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第十一章 鱗の代償

 鏡がなかった。


 出雲の村に鏡はない。だから自分がどんな顔をしているか分からない。しかし腕を見れば大体想像がつく。


 右腕は全て鱗。左腕も肘を超えた。両肩。胸の右半分。背中の右側。両脚の膝から下。首の右側に最初の一枚が出た。


 半身を超えた。


 嵐は——蝋燭の炎だった。体のまわりに、かすかな青白い揺らぎがある程度。渦を巻くことはなくなった。素振りをしても風が切れない。剣が空を通るだけで、嵐がついてこない。


 十拳剣を振った。


 静かだった。嵐のない剣は、こんなに静かだ。風の音がしない。ただ、鋼が空を割る音だけ。


 強くはなれない。嵐がなければ、俺は剣を振るしか能のない神だ。鱗に覆われた腕で、嵐の乗らない剣を振る。それが今の俺だ。


 「私を、変えていい」。


 あの感覚が、まだ鱗の奥に残っていた。温かさ。何かが寄りかかる重み。意味が分からない。三日経っても分からない。


 昼。老人が話しかけてきた。


「神さま」


「何だ」


「少し——話を聞いてもらえませんか。昔の話です」


 老人は味噌汁を淹れてくれた。俺は鱗だらけの手で椀を持った。鱗の指で持つ椀は滑りやすくて、何度か掴み直した。老人はそれを見て何も言わなかった。


「この出雲にはいろいろな昔話が伝わっています」


「ああ」


「中に一つ——神が人を守る話がありまして」


 老人が遠い目をした。


「昔々、ある神が大切な人を守りたかった。しかし、その人がいる場所には、人の形のままでは入れなかった。門が狭い。体が大きい。力が強すぎて、入っただけで壊してしまう」


「…………」


「だから神は——その人の形を変えた。人を、小さなものに。櫛に変えた話もあれば、石に変えた話もある。小さくなれば、神が手に持って——あるいは髪に挿して——一緒に入れる。守れない場所に、連れていける」


 椀を持つ手が止まった。


「形を変えれば——入れる、と」


「昔話ですから。本当かどうかは分かりません。しかし——」


 老人が、俺の鱗だらけの腕を見た。


「神さまが変わりつつあるなら——逆もできるのではないかと。変えることが」


 「私を、変えていい」。


 変えていい。


 形を変えていい。


 クシナダヒメが——自分の体を変えてもいい、と言っている。櫛に。石に。人の形ではない何かに。そうすれば俺が手に持って——髪に挿して——川底に入れる。


 椀を置いた。味噌汁がこぼれた。


「じいさん」


「はい」


「ありがとう」


 言ってしまった。封印していた言葉を。


 しかし——止められなかった。この言葉は出るべきだった。老人の昔話がなければ、俺は永遠にあの感覚の意味に気づかなかったかもしれない。


 本心か?


 分からない。しかし——喉から出てきた言葉を止めなかった。止めたくなかった。


 老人が目を見開いていた。それから——笑った。


「やっと言ってくれましたな」


「…………」


「ずっと、頷くだけだったから。一度くらいは聞きたかった」


 老人が笑いながら泣いていた。あるいは泣きながら笑っていた。どちらでもいいが——俺は立ち上がって、川に向かった。


 川辺に立った。


 ——気配があった。


 灰白色の肌。目のない顔。黒い炎の蝋燭。


「ヒサメ」


「痛いですか。」


 鱗を見て言った。


「……ああ」


 嘘ではなかった。痛い。鱗が皮膚を押し上げて生えてくるとき、鈍い痛みがある。ずっと続いている。慣れたが——痛い。


「痛い、ですか。」


 二度言った。同じ言葉を。しかし二度目は確認ではなかった。兄が弟の痛みを聞いている声だった。


「ヒサメ。俺は——クシナダヒメの形を変える。櫛に。それで川底に入る」


「…………」


「できるか。嵐ではない力で——古い神の力で」


「できます。あなたにはその力がある。父から受け継いだ力が」


 父。イザナギ。国を生み、神を生んだ最初の父。その力が俺にもある。嵐ではない、もっと古い力。形を変える力。


「変えたら戻せます」


「戻せるのか」


「ただし——あなたが答えを出した後で」


「答え」


「核の問いに。なぜここに来た、と。本当の理由を答えた後で——形は元に戻ります」


 核の問い。クシナダヒメが鱗を通じて伝えてきた「答えを持ってこい」。核がスサノオに求めている答え。


「なぜここに来たか、の答えか」


「はい」


「…………」


「答えは——ありますか。」


 ある、とは言えなかった。ない、とも言えなかった。「通りすがり」は嘘だ。クシナダヒメにも見抜かれた。しかし本当の理由を言葉にできるかと聞かれれば——まだ、できない。


「……川底に行ってから考える」


「それでいいと思います。」


 ヒサメが笑った。いつもの笑顔と同じに見えたが——蝋燭の炎が穏やかに揺れていた。


「おやすみなさい。」


 消えた。おやすみ、と言ったが、これから寝るわけではない。ヒサメの挨拶はいつも時間を無視している。


 川に向かった。


 水面が静かだ。腐った水が反射する光を見つめた。この下に、クシナダヒメがいる。核がいる。答えが待っている。


 鱗のある手を、水面に触れさせた。


 鱗が光った。川底に向かって光が伸びる。核と同じ素材が、核の領域に呼びかけている。


「——クシナダヒメ」


 声に出した。水面に向かって。鱗の振動に乗せて。


「変えていいか」


 長い沈黙。


 水が——揺れた。


 鱗に感覚が来た。あの温かさ。寄りかかる重み。しかし今度は——言葉になっていた。はっきりと。


 ——いい。


 一言。


 迷いのない一言だった。この娘はもう決めていたのだ。俺が気づく前から。俺がまだ意味を考えていた間に。


 目を閉じた。


 嵐ではない力を探した。体の奥に。もっと深い場所に。嵐の下に。嵐よりも古い場所に——


 あった。


 温かかった。嵐の冷たい青白とは違う。金色に近い、温かい光。父が国を生んだときに使った力と、同じ種類の力。創造の力。変える力。


 その力を——川底に向けた。


 鱗を通じて。水を通じて。核の領域を突き抜けて。


 ——クシナダヒメのもとへ。



 光が来た。


 温かい光が、宮殿の壁を突き破って来た。白い光。金色に近い白。川底の青黒い光とは全く違う——生きている光。


 スサノオの力だと分かった。


 嵐ではない。もっと温かい。もっと古い。この光は——変える力。私を変える力。


 核が動いた。巨大な体が身じろぎした。光に反応している。しかし——止めなかった。止められなかったのか、止めなかったのか。


 光が私を包んだ。


 核がくれた深緑の衣が、光の中で溶けていく。蔓の繊維がほどけて、葉が散って、衣が消えていく。


 肌が光に触れた。


 冷たくない。温かい。川底で過ごした全ての日の冷たさを溶かすように、温かい。


 体が——小さくなっていく。


 指先から。足先から。体の輪郭が凝縮していく。怖い。怖いが——この光は知っている。この温かさは知っている。あの人の力だ。味噌汁を三杯おかわりして、畑で種の蒔き方が分からなくて、嵐が止まった夜に隣にいた——あの人の。


 意識が遠くなる。体の感覚が薄れていく。目が見えなくなる。耳が聞こえなくなる。手の感触がなくなる。


 最後に残ったのは——一つの感覚だけ。


 髪に挿された。


 彼のそばにいる。彼の髪の中にいる。温かい。体はない。目もない。耳もない。しかし——ここにいる。


 それだけで十分だった。



 水面に——白い光が浮かんだ。


 小さな光。手のひらに収まるほどの。水面を滑るように漂ってきて、俺の前で止まった。


 櫛だった。


 白い骨のような質感の、細い櫛。光っている。脈打つように明滅している。呼吸をしているように。


 手を伸ばした。


 水面から掬い上げた。


挿絵(By みてみん)


 軽かった。しかし——温かかった。生きているものの温かさ。


「……ここにいる」


 声が出た。自分の声が。


 櫛を——髪に挿した。


 後頭部に。しっかりと。光が髪の中で揺れている。温かさが頭皮に伝わっている。


 川に入った。


 水に足を踏み入れた。嵐が——消えた。いつも通り。水に触れた瞬間、嵐が消える。


 しかし。


 頭の中の白い光が——消えなかった。


 櫛の光が、俺の周囲を照らしている。水の中でも消えない光。嵐ではない光。クシナダヒメの光。


 腰まで浸かった。肩まで。頭まで。


 潜った。


 水の中で目を開けた。


 見えた。


 白い光が川底まで届いている。道のように。一本の光の柱が、水面から川底まで真っすぐに伸びている。


 核の領域——壁があった。以前は弾かれた。嵐がない体では入れなかった。


 光が壁に触れた。


 ——通った。


 壁が、光を通した。光だけではない。俺の体も。鱗が壁と共鳴し、櫛の光が壁を照らし、二つが合わさって——核の領域の門が、開いた。


 泳いだ。光に沿って。下へ。深く。


 川底の宮殿が見えてきた。青黒い光。黒緑の岩。蔓。


 その奥に——巨大な影。


 核が、待っていた。

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