出し続けているだけの、機械のような頭。


「毒」の頭。


 球を纏ったまま近づいた。十拳剣を振る——球の中から外に刃を突き出す形になる。刃先だけが球の外に出る。嵐の球面を貫いて、首筋に斬りかかった。


 鱗は薄い。「水」と同程度。刃が入った。黄緑の体液が飛び散り——嵐の球に当たって弾かれた。俺の体には一滴もかからない。


 二撃。三撃。同じ場所を狙う。首が裂けた。


 口が閉じた。霧の供給が止まった。頭が川に落ちた。


 風が霧を散らしていく。黄緑の色が薄れ、空気が戻ってくる。


 嵐の球を解いた。


 ——しかし。


 靴先に触れた毒は残っていた。革が黒く変色した部分。そしてその下の——足の指先が、わずかに黒緑色になっていた。


 毒に触れた箇所が変色している。腕のひび割れとは別の変化。鱗のような質感ではなく、色だけが変わっている。黒緑。オロチの鱗と同じ色。


 ……増えた。体の変化が。


 それを見ていたら、足の裏に振動。


 ——もう一つ来る。


 来る? もう一つ?


 川を見た。水面が——揺れている。しかし「水」のような物理的な動きではない。水面に像が映っている。景色が映っている。出雲の景色ではない。もっと明るい、もっと豊かな——


 あれは何年も前の出雲だ。川が清く、畑が広がり、家が並んでいる。


 幻。


 七つ目の頭。「夢」。


 水面の像が広がった。川から岸へ、岸から畑へ、畑から村へ。景色が現実を塗り替えていく。腐った川が清い川になり、枯れた木が青々と茂り——


 悲鳴が聞こえた。


 いや、悲鳴ではなかった。笑い声だった。


 村の方を振り返った。老婆が笑っていた。涙を流しながら、しかし幸せそうに笑っていた。何かを見ている。俺には見えないものを。


 老人も笑っていた。手を伸ばして、何もない空中を撫でていた。誰かの頭を撫でるように。もういない誰かの。


 幻覚。「夢」の頭が見せる偽りの世界。見た者の「最も美しい記憶」を現実に投影する。


 クシナダヒメは——


 探した。村の中を走った。畑の横、家の裏、川辺——


 いた。


 川岸に立っていた。


 しかし、様子がおかしかった。


 クシナダヒメの周囲に——人がいた。女が七人。年齢はまちまちだが、全員がクシナダヒメに似ている。顔の輪郭、髪の色、目の形。


 姉たちだ。


 七人の姉が、全員、生きていた。笑っていた。クシナダヒメを囲んで、手を繋いで、笑っていた。


 クシナダヒメの目が——開いていた。大きく。あの暗い目が、光を受けて、信じられないものを見ている目をしていた。


「姉さん」


 声が震えていた。あの冷静なクシナダヒメの声が、子供のように震えていた。


「姉さん、姉さん、姉さん——」


 七回。七人分の名前を呼んだのかもしれない。聞き取れなかった。声が途中で潰れたからだ。


 ——壊さなければ。


 これは幻だ。「夢」の頭が見せている偽りだ。このまま浸れば、クシナダヒメは現実に戻れなくなる。


 嵐を——球形にして、幻を吹き飛ばす。クシナダヒメだけを包んで、外の偽りの映像を剥がす。


 走り寄った。手を伸ばした。


「クシナダヒメ、これは——」


「知っています」


 止まった。


 クシナダヒメが振り向かずに言った。まだ姉たちを見ている。涙が頬を流れている。声はもう震えていなかった。


「知っています。嘘だと」


「なら——」


「少しだけ。もう少しだけ——」


 声が止まった。


 長い沈黙があった。俺は手を伸ばしたまま止まっていた。嵐を使う準備をしたまま。しかし——使えなかった。使うべきだった。幻を壊すべきだった。しかしクシナダヒメの背中が、「待て」と言っていた。


 クシナダヒメが、幻の姉の一人に手を伸ばした。


 触れようとした。


 ——指先が、姉の頬をすり抜けた。


 実体がない。触れない。見えるだけ。


 クシナダヒメの手が止まった。


「……姉さんたちは」


 小さな声だった。


「こんなに笑わない」


 幻の姉たちは笑っている。満面の笑みで、手を繋いで、幸せそうに。


「姉さんたちは、もっと怖がっていた。毎年。次は自分の番かもしれないって。笑っている日もあったけど——こんなに全員が同時に笑うことは、なかった」


 声は冷静だった。涙を流しながら、冷静だった。あの「哀」の霧の中と同じだ。泣きながら、澄んだ声で事実を述べる。


「だから——これは嘘」


 クシナダヒメが目を閉じた。


 幻の姉たちが——揺れた。像が乱れた。笑顔がぶれた。


「嘘は分かるんです。七年分の嘘を聞いてきたから」


 目を開けた。


 幻が——砕けた。


 ガラスが割れるように、姉たちの像がひび割れて散った。光の破片が宙に舞い、消えた。


 俺は何もしていない。


 嵐を使っていない。剣も振っていない。クシナダヒメが、自分で幻を壊した。「嘘だ」と認識することで——幻を拒絶した。


 クシナダヒメの足元の水面が波立ち、何かが川の中で暴れた。「夢」の頭が、幻を維持できなくなって苦しんでいる。宿主に拒絶された寄生虫のように。


 水面に浮かび上がった。小さな頭。虹色の鱗。美しい頭だった。八つの中で最も美しく、最も弱い。


 十拳剣を抜いた。一太刀で十分だった。虹色の鱗は紙のように薄く、刃が抵抗なく通った。


 頭が沈んだ。幻覚が完全に消えた。


 老人と老婆が——正気に戻った。老婆が泣いていた。今度は幸せの涙ではなく、「いなくなった」涙だった。老人が老婆を抱きしめて、何も言わなかった。


 クシナダヒメは川辺に立ったまま、動かなかった。


 俺はその横に立った。隣ではなく、少し離れた場所に。


 何か言うべきだと思った。しかし「ありがとう」は封印している。「大丈夫か」は間抜けだ。幻の姉を自分で壊したばかりの娘に「大丈夫か」と聞くのは——侮辱に近い。


 言葉が見つからなかった。


 だから黙って立っていた。


 しばらくして、クシナダヒメが口を開いた。


「触れなかった」


「……ああ」


「分かっていたのに。嘘だと分かっていたのに——触れようとした。馬鹿みたい」


「馬鹿じゃない」


「馬鹿です。触れるわけがない。死んだ人に」


「…………」


「でも——壊せた。自分で壊せたのは、よかった」


 声が静かだった。泣いた跡が頬に残っていたが、もう泣いていなかった。蓋を閉め直した顔だった。しかし蓋の形が、少しだけ前と違う気がした。完全には閉まりきっていない。


「あなたは——来なくてよかった」


「何が」


「助けに来なくてよかった。自分で壊したかった。他人に壊されたら——あれが嘘だったことまで、他人に決められた気分になるから」


 分かった。


 分かった気がした。この娘は——「助けられる」ことが嫌いなのではない。「自分で決める」ことを絶対に手放さない人間なのだ。嘘を嘘だと自分で判断し、幻を自分で壊す。それが彼女の戦い方だ。


 嵐で力任せに壊す俺とは違う。しかし——強い。


 同じ種類の、強さだった。


 悲しい記憶を武器にする、という点で。


 俺の嵐は悲しみでできている。彼女の「嘘を見抜く力」は、七年分の悲しみでできている。形は全く違うが、原料は同じだ。


「……すごいな」


 言ってしまった。感想として。礼ではなく、ただの感想として。


 クシナダヒメが、少しだけこちらを見た。


「何が」


「お前が」


「…………」


 クシナダヒメが、ほんの一瞬だけ、口元を動かした。笑ったのかもしれない。笑っていなかったのかもしれない。一瞬すぎて確認できなかった。確認しようとしたら、もういつもの顔に戻っていた。


「足」


「え?」


「足。黒くなっています」


 見下ろした。靴がなくなっていた。毒で溶けたらしい。裸足の足の指先が黒緑に変色していた。腕のひび割れに加えて、足先の変色。体の変化が増えている。


「痛くないのですか」


「痛くない」


「嘘」


 また見抜かれた。少し痛かった。嘘を見抜く力が早すぎる。


「……少し痛い」


「正直に言いなさい」


「……だいぶ痛い」


 クシナダヒメが桶を持ってきた。水を汲んだ。腐った川の水だが、足を洗うくらいにはなる。桶を俺の前に置いた。


「足を入れなさい」


「いい」


「入れなさい」


 命令形だ。この娘が命令形を使うときは逆らえない。なぜかは分からない。的確すぎて反論の余地がないからだ。たぶん。


 足を入れた。冷たかった。腐った水だが、毒よりはましだった。


 クシナダヒメが立ち上がって、去っていった。


 俺は桶に足を突っ込んだまま、川を見ていた。


 五つ倒した。残り三つ。


 腕のひび割れ。足先の変色。嵐を使うたびに、使わなくても、体が少しずつ変わっていく。


 それでも——今日は、二つ倒した。村は壊れなかった。球形の嵐は使えることが分かった。


 それと。


 クシナダヒメは、自分で幻を壊した。


 俺がいなくても。


 それが嬉しいのか悔しいのか寂しいのか、自分でも分からなかった。たぶん全部だ。全部を同時に感じている。嵐みたいに、ごちゃ混ぜに。


 足の裏が冷たい。水のせいだ。さっきまで感じていたクシナダヒメの振動は、もう消えている。


 桶の水に映った自分の顔を見た。泣いた跡があった。「哀」の霧はもう消えたはずなのに。


 ——ああ、これは霧のせいじゃない。


 さっきの、姉たちの幻を見たときの涙だ。俺も泣いていたのだ。俺にはあの七人の姉は関係ない。しかし——あの場面を見て、泣いていた。


 なぜだろう。


 考えて、やめた。


 今はただ足が痛い。

ご拝読いただきありがとうございました!

作者のモチベアップのために少しのお手間ですが、ご協力いただけると大変ありがたいです!


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