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第十章 届かない声

 核はまだ語っていた。


 何日目か分からない。川底には時間がない。ただ核の声と、青黒い光と、水の滴る音がある。


「七つの頭を分けたとき——俺は楽になると思った。」


 核の声が低く響く。宮殿の壁が振動する。語りが感情に触れると、この空間全体が震える。核の感情が空間を作っている。核が揺れれば空間も揺れる。


「怒りを外に出せば、怒らなくて済む。悲しみを外に出せば、悲しまなくて済む。問いを外に出せば、迷わなくて済む。」


「楽になった?」


「ならなかった。」


 核の声が——強くなった。


「出しても出しても——新しい怒りが生まれた。出雲が汚れるたびに。人間が増えるたびに。七つでは足りなかった。七十でも足りなかった。」


 宮殿が揺れた。岩が軋む音がした。天井から石の粒が落ちてきた。


 圧力が変わった。


 核が感情を昂らせるたびに、空間の圧力が上がる。水圧ではない。もっと直接的な——核の存在そのものの重さが増している。


 衣が——裂けた。


 圧力で。生地の弱い部分が、空気の重さに耐えられずに破れた。右肩の布が落ちた。結んでいた裾の結び目がほどけて、左脚がまた露わになった。


 背中の布が薄くなっている。胸元の生地も——透けかけている。水を吸って、圧力で引き延ばされて、布としての限界に近い。


 腕で覆いかけた。


 ——降ろした。


 覆えば核に弱さを見せることになる。肌が出ていることを恥じている、と見せることになる。姉を七人見送った私が、布切れの一枚で動揺すると思われたくない。


 この体はただの体だ。


 肩が冷たい。腕が冷たい。胸の布が薄い。脚が出ている。


 私はまだ——ここにいる。


 核が——見ていた。


 昨日までと、目が違っていた。


 最初は「確認」だった。人間の体を初めて見る存在が、観察していた。次に「興味」になった。私が怯えないことに興味を持った。


 今は——違う。


 「関心」だった。


 私の肌を見ているのではなく、私を見ている。体ではなく——この状態でも核を問い詰め続ける人間を。


 使える。


 この目が、使える。関心を持っているなら——答えてくれる。


「核」


「……何だ」


「聞いていい?」


「聞いている」


「あなたは川を守ろうとした。怒った。頭を作って感情を吐き出した。贄を取って代償を求めた。」


「そうだ」


「——守れたか。」


 核が止まった。


 宮殿の振動が止まった。水の滴る音が止まった。全てが止まった。


「守れたか。出雲の川は——清くなったか。あなたが怒って、贄を取って、何百年も戦い続けて——川は、守れたか。」


 核が答えない。


 答えなくていい。答えは知っている。この川は今も腐っている。私はこの腐った水の底にいる。核が何百年守ろうとしても、川は清くならなかった。


「守れなかったなら——それは守護じゃない。怒りだ。」


 声は静かだった。平坦に保った。感情を乗せない。事実だけを述べる。私にできる最も鋭い攻撃は、声を荒らげないことだ。


 核が——沈んだ。


 巨大な体が、宮殿の床に沈み込むように低くなった。目の青い光が揺れて、小さくなった。


 長い沈黙。


 私は壁にもたれて座っていた。肩が出ている。脚が出ている。布がぼろぼろになっている。この状態で——核を黙らせた。


 核が、動いた。


 蔓が伸びてきた。今度は私に向かってではなく——宮殿の壁に向かって。壁に張り巡らされた蔓の中から、新しい葉を引き出している。深緑の、厚い葉。何枚も何枚も集めて、蔓で編んで——


 衣だった。


 蔓と葉で作った、深緑色の衣。粗いが、体を覆える大きさ。核が——作った。


 蔓が衣を持ち上げて、私の前に差し出した。


「見苦しい」


 核が言った。


「……今まで気にしなかった」


「…………気になってきた。」


 その一言で、分かった。


 核は変わった。


 私を「贄」として、あるいは「人間」として見ていた目が——「個人」として見る目に変わった。名前のない存在が、名前のある存在を認識した。だから肌が出ていることが「見苦しい」と感じるようになった。


 核の敗北だった。


 私に衣を渡した瞬間、核は認めたのだ。この人間は——物ではない、と。


 衣を受け取った。蔓の感触がざらざらしていた。葉が肌に触れると、ひんやりした。深緑の匂い。植物の匂い。腐った川底で初めて嗅ぐ、生きている匂い。


 纏った。


 肩が覆われた。脚が覆われた。胸が隠れた。温かくはないが——裸よりはましだった。


「…………」


 何か言うべきか迷った。礼を言うべきか。この存在に。姉を七人喰った存在に。


 言わなかった。スサノオなら言っただろう。あの「ありがとう」を。本心かどうか分からないまま。でも私は——言わない。まだ許していないから。


「条件がある」


 核が言った。


「お前をここに連れてきたとき——俺は嵐の神に言った。『答えが出るまで預かる』と」


「……答え」


「俺の問いだ。嵐の神に答えさせろ。『なぜここに来た』。本当の理由を」


「なぜここに来た——スサノオが?」


「そうだ。あの男は『通りすがり』と言い続けた。嘘だ。本当の理由を聞きたい。それが——お前を返す条件だ」


 条件。スサノオが本当の理由を答えれば、私を返す。


 しかし——スサノオはここに来られない。川底には入れない。嵐は水の中で消える。来られない場所で答えを出せと——


 待て。


 私は考えた。壁にもたれて、深緑の衣を纏って、考えた。


 スサノオは川底に入れない。嵐が消えるから。しかし——入る方法が一つだけある。


 私が人の形でなければ。


 スサノオが私を連れて入るのではなく——私がスサノオの一部になれば。


 古い話を聞いたことがある。神が人を守るとき、形を変えることがある。人の形のままでは行けない場所に連れていくために、小さなものに変える。櫛に。簪に。石に。


 私が——櫛になれば。


 スサノオが私を髪に挿せば。そのまま川底に入れる。


 恐ろしい考えだ。体を失う。意識がどうなるか分からない。戻れるかも分からない。


 しかし——ここにいても何も変わらない。核は私を返す条件を出した。スサノオは答えを持って来なければならない。しかし来る方法がない。


 私が行く。私が変わって、スサノオのもとに行く。そしてスサノオが私を連れて、ここに来る。


 能動。受動ではなく。


 決めた。


 核に言うのはまだ早い。まず——スサノオに伝えなければ。


 壁に手を触れた。岩の表面。この岩は川底の一部だ。川底は川に繋がっている。川は——地上に繋がっている。


 大地を通じた振動。あの方法で、ここから送れるか?


 分からない。やってみるしかない。


 壁を叩いた。


 三回。


 ——生きている。


 壁を叩いた。もう一度。強く。


 ——来るな。答えを持ってこい。


 そして——最後に。何と伝えればいいか分からなかった。「櫛に変えてほしい」では伝わらない。振動で送れるのは言葉ではなく、感覚だけ。


 壁に額を押しつけた。体の力を抜いて、壁に全体重を預けた。


 思った。


 ——私を、変えていい。


 届くかどうか分からなかった。



 半身が鱗だった。


 右腕。左腕。右肩。左肩の途中まで。胸の右側。背中の一部。両足の膝まで。


 嵐が——ほとんど出ない。


 体のまわりにかすかに揺れる程度の青白い風。かつて山を削り、海を荒らし、高天原を壊した嵐が、今は蝋燭の炎ほどもない。


 代わりに鱗が光っている。川に手を入れると、鱗の部分だけが淡い黒緑の光を放つ。核の領域と共鳴している。もう少し——もう少し広がれば、全身が鱗に覆われれば、川底に入れるかもしれない。


 しかし、それは嵐を完全に失うことを意味する。


 老婆が握り飯を持ってきてくれた。


「食べなさい」


「…………」


「食べなきゃ、体が保ちません。神さまでも」


 食べた。塩が効いていた。旨かった。


 味が分かる。まだ、分かる。


 夜。川辺で座っていた。鱗だらけの腕を膝の上に載せて、光るのを見ていた。


 ——来た。


 鱗が、震えた。


 外からの刺激ではなかった。鱗の内側から——振動が来た。微かな、しかし確かな振動。大地を通じた信号とは違う。核と同じ素材を通じて、川底から直接伝わってくる感覚。


 ——生きている。


 言葉ではない。感覚。しかし意味は分かった。生きている。クシナダヒメが生きている。


 鱗が光っている。振動が続いている。


 ——来るな。答えを持ってこい。


 来るな。答え。何の答えだ。核が——何かを求めている? クシナダヒメが伝えようとしている?


 三つ目の感覚が来た。


 これは——分からなかった。


 温かかった。振動ではなく、温度だった。鱗の内側が温かくなった。何かが寄りかかっているような。体重を預けているような。


 ——私を、変えていい。


 意味が分からなかった。


 変える? 何を変える? 誰を変える?


 感覚が消えた。鱗の光が弱まった。川底との接続が切れた。


 「生きている」は分かった。「来るな」も分かった。しかし三つ目が——分からない。


 「私を、変えていい」。


 何を変えるんだ。何を——


 分からないまま、朝が来た。


 鱗が、また少し広がっていた。

ご拝読いただきありがとうございました!

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