第二章 怒の頭
川が、割れた。
比喩ではない。川の中央が左右に裂けるように水が退き、泥まみれの川底が露出した。その裂け目の向こうから、何かが来る。
水しぶきではない。水そのものが怯えて逃げていた。
最初に見えたのは、目だった。
赤い目。牛の目のように大きいが、牛よりもずっと深い位置にある——知性がある目だ。怒っている。何にかは分からない。ただ、怒っている。
次に首。黒緑の鱗に覆われた、太い首が水面から立ち上がる。五メートル。十メートル。まだ伸びる。首だけでその高さだ。頭はさらにその先に、雲に届きそうな位置に浮かんでいる。
口が開いた。
腐った川の匂いが十倍になった。内臓を直接嗅がされたような、生々しい腐臭。あの牙の間に、何が挟まっていたかは考えたくない。
——これが、ヤマタノオロチの頭の一つ。
「…………でかい」
俺は、それしか言えなかった。もう少し気の利いたことを言いたかったが、語彙が追いつかなかった。でかい。本当にでかい。
後ろで老婆が悲鳴を上げた。老人が老婆を抱えて後ずさった。クシナダヒメは——動かなかった。ただ、その手の震えが少しだけ強くなった。この娘は七回これを見ている。慣れてはいないが、叫び方を忘れたのかもしれない。
頭が、こちらを向いた。赤い目が俺を見た。
そして——吼えた。
吼え声ではない。空気が震えた。地面が震えた。俺の腹の底が震えた。怒りだけで空間を揺らす、純粋な暴力の圧。
嵐が——跳ねた。
俺の体に纏わりついていた青白い嵐が、怒りに反応した。悲しみの嵐が、初めて別の形を取ろうとしている。怒りに触れて、嵐が怒りを返そうとしている。
頭が突っ込んできた。
速い。あのでかさで、速い。
腰の十拳剣を抜いた。父イザナギから受け継いだ——というより、禊のときに勝手に手元にあった剣。長い。重い。しかし俺の腕には軽い。
牙が迫る。横に跳んで避け、首筋に斬りつけた。
——弾かれた。
手が痺れた。剣が鱗の上を滑って、火花が散った。黒緑の鱗は、刃を通さなかった。十拳剣は神の剣だ。父がカグツチを斬り、黄泉の番人を薙ぎ払った剣だ。それが、通じない。
首がしなり、二撃目が来た。横薙ぎ。跳んでは避けられない。十拳剣を盾のように構え、首の側面を受け流した。衝撃で体が五メートル吹き飛んだ。足で泥を抉りながら止まる。
三度目。今度は上から。口を開けて、頭ごと落ちてくる。
剣を突き上げた。刃先が口蓋に当たった。硬い。貫通しない。しかし突きの勢いで頭の軌道がわずかにずれ、俺の横を通過して地面に突っ込んだ。
鱗が硬すぎる。剣だけでは——削れはするかもしれないが、時間がかかりすぎる。その間にあの牙が俺を噛み砕く方が先だ。
——嵐を使うしかない。
「悪い」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
十拳剣を握ったまま、解放した。
「——下がれ!」
老夫婦とクシナダヒメに叫ぶ余裕は、それだけしかなかった。
体に纏わりついていた嵐を、全部、一気に。青白い風が渦を巻いて、俺の体から弾けた。悲しみの色をした冷たい嵐が、オロチの首に直撃した。
首が——弾かれた。十メートルの首が、横に吹き飛んだ。
手応えがあった。剣では弾かれた鱗が、嵐では砕ける。効いている。
頭が地面に叩きつけられ、泥の中で暴れた。赤い目がさらに怒りに染まる。起き上がろうとする首に、十拳剣を構えながらもう一発、嵐を叩き込んだ。剣を振り下ろす動きに嵐が乗り、刃の延長線上に風の刃が走った。
地面が陥没した。頭が泥に半分埋まった。
快感があった。認めたくないが、あった。剣だけでは弾かれた鱗が、嵐を乗せた剣なら断てる。力が通じる。嵐が敵を吹き飛ばす。あの巨大な体が、俺の嵐で揺れる。高天原で暴走していたときは何も壊す相手がいなかったが、今は——壊すべきものがある。
頭が泥から這い出た。まだ生きている。まだ怒っている。
来い。
俺も、怒っている。何にかは分からない。ただ、この腐った川が許せない。この匂いが許せない。毎年娘を一人ずつ喰ったという話が許せない。
嵐が——暴れた。
今度は加減しなかった。というより、加減の仕方が分からなかった。嵐を出すか出さないか。その二つしか俺にはない。出せば全力。それが俺の嵐だ。
青白い風が渦を巻き、竜巻のように立ち上がった。川の水が巻き上げられ、空に散った。頭が嵐の中で回転した。鱗が何枚も剥がれ、黒緑の破片が宙を舞った。
首がひび割れた。
跳んだ。嵐に乗って一気に間合いを詰め、十拳剣を両手で振り下ろした。嵐を纏った刃が、ひび割れた首の断層に食い込む。
斬れた。
首が——千切れた。
頭が地面に落ちた。重い音。地面が揺れた。赤い目の光が消えていく。口が開いたまま、動かなくなった。
首の断面から黒い血が流れ出し、川に混ざっていく。
勝った。
——勝った?
嵐が、まだ止まらなかった。
首を断ったのに。もう戦う相手がいないのに。嵐が、俺の制御を離れて暴れている。青白い風が渦を巻き、川を越え、岸を越え——
振り向いた。
村が——壊れていた。
嵐が、背後の村を吹き飛ばしていた。畑の作物は根こそぎ薙ぎ倒され、家屋の屋根は半分が飛び、柱が折れて傾いた家が三軒。干していた衣服が空を舞っている。老夫婦が作っていたと思われる小さな畑は、土ごとめくれ上がって、もう何が植えてあったかも分からない。
嵐が、ようやく止まった。
静けさが戻った。オロチの頭の死骸と、壊れた村と、俺。
十拳剣の刃を見た。欠けてはいない。しかし鱗に弾かれた衝撃で、刃の一部がわずかに曇っていた。父の剣でも、オロチの鱗は正面からは断てない。嵐がなければ——斬れなかった。
剣を鞘に納めた。
老夫婦がゆっくりと立ち上がった。高台に逃げていたらしい。二人とも無事だ。しかし、その目は——壊れた村を見ていた。俺を見ていなかった。
クシナダヒメが、歩いてきた。
めくれ上がった畑の前で止まった。折れた柱を見た。飛んだ屋根を見た。それから——俺を見た。
あの暗い目が、俺を見ていた。
「……助けてもらったんじゃない」
静かな声だった。怒鳴っているわけではない。ただ、事実を述べているだけの声。
「壊されただけです」
返す言葉がなかった。
その通りだった。オロチの頭を一つ倒した。しかし嵐は村を壊した。プラスマイナスで言えば——どちらが大きい? 頭はあと七つある。毎回こうなるなら、八回戦い終わる頃には村そのものが消えている。
「……悪かった」
「謝らないでください。謝られても畑は戻りません」
正論だった。正論は痛い。
クシナダヒメは俺から目を逸らして、倒れた柱を一人で起こそうとした。細い腕で、持ち上がるわけがない。それでも、やろうとしていた。俺に頼まずに。
「……手伝う」
「いいです」
「手伝う」
「いいと言っています」
「聞こえているが、手伝う」
柱の反対側を掴んだ。力を入れたら、簡単に持ち上がった。神の腕力なら柱の一本くらい軽い。しかし、柱を立てた先で何をすればいいか分からない。建築の知識がない。国を生んだ両親の子だが、家を建てたことはない。島を生む方法は知っているが、屋根の直し方は知らない。神というのは案外、実用的なことを何も教わらない。
クシナダヒメが黙って支え方を指示した。「そこを持って」「もう少し右」「そこで止めて」。短い言葉だけで、無駄がなかった。この娘は、家の修繕を何度もやったことがある顔だ。毎年、オロチが通った後に——壊れた村を直してきたのだろう。今年は俺が壊した分も入っているが。
老人も来た。老婆も来た。四人で、黙々と壊れた家を直した。
日が暮れるまでかかって、三軒のうち一軒だけなんとか形になった。残り二軒は明日以降。畑はどうしようもない。
「……すまなかった」
俺はまた言った。二度目だ。
老人が首を振った。
「いや。頭を一つ倒してくれた。それだけでも——」
「あなた」
老婆が老人を止めた。目でクシナダヒメを見た。老人が黙った。
クシナダヒメは、直した家の中から毛布を一枚持ってきて、俺に投げた。
「ここで寝てください。夜は冷えます」
「……泊めてくれるのか」
「頭を倒したのは事実です。追い出しはしません」
感謝ではなかった。事実の確認だった。
俺は家の外の、壊れた柵の横に座った。毛布をかぶった。空を見た。姉の太陽はもう沈んで、兄の月が出ている。ツクヨミの光は冷たい。いつもそうだ。
腕が、痛かった。
見ると——嵐を使いすぎた右腕の皮膚が、薄く荒れていた。乾いた川底のように細かくひび割れている。触ると、ざらざらしていた。今までこんなことはなかった。高天原で暴れたときも、体に変化はなかった。
この川のそばで嵐を使うと、体に何かが起きるのか。それとも、オロチと戦うことで何かが——
「——どうしますか。」
声が聞こえて、振り向いた。
あの笑顔だった。
灰白色の肌。目のない顔。黒い炎が揺れる蝋燭を持った、十歳くらいの子供の体。暗がりの中に、笑顔だけが浮かんでいる。
「……ヒサメ」
黄泉にいるべき兄が、出雲の夜に立っている。降りてきたときに一瞬見えたのは気のせいではなかった。
「お前、なんでここにいるんだ。黄泉はどうした」
答えない。ただ笑っている。あの、永遠に変わらない笑顔。親に捨てられて黄泉に流れ着いた最初の子供が、弟の前で笑っている。
「……俺に何か用か」
「どうしますか。」
同じ言葉。二度目だ。しかし一度目とは違う重さがある。一度目は「出雲に来るか来ないか」の問い。今度は——「続けるかやめるか」の問い。
「どうするも何も——」
「嵐を使えば、村が壊れます。使わなければ、オロチに勝てません」
「……分かってる」
「分かっていて、どうしますか。」
三度目。ヒサメは三度繰り返した。
答えられなかった。
嵐は俺の全てだ。悲しみが嵐になり、嵐が力になる。それ以外の戦い方を、俺は知らない。嵐を使えば勝てる。しかし嵐は区別しない。敵も味方も、オロチも村も、等しく吹き飛ばす。
それが俺だ。近づくものを全て壊す、厄介な末っ子。父が俺を追い出したのも、姉の国から追い出されたのも、結局は同じ理由だ。
「……考える」
「そうですか。」
ヒサメが笑った。いつもの笑顔と同じに見えたが、ほんの少しだけ——口の角度が変わった気がした。安心したのか、失望したのか、それとも別の何かか。目がないから、読めない。
振り向いたら、もういなかった。黒い炎の残像が空中に一瞬だけ揺れて、消えた。
朝が来た。
起きたら、クシナダヒメがもう畑の跡を片付けていた。めくれ上がった土を素手で戻している。細い指が泥だらけだった。
「手伝う」
「いいです」
「手伝うと言っている」
「……勝手にしてください」
拒絶ではなかった。許可だった。この娘の語彙では「勝手にしろ」が「どうぞ」にあたるらしい。翻訳が必要な会話だが、慣れつつある自分が少し怖い。
土を戻した。嵐は使わなかった。素手でやった。神の腕力でも、畑を元通りにするのは時間がかかった。土には向きがあるらしい。クシナダヒメが「それは逆」「そこは深く」と短い指示を出した。昨日と同じだ。この娘は指示が的確で、無駄がない。俺は指示されるのが嫌いだと思っていたが、この娘の指示にはなぜか従える。たぶん的確すぎて反論の余地がないからだ。
「そこは根が残っているから抜いて」
「これか」
掴んで引き抜いたら、土が三メートルえぐれた。力加減を知らない。
「……力を入れすぎです」
「すまん」
二回目の「すまん」は、オロチを倒した礼よりも自然に出た。
昼過ぎに、子供が二人、遠くからこちらを見ていた。俺の嵐を怖がっているのだろうと思ったが——違った。近づいてきた。
「おっきい人」
「嵐のおっきい人」
子供は怖がらない。嵐の神を見ても、ただ「おっきい」としか思わない。高天原では神々が俺を避けて歩いた。この子供たちは真正面から来る。
「……おう」
「昨日バリバリって音がした」
「オロチを倒した」
「すげー! でもうちの柵が壊れたー」
「……すまん」
「いーよー。おとうさんが怒ってたけどー」
いい、で済むのか。いや済まないだろう。お父さんは正しい。
一人の子供が俺の嵐に手を突っ込もうとした。
「やめろ。怪我する」
「あったかいの? つめたいの?」
「冷たい」
「なんでー?」
「悲しいから」
「なんで悲しいのー?」
答えに詰まった。子供の質問は剣より鋭い。
クシナダヒメが子供たちを見ていた。その目が、ほんの少しだけ柔らかくなっていた。本当にほんの少しだけ。見間違いかもしれない。
夕方。二軒目の家の修繕がほぼ終わった。
俺は川辺に座って、腕のひび割れを見ていた。昨日より少し広がっている。右腕の手首から肘にかけて、皮膚が乾いてざらついている。痛みはない。ただ、違和感がある。
足音がした。
クシナダヒメだった。隣には座らなかった。少し離れた場所に立って、川を見ていた。まだ腐っている川。一つ頭を倒しても、川は変わらない。あと七つ。
「頭はあといくつですか」
「七つだと聞いた」
「……七回。あれをやるんですか」
「あれ」
「嵐。あの嵐を、七回」
沈黙。
七回やれば、七回村が壊れる。それが分かっていて聞いている。
「……方法を考える。もう少し、上手くやれるかもしれない」
「かもしれない」
「……やる」
クシナダヒメが、初めて俺の方を向いた。あの暗い目。蓋をされた感情の底で、何かが動いている。怒りか、諦めか、それとも——ほんの少しの期待か。
「次も同じことをするなら」
声は低く、静かだった。
「来なくていいです」
来るな、ではなかった。来なくていい、だった。
この二つは違う。
「来るな」は拒絶だ。壁だ。超えるなという命令だ。
「来なくていいです」は——来ることを前提にしている。来るかもしれない相手に、来なくていいと言っている。つまり、来る可能性を認めている。
俺がそこまで読み取れたかと言うと——読み取れていない。後から考えて、ああそうだったのか、と思っただけだ。あの瞬間の俺は、ただ腹を殴られたような気分で、腐った川を見ていた。
「……分かった」
それだけ答えた。
クシナダヒメが背を向けて歩いていった。
俺は腕のひび割れを見た。川を見た。オロチの頭の残骸が、川の中で黒い塊になって沈んでいくのが見えた。一つ倒した。あと七つ。
嵐を使えば勝てる。しかし嵐は村を壊す。
剣だけでは鱗を断てなかった。剣だけで勝つ方法を、俺はまだ知らない。
知らないが——知らないなら、考えろ。初めてだ。戦い方を「考える」のは。今まで考えたことがなかった。嵐を出すか出さないか。二択しかなかった。しかしあの娘は「来なくていいです」と言った。三回目の通りすがりの嘘はもうつけない。
だから、考えるしかない。十拳剣だけで鱗を断つ方法を。あるいは嵐を、村に届かない形で使う方法を。
風が吹いた。嵐ではない。ただの風。出雲の夕方の、普通の風。腐った匂いを少しだけ薄めて、通り過ぎていった。
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