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第一章 腐った川

挿絵(By みてみん) 


落ちた、のだと思う。


 降りた、ではない。自分の意思で地上を選んだ、というほど立派な話ではない。高天原を追い出され、天の道を転がり、雲を突き抜け、どこかで気を失い、気づいたら地面に仰向けだった。


 空が——遠い。


 あんな場所にいたのが嘘みたいだ。姉の太陽が、小さく見える。ついさっきまであの光の真下で暴れていたのに。機織り部屋を壊し、田を荒らし、誰かが死んで、姉が岩戸に隠れて、世界が暗くなった。


 全部、俺のせいだ。


 分かっている。


 父に追い出され、姉の国からも追い出された。海原を治めろと言われた場所にも行かなかった。母に会いたいと泣いて、黄泉に行って、会えたけど——あの目は俺を見ていなかった。俺を追いかけてきた。あの目の色を、俺は一生忘れない。


 行く場所がない。


 嵐が——体に纏わりついている。青白い、冷たい嵐。泣き疲れた嵐。もう何かを吹き飛ばす気力もない。俺が泣くたびに嵐が暴れ、嵐が暴れるたびに世界が壊れる。その繰り返しを、俺は止められなかった。止めたかったのかどうかも、もう分からない。


 体を起こした。


 草原だった。知らない土地だ。高天原の金色の光も、海原の青い風もない。ただの、地面と草と、空。それだけの場所。


 いいかもしれない。何もない場所が、今の俺にはちょうどいい。


 立ち上がって、歩き出した。あてはない。


 ——匂いがした。


 最初は気のせいだと思った。風が変わったのかと思った。しかし歩くたびに強くなる。甘いような、苦いような、喉の奥に引っかかるような匂い。これは——腐っている。何かが腐っている。


 嵐が、動いた。


 俺の意思ではなかった。体に纏わりついてぐったりしていた嵐が、ほんの少しだけ、体から離れる方向に動いた。泣き疲れたはずの嵐が。


 悲しみ、ではなかった。怒り、でもなかった。もっと原始的な何か。嵐が、匂いの方を向いていた。


「おかしい」


 口に出していた。


 この匂いは、おかしい。地面がおかしい。水がおかしい。嵐がそう言っている。


「——出雲に、川があります。」


 振り向いた。


 灰白色の肌。目がない。黒い炎が揺れる蝋燭。永遠に変わらない、あの笑顔。


「ヒサメ」


 俺は、その名前を呼んだ。


 蛭子。父と母の最初の子。婚姻の儀でうまくいかなかったせいで、骨のない体に産まれてきた。葦の舟に乗せられて流された——最初の、捨てられた子供。それが黄泉に流れ着いて、黄泉の意志となった。目がないのは、最初からそうだったからだ。


 俺の兄。会ったことのない母を持つ、俺より先に産まれた兄。


 父が黄泉を下ったとき、ヒサメが案内した。俺が母を探しに行ったときも、あの薄暗い道の先にいた。自分を捨てた親の国を、笑顔で案内し続けた存在。


「お前、なんで——地上に」


 なぜ黄泉の意志がここにいる。あいつは黄泉の奥にいるべき存在だ。地上に出てくる理由が思いつかない。


 答えはなかった。


 もう一度振り向いたときには、ヒサメは消えていた。黒い炎の残像だけがしばらく空中に揺れて、それも消えた。


 出雲に、川がある。


 そこに行けと言いたいのか。何を見ろと。


 足が、勝手に匂いの方に動いていた。嵐が、かすかに揺れている。


 丘を越えた。


 ——見えた。


 川だ。


 幅は広い。本来なら豊かな川なのだろう。しかし今、その水は黒い。黒というより黒緑。表面に泡が浮き、岸に打ち上げられた魚は白い腹を見せて動かない。木々は枝先から茶色く枯れ、川辺の草は根元から黒く変色している。


 生きているものが、死んでいく川。


 嵐が、また動いた。今度ははっきりと。体から浮き上がるように、川に向かって伸びようとした。青白い嵐が、腐った水を拒むように揺れている。


 そして——川辺に、人がいた。


 老夫婦と——泣いていない、一人の娘。

 近づくつもりはなかった。


 人間に関わるつもりは、もっとなかった。俺が近づけば嵐が騒ぐ。嵐が騒げば何かが壊れる。高天原で学んだのは、そういうことだ。俺がいる場所は荒れる。俺がいない場所は穏やかになる。だから俺は、どこにもいないのがいちばんいい。


 そう思って、通り過ぎようとした。


 ただ、川があまりにも臭かった。


 足が止まったのは、匂いのせいだ。それ以上の理由はない。はずだった。


 老夫婦は川辺にしゃがみ込んで、互いにもたれかかるようにして泣いていた。男の方は白髪で、背中が丸く、骨と皮だけの手で女の肩を抱いている。女の方は声を殺して泣いていたが、しゃくり上げるたびに体が震えて、男の腕から落ちそうになった。


 娘は——立っていた。


 二人の少し後ろで、川を見て、立っていた。泣いていない。顔に表情がない。風が吹いても、匂いが来ても、何も感じていないような顔。生きている人間の顔ではなかった。死ぬことを決めた人間の顔だ。


 俺はその顔を見て、足が完全に止まった。


「——通りすがりだ」


 自分に言い聞かせた。声に出してしまったのは失敗だった。


 老人が顔を上げた。涙で赤くなった目が俺を見て、それから俺の体のまわりで揺れている青白い嵐を見て、大きく見開かれた。


「神さま」


 老人が言った。


「嵐を纏っておられる。神さまだ」


 立ち上がろうとして、膝が折れた。女の方が慌てて支える。二人して俺の方に手を伸ばす。


「お助けください」


「通りすがりだ」


「どうか。どうか。もう誰も——」


「通りすがりだと言った。俺は——」


 川の水が、跳ねた。


 俺が一歩近づいただけで、嵐が反応した。腐った水が嵐の圧で弾かれ、岸辺の黒い泥が乾いた音を立てて割れた。嵐は俺の意思で動いたのではない。勝手に動いた。川の異常を、嵐が拒んだ。


 老夫婦が、その光景を見ていた。


「……やはり。神の力だ」


 老人がまた言う。


「この川を——この川の主を、どうか」


「川の主」


「ヤマタノオロチ」


 八つの頭を持つもの。その名前は、知らない。しかし嵐が反応しているということは、川を腐らせているものが、嵐にとって見過ごせない何かだということだ。


「毎年、娘を差し出してきた」


 老婆が、震える声で言った。


「八人いた娘が——もう一人しか」


 八人。毎年一人ずつ。つまり七年、この老夫婦は娘を一人ずつ失ってきたということだ。


 俺は娘を見た。


 最後の一人。泣いていない娘。川を見ている。俺たちの会話が聞こえているはずなのに、何も言わない。何も感じていない顔。


 あの顔は——覚悟、とも違う。諦め、とも違う。もっと深い場所にいる。感情を全部、川の底に沈めてしまったような目だ。


「今年の、贄の期限が——」


「通りすがりだ」


 三度目だった。言うたびに、自分の声が嘘っぽくなっていくのが分かった。


「関わるとろくなことにならない。俺のいる場所は荒れる。今だって——ほら」


 振り返ると、俺が歩いてきた草原に、嵐の跡がくっきり残っていた。草が薙ぎ倒され、土がえぐれ、まるで巨大な獣が通った後のように荒れている。俺はただ歩いただけだ。それだけで、これだ。


「だから——」


「名前は」


 自分の口が、勝手に動いた。


 違う。今のは通りすがりのセリフじゃない。なぜ聞いた。


 娘が、初めてこちらを見た。


 川を見ていた目が、俺に向いた。暗い目だ。深い。底が見えない。しかし死んではいない。沈めているだけだ。感情を全部、深いところに押し込んで、蓋をしている目。


「なぜ聞くんですか」


 声が低かった。綺麗な声ではない。かすれている。泣かなすぎて、声帯が錆びたような声。


「どうせ明日にはいなくなる人でしょう」


 人、と言った。神、ではなく。


「聞きたいから聞いている」


「……変な神」


「神じゃなくて人と言ったのはお前だろう」


 娘の眉が、ほんの少しだけ動いた。困惑だった。怒りでも悲しみでもない。ただ、予想外のことを言われた顔。


「……クシナダヒメ」


 小さな声だった。


「ありがとう」


 言ってしまってから、自分でも「また言った」と思った。これは癖だ。名前を聞いたら礼を言う。何かをもらったら礼を言う。母を知らない俺が、どこかで見た「正しい振る舞い」を必死に真似している。本心かどうかは分からない。ただ、言わなきゃいけない気がするから言う。


 クシナダヒメの顔が、少し変わった。


 困惑が深くなった。眉の角度が変わった。口元が、何か言いかけて止まった。


「……名前を聞いて、礼を言ったの」


 近づくつもりはなかった。


 人間に関わるつもりは、もっとなかった。俺が近づけば嵐が騒ぐ。嵐が騒げば何かが壊れる。高天原で学んだのは、そういうことだ。俺がいる場所は荒れる。俺がいない場所は穏やかになる。だから俺は、どこにもいないのがいちばんいい。


 そう思って、通り過ぎようとした。


 ただ、川があまりにも臭かった。


 足が止まったのは、匂いのせいだ。それ以上の理由はない。はずだった。


 老夫婦は川辺にしゃがみ込んで、互いにもたれかかるようにして泣いていた。男の方は白髪で、背中が丸く、骨と皮だけの手で女の肩を抱いている。女の方は声を殺して泣いていたが、しゃくり上げるたびに体が震えて、男の腕から落ちそうになった。


 娘は——立っていた。


 二人の少し後ろで、川を見て、立っていた。泣いていない。顔に表情がない。風が吹いても、匂いが来ても、何も感じていないような顔。生きている人間の顔ではなかった。死ぬことを決めた人間の顔だ。


 俺はその顔を見て、足が完全に止まった。


「——通りすがりだ」


 自分に言い聞かせた。声に出してしまったのは失敗だった。通りすがりは普通、自己紹介しない。


 老人が顔を上げた。涙で赤くなった目が俺を見て、それから俺の体のまわりで揺れている青白い嵐を見て、大きく見開かれた。


「神さま」


 老人が言った。


「嵐を纏っておられる。神さまだ」


 立ち上がろうとして、膝が折れた。女の方が慌てて支える。二人して俺の方に手を伸ばす。


「お助けください」


「通りすがりだ」


「どうか。どうか。もう誰も——」


「通りすがりだと言った。俺は——」


 ここで引き返せばよかった。本当に通りすがればよかった。しかし老人が俺の足にしがみついてきた。神の足に老人がしがみつく。絵面としてはかなり情けない。俺が、ではなく老人が。いや、やっぱり俺もだ。


 川の水が、跳ねた。


 俺が一歩近づいただけで、嵐が反応した。腐った水が嵐の圧で弾かれ、岸辺の黒い泥が乾いた音を立てて割れた。嵐は俺の意思で動いたのではない。勝手に動いた。川の異常を、嵐が拒んだ。


 老夫婦が、その光景を見ていた。


「……やはり。神の力だ」


 老人がまた言う。


「この川を——この川の主を、どうか」


「川の主」


「ヤマタノオロチ」


 八つの頭を持つもの。その名前は、知らない。しかし嵐が反応しているということは、川を腐らせているものが、嵐にとって見過ごせない何かだということだ。


「毎年、娘を差し出してきた」


 老婆が、震える声で言った。


「八人いた娘が——もう一人しか」


 八人。毎年一人ずつ。つまり七年、この老夫婦は娘を一人ずつ失ってきたということだ。


 俺は娘を見た。


 最後の一人。泣いていない娘。川を見ている。俺たちの会話が聞こえているはずなのに、何も言わない。何も感じていない顔。


 あの顔は——覚悟、とも違う。諦め、とも違う。もっと深い場所にいる。感情を全部、川の底に沈めてしまったような目だ。


「今年の、贄の期限が——」


「通りすがりだ」


 三度目だった。言うたびに、自分の声が嘘っぽくなっていくのが分かった。


「関わるとろくなことにならない。俺のいる場所は荒れる。今だって——ほら」


 振り返ると、俺が歩いてきた草原に、嵐の跡がくっきり残っていた。草が薙ぎ倒され、土がえぐれ、まるで巨大な獣が通った後のように荒れている。俺はただ歩いただけだ。それだけで、これだ。散歩で更地を作る神。控えめに言って迷惑だ。


「だから——」


「名前は」


 自分の口が、勝手に動いた。


 違う。今のは通りすがりのセリフじゃない。なぜ聞いた。通りすがりは名前を聞かない。道を聞くものだ。俺は道も聞いていない。あてもなく落ちてきただけだ。


 娘が、初めてこちらを見た。


 川を見ていた目が、俺に向いた。暗い目だ。深い。底が見えない。しかし死んではいない。沈めているだけだ。感情を全部、深いところに押し込んで、蓋をしている目。


「なぜ聞くんですか」


 声が低かった。綺麗な声ではない。かすれている。泣かなすぎて、声帯が錆びたような声。


「どうせ明日にはいなくなる人でしょう」


 人、と言った。神、ではなく。


「聞きたいから聞いている」


「……変な神」


「神じゃなくて人と言ったのはお前だろう」


 娘の眉が、ほんの少しだけ動いた。困惑だった。怒りでも悲しみでもない。ただ、予想外のことを言われた顔。


「……クシナダヒメ」


 小さな声だった。


「ありがとう」


 言ってしまってから、自分でも「また言った」と思った。これは癖だ。名前を聞いたら礼を言う。何かをもらったら礼を言う。母を知らない俺が、どこかで見た「正しい振る舞い」を必死に真似している。本心かどうかは分からない。ただ、言わなきゃいけない気がするから言う。高天原では姉に「お前の礼儀は形だけだ」と言われた。否定できなかった。


 クシナダヒメの顔が、少し変わった。


 困惑が深くなった。眉の角度が変わった。口元が、何か言いかけて止まった。「この神は頭がおかしいのだろうか」という顔だった。残念ながら、半分くらい正解だ。


「……名前を聞いて、礼を言ったの」


「うん」


「なぜ」


「教えてくれたから」


「…………」


 長い沈黙。


 クシナダヒメが、また川に目を戻した。しかし今度は、さっきとは少し違う顔をしていた。蓋の隙間から、何かが漏れかけている顔。


「変な神」


 二度目だった。しかし一度目とは声の温度が違った。


 老人が、その隙を逃さなかった。


「お助けいただけるのですか」


「助けるとは言っていない」


「しかし——名前を」


「聞いただけだ。通りすがりが名前くらい聞くことも——」


 匂いが、変わった。


 腐った川の匂いは、ずっとそこにあった。しかし今、その匂いの中に、別の何かが混ざった。もっと深い匂い。もっと古い匂い。土の底から這い上がってくるような、生き物の腐臭とは違う、もっと根源的な——


 嵐が、逆立った。


 俺の意思ではない。体のまわりの嵐が、一気に膨らんだ。青白い風が渦を巻き、腐った川の水が三メートルほど後退した。川底の泥が露出し、その中で何かが——蠢いた。


「……なんだ、これ」


 川の上流を見た。


 匂いは上流から来ている。匂いだけではない。振動。地面を伝わる低い振動。遠くで、何かが動いている。大きなものが。


 老人と老婆が抱き合った。クシナダヒメだけが動かなかった。しかし、その手が——かすかに震えていた。


「来た」


 老人が、かすれた声で言った。


「……来たんだ。今年も」


「何が」


「頭が一つ——」


 地響きが来た。


 川の上流から。水面が波立ち、岸辺の枯れ木がばきばきと音を立てて折れていく。何かが川の中を、こちらに向かって進んでいる。大きい。速い。


 俺は三人の前に立った。


 通りすがりだ。関わるつもりはない。ろくなことにならない。


 全部本当だ。


 それでも、立ってしまった。通りすがり歴は半日で終了した。短い通りすがりだった。


 嵐が——変わった。


 悲しみの色だった青白い嵐が、ほんの一瞬、別の色を帯びた。怒りでもない。もっと単純で、もっと古い何か。


 目の前に、腐った川がある。死んだ魚が浮いている。土が黒く変色している。この異常を、嵐が許せないでいる。


 俺の意思じゃない。嵐が、許せないと言っている。


「——お前ら」


 振り向かずに言った。


「下がっていろ」


 川の上流から、何かが——現れた。

ご拝読いただきありがとうございました!

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