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第三章 哀と水

 翌朝、俺は川辺で十拳剣を振っていた。


 素振り。ただの素振り。嵐を乗せない、ただの剣の振り。風を切る音だけが鳴る。地味だ。面白くない。


 しかし、やらなければならないことは分かっていた。嵐を使えば勝てる。しかし村が壊れる。なら、嵐を使わずに——あるいは最小限にして——剣だけで戦える形を見つけなければ。


 問題は、俺に剣術の心得がほとんどないことだ。


 十拳剣は父の剣だが、父に剣を教わったことはない。そもそも父との会話は「海原を治めよ」「嫌だ」「出て行け」の三往復で終わっている。親子の交流と呼ぶには短すぎる。


 振る。振る。振る。


 横薙ぎは力が逃げる。縦斬りは隙が大きい。突きは一点に集中するから鱗に通るかもしれないが、あのでかい頭に突きだけで勝てる気がしない。


「何をしているんですか」


 声がして、振り向いた。クシナダヒメが桶を持って川に来ていた。水を汲みに来たらしい。腐った川の水を。他に水源がないのだろう。


「素振り」


「見れば分かります。なぜ」


「嵐を使わずに戦う方法を探している」


 クシナダヒメが俺を見た。それから十拳剣を見た。それから川を見た。


「……昨日と同じことをしないために」


「そうだ」


「…………」


 長い沈黙。クシナダヒメが腐った水を桶に汲んだ。俺の横を通り過ぎるとき、小さな声で言った。


「それは、いい考えだと思います」


 振り向いたときにはもう背を向けていた。足が速い。


 ——褒められた? 今のは褒められたのか? 「いい考え」と言った。「来なくていいです」と言った同じ口が「いい考え」と言った。どちらが本音だ。両方か。この娘の言葉は翻訳が必要だとは思っていたが、辞書が足りない。


 素振りを続けた。


 昼過ぎに異変が起きた。


 最初に気づいたのは、風の匂いだった。腐った川の匂いとは別の——塩辛い匂い。海の匂いに似ているが、もっと苦い。涙の匂いだ。


 嵐が反応した。体に纏わりついている青白い嵐が、かすかに震えた。悲しみの嵐が、外から来る悲しみに共鳴している。


「なんだ——」


 目が、滲んだ。


 涙が出ていた。俺の目から。止められなかった。悲しいのか? 悲しくない。いや——悲しい。何がだ? 分からない。ただ涙が止まらない。


 村の方を見た。老人が膝をついて泣いていた。老婆が声を上げて泣いていた。子供たちが「なんで泣いてるの」と言いながら、自分も泣いていた。村全体が涙に包まれている。


 霧だ。


 川の上流から、薄い白い霧が流れてきていた。この霧を吸うと——泣く。悲しみが増幅される。中にある悲しみを、根こそぎ引きずり出される。


 二つ目の頭。「哀」。


 しかし——異変はそれだけではなかった。


 川が、膨らんでいた。


 水位が上がっている。腐った水が岸を超え、畑に流れ込もうとしている。上流のどこかで、何かが川をせき止めて方向を変えている。水が村に向かって——流れ込んでくる。


 三つ目の頭。「水」。


 二つ同時。


「……冗談だろ」


 涙を拭いた。拭いても出る。霧を吸っている限り止まらない。視界がぼやける。泣きながら戦わなければならない。格好悪いにもほどがある。


 十拳剣を抜いた。


 まず水を止めなければ。村が沈む。しかし水はどこから来ている? 上流のどこかで川が操作されている。場所が分からない。霧のせいで視界が効かない。


 嵐を使えば——霧を吹き飛ばせる。水も押し返せる。一発で両方解決する。


 しかし、村が壊れる。


 畑を直したばかりだ。根を引き抜いたら三メートルえぐれて、クシナダヒメに「力を入れすぎです」と言われたばかりだ。あの畑が、また吹き飛ぶ。


 迷った。


 迷っている間に、水が近づいてくる。腐った黒緑の水が、じわじわと畑の端に達した。あと数分で家に届く。


 老人が叫んだ。「水が来る!」


 子供たちが泣きながら高台に走った。昨日と同じだ。俺が嵐を使っても使わなくても、この人たちは逃げる。俺は、いつも何かを壊す側だ。


 ——使うしかないのか。


 嵐に手をかけた。体の奥から引き出そうとした。


「——川の分岐点を見なさい」


 声がした。


 クシナダヒメだった。


 霧の中に立っていた。泣いていた——涙が頬を伝っていた。しかし声は震えていなかった。泣きながら、冷静だった。目が赤いのに、声が澄んでいた。


「何を——」


「上流じゃない。川の分岐点。ここから北に二町。そこで水が分かれて、村に向かっている」


「なぜ分かる」


 クシナダヒメが、地面に手を触れた。


 泥の上に、素手で。指先が泥に沈んだ。目を閉じた。涙がまだ流れている。しかし表情が変わった。聞いている顔だった。何かを、聞いている。


「……川が言っている。分岐点に何かがいる。水を曲げている」


「川が——言っている?」


「聞こえるんです。水の声が。土の声が。植物の声が」


 俺は数秒間、呆然とした。


 この娘は——大地と話せる。


 名前を聞いたとき、ただの人間だと思っていた。老夫婦の末娘。オロチに喰われる番の娘。守られるだけの存在。


 違った。


「北に二町と言ったな」


「はい。分岐点に水の頭がいます。水を止めれば洪水は止まる。霧の頭は上流にいる。先に水を止めなさい」


 命令形だった。「止めなさい」。さっきまで「来なくていいです」と言っていた娘が、「止めなさい」と言った。この切り替えの速さは何だ。


「……分かった」


「嵐は——」


「使わない。剣で行く」


「分岐点の地形は浅い。岩が三つ出ている。右から二番目の岩の裏に何かがいると、川が言っている」


 場所まで指定してくれるのか。地図より詳しい。俺が走る前に、もう一つ。


「霧の方は」


「霧は上流から来ている。水を止めたら、その足で上流に。私がここから方向を伝えます」


「ここから? 声が届くのか」


「……土を通して届けます。足の裏に集中していてください」


 足の裏。大地を通じて指示を送るということか。本当にできるのか。


 半信半疑だったが、選択肢は他になかった。


「——頼む」


 走った。


 北へ。霧の中を、涙を流しながら走った。泣きながら走る神。想像したくない絵面だが、気にしている場合ではない。


 二町。思ったより近い。川の分岐点が見えた。


 本流から枝分かれした水路が、不自然な角度で村の方向に曲がっている。自然の分岐ではない。何かが力で水を曲げている。


 岩が三つ。クシナダヒメの言った通りだ。右から二番目の岩の裏に——


 いた。


 蛇のような体。「怒」の頭に比べれば小さい。首の太さが一メートルほど。しかし体の大部分が川の中に沈んでいて、水と一体化している。体を通じて水流を操っているらしい。頭だけが岩の裏から覗いている。目は——青い。冷たい青。怒りではなく、もっと静かな感情が宿っている。


「水」の頭。


 嵐は使わない。十拳剣だけ。


 剣を構えた。踏み込んだ。岩を蹴って跳び、首筋を狙って斬り下ろした。


 ——鱗。また鱗だ。刃が滑る。


 しかし「怒」より小さい分、鱗も薄い。火花は散ったが、浅く切れ目が入った。二撃目。同じ場所を狙う。切れ目が深くなる。三撃目——


 水が動いた。


 俺の足元の川が突然渦を巻き、足を掬おうとした。水を操る頭だ。川の中に立っている限り、足場が不安定になる。


 岩の上に跳んだ。ここなら水に足を取られない。


 頭が川の中に沈んだ。消えた。水の中に溶けるように、姿が見えなくなった。水そのものになったのか。


「……どこだ」


 足の裏に——何かが来た。


 振動。細かい振動。土を通して伝わってくる。クシナダヒメの声ではない。感覚だ。方向を指している。


 ——左。


 左の水面を見た。波紋が不自然に動いている。何かが水の中を移動している。


 十拳剣を左に振った。水面を薙いだ。


 手応え。水中で何かに当たった。鱗の感触。頭が水面に浮かび上がった。切られた首筋から黒い血が滲んでいる。


 足の裏に、また振動。今度は——上。


 見上げた。頭が水柱を上げて跳んでいた。上から落ちてくる。口を開けている。


 岩を蹴って横に跳び、すれ違いざまに斬った。首の傷口を、もう一度。


 斬れた。


 「怒」より鱗が薄い分、剣だけでも断てた。三つの傷が重なった場所から、首が裂けた。頭が川に落ち、水しぶきを上げた。


 水流が——止まった。操っていたものが死んで、水が元の流れに戻った。村に向かっていた分岐の水が引いていく。


 足の裏に振動。クシナダヒメが伝えてくる。


 ——上流。まっすぐ。


 走った。


 霧がまだ濃い。涙がまだ止まらない。走るたびに視界がぼやけて、木の根に躓きそうになる。


 足の裏——右。


 右に曲がった。川沿いの獣道。霧の発生源が近い。匂いが強くなる。塩辛い、苦い匂い。


 足の裏——止まれ。


 止まった。


 目の前に——霧の塊があった。


 頭だ。「水」よりさらに小さい。犬ほどの大きさの頭が、川の上に浮いている。目は——見えない。目の代わりに、涙がある。顔全体から涙を流している頭。それが霧になって広がっている。


「哀」の頭。


 こいつが悲しみの霧を出している。吸った者の悲しみを増幅させる。俺の嵐が「悲しみ」でできているから、共鳴したのだ。


 十拳剣を構えた。


 ——剣だけでは不安だった。「水」は剣で断てたが、「哀」には実体がほとんどない。霧のような体。斬っても霧が散るだけかもしれない。


 嵐を——少しだけ、使う。


 少しだけ。全開ではなく。剣の刃先にだけ嵐を纏わせる。刀身が青白く光った。風の刃が剣の延長になる。


 これなら村は壊れない。刃の先だけの嵐だ。範囲が狭い。


 振った。


 風の刃が霧の頭を貫いた。霧が——裂けた。実体のない体が、嵐の風圧で散らされた。涙の粒が宙に舞い、光を受けて一瞬だけ虹色に光った。


 きれいだった。


 悲しみの頭が散るとき、きれいだった。それが少しだけ——切なかった。


 霧が晴れていく。視界が戻る。涙が止まる。


 足の裏に、最後の振動。


 ——終わり。


 クシナダヒメからの合図。大地を通じた「もういい」の振動。


 息をついた。十拳剣の青白い光が消える。腕が重い。少しだけ嵐を使ったが、腕のひび割れが昨日より広がった気がする。


 村に戻った。


 畑は——無事だった。


 水は引いていた。家は壊れていない。昨日直した柱も立っている。子供たちが高台から降りてきて、老人が畑の端を確認して、老婆がへたり込んで笑っていた。


 壊していない。


 俺が戦って、村が壊れなかったのは——これが初めてだった。


 クシナダヒメが川辺にいた。泥だらけの手で地面を押さえたままの姿勢で、動かなかった。ずっとこの体勢で、土を通じて俺に指示を送り続けていたのだろう。膝が泥に沈んでいる。


「……おい」


 近づいた。手を差し出した。


 クシナダヒメが顔を上げた。顔に涙の跡が残っていた。霧のせいだけではないかもしれない。分からない。


「立てるか」


「……立てます」


 俺の手を取らずに、自分で立った。膝の泥を払った。俺の手は宙に浮いたまま残された。取ってくれなかった。まあ、そうだろう。


「助かった」


 言った。


「ありがとう」


 また言った。名前を聞いたときと同じだ。何かをもらったら礼を言う。教わったからではなく、言わなきゃいけない気がするから言う。お前のおかげで村が壊れなかった。だからありがとう。論理は合っている。


 クシナダヒメが、俺を見た。


 あの暗い目。しかし今日は、その奥で何かが動いていた。観察している目だった。俺を、見ている。


「お礼はいいです」


「なぜ」


「あなたがお礼を言うたびに、居心地が悪い」


「…………なぜ」


 二度聞いた。一度目の「なぜ」と二度目の「なぜ」では声の重さが違った。一度目は反射。二度目は——聞きたくて聞いた。


 クシナダヒメが、少し間を置いた。言おうかどうか迷っている顔。いや——迷っていない。言うと決めていて、タイミングを計っている顔だ。


「本心じゃないから」


 三文字が、胸に刺さった。


「……本心だ」


「嘘です。あなたのお礼は——いつも同じ顔で、同じ声で、同じタイミングで出てくる。名前を聞いたときも。今も。まるで——決まった手順を踏んでいるみたいに」


「…………」


「お礼が悪いとは言っていません。ただ——本当にそう思って言っているなら、もっと不格好になるはずです。言葉に詰まるとか、目が泳ぐとか。あなたのお礼は綺麗すぎる。練習したみたいに」


 練習した。


 その通りだった。


 母を知らない。父との会話は三往復で終わった。姉は太陽で忙しく、兄は月で無口だった。「正しい振る舞い」を誰にも教わらなかったから、見よう見まねで覚えた。誰かが「ありがとう」と言っているのを見て、「ああ、何かをもらったらああ言うのか」と思って、真似した。


 真似だ。ずっと真似だった。それを——この娘は、たった三回の「ありがとう」で見抜いた。


「……見抜くのが早すぎないか」


「毎年、姉が一人ずつ減りました。そのたびに村の人たちが『大丈夫だ』と言いました。全部嘘でした。嘘を聞き続けると、嘘が分かるようになるんです」


 七年分の嘘を聞いてきた耳だ。俺の「ありがとう」の一つや二つ、簡単に透けるだろう。


「……じゃあ、ありがとうは言わない方がいいのか」


「言わなくていいとは言っていません」


「どっちだ」


「本心で言えるようになったら、言ってください。そのときは——居心地悪くないと思います」


 クシナダヒメが背を向けた。また足が速い。


 俺は川辺に立ったまま、さっきまで戦っていた川を見た。腐っている。まだ腐っている。二つ頭を倒しても、川は変わらない。あと五つ。


 本心で言える「ありがとう」。


 それが何なのか、まだ分からない。分からないが——分からないと認めることが、たぶん、真似をやめる最初の一歩なのだろう。


 腕のひび割れが広がっていた。手首から肘を越えて、少し上まで。昨日より確実に広がっている。


 足の裏が、まだほんの少しだけ温かかった。


 クシナダヒメが土を通じて送ってきた振動の、最後の残り。大地が覚えている彼女の体温。


 ——あれは、すごかった。


 素直にそう思った。言葉にはしなかった。「ありがとう」は封印した。本心で言えるようになるまで。


 代わりに、十拳剣を見た。刀身に、うっすらと血の跡。「水」の頭の血だ。


 剣だけで——断てた。嵐なしで。


 それが今日の、小さな収穫だった。

ご拝読いただきありがとうございました!

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