第十二章 川底の対峙
暗かった。
白い光が道を作っている。櫛の光だ。頭の中で脈打つように揺れる温かい光が、暗い水を割って川底まで伸びている。その光に沿って泳いだ。
宮殿が近づいてくる。
黒緑の岩で作られた空間。蔓が壁を這っている。天井は低い。人間が住むために作られた場所ではない。水の底に、何百年もかけて沈殿した——核の孤独が形になった場所。
入り口をくぐった。
空気があった。水の中なのに息ができる。核が維持している空間。クシナダヒメが——ここで過ごしていた。
足元に——布の切れ端があった。
赤褐色の生地。クシナダヒメの平服の端だ。裂けて落ちたものだろう。拾い上げた。冷たかった。水を吸って、色が褪せていた。
少し先に、もう一枚。袖の切れ端。
さらに奥に——深緑の葉が散っていた。蔓で編んだ衣の残骸。誰かが作って、誰かが纏った痕跡。核がクシナダヒメに作った衣だ。彼女が櫛に変わったとき、衣は残された。
散らばった布と葉。ここで何が起きたか、それだけで分かった。
髪の中の櫛が——温かくなった。この場所を覚えている。ここにいた。ここで核と向き合っていた。
奥に進んだ。
——いた。
青黒い光の源。巨大な体。黒緑の鱗。七つの頭とは比べものにならない存在感。宮殿の奥を埋め尽くすように横たわっている。首が持ち上がり、頭がこちらを向いた。
目が合った。
黒い目。赤くない。深い黒の奥に、青い光がかすかに揺れている。怒りの目ではなかった。「問」のような問いかけの目でもなかった。
見ていた。ただ見ていた。何百年も一人でここにいた存在が、ようやく来た相手を見ている目。
俺も、見た。
核は——思ったより、傷だらけだった。
鱗の表面に、無数の古い傷がある。何かと戦った跡ではない。自分の感情を引き剥がした跡だ。七つの頭を分離するたびに、核の体は裂けた。裂けた場所が塞がり、また裂け、また塞がった。何百年分の傷跡が層になっている。
「来たか。」
声が響いた。低い。古い。宮殿全体が震えた。
「ああ」
「入れたか。」
「入れた」
核の目が、俺の体を見た。鱗を。半身を覆っている黒緑の鱗を。
「……同じ色だ。」
「ああ。お前と同じ素材で入った」
「代償を払ったということだ。」
「代償でもいい。ここに来たかった」
核の目が——俺の頭に移った。髪の中で揺れている白い光を見た。
「クシナダヒメは——どこだ。」
手を上げた。後頭部に触れた。
「ここにいる」
白い光が、一際強く脈打った。核に見せるように。
核が——黙った。
長い沈黙。水の滴る音だけが反響した。
「……形を変えたのか。」
「彼女が決めた。俺が変えたが——変わると決めたのは彼女だ」
「…………」
「お前が出した条件を聞いた。俺の答えを聞きたいと」
「……ああ。」
核の声が、少し低くなった。
「答えは。」
「なぜ俺がここに来たか。本当の理由を」
「そうだ。」
髪の櫛が温かい。脈打っている。聞いている。声はないが——ここにいる。
答えは——あるのか。
「通りすがり」は嘘だ。最初から嘘だった。
「川が腐っていたから」は半分だ。本当だが、全部ではない。
「クシナダヒメを助けるため」も半分だ。今ここにいる理由ではあるが、最初にここに来た理由ではない。
最初にここに来た理由。出雲に降りた理由。腐った川の匂いを嗅いで、足が止まった理由。名前を聞いた理由。通りすがりをやめた理由。
全部、同じだった。
「クシナダヒメがいるから来た」
言った。
「最初は違った。最初は——行く場所がなくて、落ちただけだ。しかし名前を聞いた。名前を聞いたら、離れられなくなった。川が腐っていたから怒った。嵐が川を許せなかった。それも本当だ。しかしいちばん本当のことは——あの娘がいたから、ここにいた」
核が黙って聞いていた。
「今もそうだ。川底に来たのは、あの娘がここにいるからだ。鱗が広がるのも構わなかった。嵐がなくなるのも構わなかった。あの娘がいない場所にいるより——あの娘がいる場所で化け物になる方がましだった」
核の目の青い光が、大きく揺れた。
「……その答えは——」
長い沈黙。
受け取った、とも。拒んだ、とも言わなかった。ただ揺れていた。
そして。
「——おまえと俺は同じだ。」
核の声が、変わった。低さは同じだが——何かが剥がれた声。何百年分の硬さが一枚落ちた声。
「守りたいものがあった。守りたいから荒ぶった。俺は川を守りたかった。おまえはあの娘を守りたかった」
「…………」
「俺は川を守るために村を喰った。おまえは嵐で村を壊した。俺は怒りが八つの頭になった。おまえは嵐が制御できなかった。俺は贄を取った。おまえは——体が変わり始めている」
鱗を見た。半身を覆っている俺の鱗。核と同じ色。核と同じ素材。
「同じだ。俺とおまえは同じものだ。守りたくて壊す。守りたくて変わっていく」
核の目が、まっすぐに俺を見た。
「——何が違う。」
その問いが、宮殿の壁に反響した。
何が違う。
俺と核は何が違う。
守りたいものがあった。暴走した。壊した。変わっていった。全部同じだ。嵐で村を壊した俺と、怒りで川を腐らせた核と——何が違う。
答えようとした。
答えが——出なかった。
「俺は人を喰っていない」? そうだ。しかし村を壊した。人を傷つけなかったとは言えない。
「俺はまだ間に合う」? 本当に? この鱗が全身に広がったとき、俺は核と何が違うのか。
「俺には仲間がいる」? 核にも——かつてはいた。清い川と、川辺の草と、魚と。全部失った。俺だって、クシナダヒメを失いかけた。
答えが出ない。
「問」の頭のときと同じだ。即答できない問い。しかし今度は——麻痺はしない。体は動く。ただ、言葉がない。
「……今は答えられない」
正直に言った。
「答えを探す。必ず。しかし今この場では——出てこない」
核が——動かなかった。
怒らなかった。攻撃もしなかった。ただ見ていた。
「……出ていけ。」
「何?」
「考えて来い。答えが出たら——また来い。」
出ていけ、と言った。追い出すのではなく——待つ、と言っている。出て行って考えて戻ってこいと言っている。
「クシナダヒメは——」
「櫛のままだ。答えが出れば戻る。ヒサメがそう言ったはずだ。」
知っていた。ヒサメとのやり取りを。黄泉の存在と核の領域は繋がっている。
髪の中の白い光が、静かに脈打っていた。温かい。ここにいる。声はないが——ここにいる。
「……戻ってくる」
背を向けた。宮殿を出た。白い光の道を辿って、水面に向かって泳ぎ始めた。
核の声が、水を通して追いかけてきた。
「——あの娘は、強かったぞ。」
振り向かなかった。
知っている、と思った。
俺より強い。
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