第十三章 何が違う
川面から顔を出したとき、朝だった。
いつの間にか夜が明けていた。川底にどのくらいいたのか分からない。光がまぶしかった。出雲の朝の光。地上の光。
岸に這い上がった。全身ずぶ濡れ。鱗が光っている。半身を覆う黒緑の鱗が、朝日を受けて鈍く反射していた。
嵐は——ほとんど出ない。体のまわりに糸のように細い青白い風が一筋、二筋。それだけだ。
髪の中で、白い光が脈打っている。クシナダヒメ。櫛になったまま。ここにいる。温かい。
老人が走ってきた。
「神さま! ご無事で——」
「無事だ」
「川底に——行かれたのですか」
「行った。核に会った」
老人が俺の体を見た。鱗が広がっているのを見た。目が曇った。しかし何も言わなかった。代わりに乾いた着物を持ってきた。
着替えた。鱗の上から布をかぶせても、突き出た鱗が布を押し上げて不格好になった。人間の服は鱗を想定していない。当たり前だ。
味噌汁を飲んだ。旨い。まだ旨い。
子供が来た。
「おっきい人、腕がきらきらしてる」
「鱗だ」
「かっこいい?」
「……かっこよくはない」
「おっきい人、いつまでいるの」
また同じ質問だ。前は「分からない」と答えた。今は——
「もう少しだけ」
子供が不満そうな顔をした。「もう少し」は大人の嘘だと知っているのだろう。子供は鋭い。
子供が走っていった。
俺は川辺に座った。
何が違う。
核の問いが頭の中で回っている。守りたいから荒ぶった。守りたいから喰った。何が違う。
昨日の夜、川底で答えられなかった。三つの反論を考えて、全部自分で潰した。
もう一度、考えた。
核は川を守りたかった。清い川を。魚がいて、草が育つ、美しい川を。しかし人間が汚した。核は怒った。怒りが頭になった。贄を取った。それでも川は清くならなかった。守れなかった。
俺はクシナダヒメを守りたかった。腐った川の娘を。しかし嵐で村を壊した。体が鱗に覆われた。嵐が消えかけている。それでも——
クシナダヒメは、まだここにいる。
髪の中で。櫛として。形は変わったが——いる。
核は——守りたかったものを、失った。清い川は消えた。魚は死んだ。草は枯れた。守りたかったものが全部なくなった後に、怒りだけが残った。何のために怒っているのか分からなくなった。守る対象がなくなった怒りは——ただの暴力だ。
俺は——まだ失っていない。
クシナダヒメがここにいる。老夫婦がいる。子供たちがいる。味噌汁が旨い。畑の種がいつか芽を出す。嵐は消えかけているが、守りたいものは消えていない。
それが——違い。
しかし。
それは——「今は」違う、というだけだ。
今はまだ守れている。しかしもし守れなくなったら? クシナダヒメを失ったら? 村が壊れたら? 守りたいものが全部なくなったら——
俺も核と同じになるだろう。
嵐が暴走する。制御を失う。怒りだけが残る。何のために荒ぶっているのか分からなくなる。そうなったら——俺は核だ。もう一匹のオロチだ。
違いは一時的なものでしかない。
永遠の差ではない。今この瞬間の差だ。
——それでいい。
立ち上がった。
完璧な答えではない。「俺は正しくてお前は間違っている」とは言えない。核の怒りは正しかった。クシナダヒメがそう言った。方法が間違っていた。しかし方法が間違うのは——守れなかったからだ。守れていれば方法を間違えない。守れなくなったから壊し始めた。
俺はまだ守れている。その差だけが、俺を核と分けている。
だから——守れている今のうちに。
川に向かった。
水面に立った。鱗が光った。
「核」
川に向かって声を出した。
水面が——震えた。
「答えを持ってきた」
沈黙。川底から何の反応もない。しかし水面が微かに揺れ続けている。聞いている。
「俺とお前は同じだ。お前の言う通りだ。守りたくて壊す。守りたくて変わっていく。同じだ」
水面が大きく揺れた。
「違うのは——一つだけだ。俺はまだ守れている。お前は守れなくなった」
「…………」
「それは俺が正しいからじゃない。俺が強いからでもない。たまたまだ。たまたま、まだ守れている。守りたいものがまだ生きている。ここにいる」
髪の中の光に触れた。
「しかしもし守れなくなったら——俺もお前と同じになる。嵐が暴走して、怒りだけが残って、何のためにいるのか分からなくなる。お前と同じだ。その可能性は——ある」
水が静まった。
「だから——今のうちにお前を止める。守れている今のうちに。同じになる前に。お前を終わらせるのではなく——お前を鎮める。俺がまだ俺でいるうちに」
長い沈黙。
川底から——声が来た。
「……完璧な答えではないな。」
「ああ。完璧じゃない」
「正しくもない。」
「たぶん正しくない」
「しかし——」
水面が割れた。
川の中央が左右に裂けるように水が退いた。最初の頭「怒」が現れたときと同じだ。しかし規模が違った。川幅全体が裂けた。水が壁のように両岸に押し上げられた。
川底が露出した。泥と岩。蔓。そしてその奥から——
核が出てきた。
川底の宮殿を捨てて。何百年もいた場所を出て。地上に。
でかかった。
「怒」が大きいと思った。あれは核の一片に過ぎなかった。核は——川の幅より太かった。首が三本の大木を束ねたように太く、体は宮殿そのもののように巨大で、鱗の一枚一枚が俺の盾ほどの大きさがあった。古い傷跡が全身に走っている。何百年分の痛みが体に刻まれている。
目が合った。黒い目。青い光。
「……受け取った。」
核の声が、初めて空の下で鳴った。川底で反響する声ではなく、風に乗る声。出雲の空に響く声。
「完璧ではないが——誠実だ。嘘がない。」
「…………」
「嘘がない答えを聞いたのは、何百年ぶりだ。人間はいつも嘘をついた。『もう汚さない』『もう切らない』。全部嘘だった。お前の答えは——嘘がなかった。」
核が体を持ち上げた。川底から完全に離れた。地上に立った。大地が揺れた。
「——来い。」
十拳剣を抜いた。
髪の中で白い光が揺れている。嵐はほとんどない。剣と鱗と、髪の中のクシナダヒメ。それだけが俺の武器だ。
核が口を開いた。牙が見えた。しかし怒りの牙ではなかった。
「俺を鎮められるか——守れている神よ。」
地響きがした。
決戦が始まる。
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