第十四章 斬ると守る
核が動いた。
巨大な体が大地を揺らしながら向きを変えた。尾が川岸を薙いだ。木が三本、根元から折れて飛んだ。
でかい。本当にでかい。「怒」が大きいと思ったのが笑えるほどでかい。出雲の空を背景に、核は山のように聳えていた。
十拳剣を構えた。
嵐を出そうとした。
——糸のような風が出た。それだけだった。体のまわりをかすかに揺れる青白い風。渦を巻く力はない。何かを吹き飛ばす力はない。蝋燭の炎以下の、嵐の残骸。
構わない。行く。
走った。
核の首めがけて跳んだ。十拳剣を振り下ろした。鱗に——当たった。
弾かれた。
「怒」の鱗が硬いと思った。核の鱗はその何倍も硬い。十拳剣が跳ね返された衝撃で、体が吹き飛んだ。地面に叩きつけられた。泥の中で転がって、止まった。
起き上がった。
もう一度走った。今度は首ではなく、体の側面を狙った。鱗の隙間を探した。古い傷跡が走っている場所——七つの頭を引き剥がした跡——そこなら鱗が薄いかもしれない。
跳んだ。斬った。
入った。刃が傷跡の隙間に食い込んだ。黒い血が飛んだ。
核が——体を振った。
虫を払うように。俺が食い込ませた剣ごと、体を振った。剣を抜く間もなく振り落とされた。地面に叩きつけられた。今度は背中から。息が止まった。
十拳剣を握ったまま立ち上がった。食い込んだ傷を見た。
——塞がっていた。
核の鱗が、斬った場所を再生していた。再生速度が七つの頭とは桁違いだ。斬っても斬っても塞がる。
球形の嵐を作ろうとした。第四章で毒を中和したように——核の鱗に叩きつけて——
嵐が足りない。球を維持できない。手のひらの上で一瞬だけ形を作って、すぐに散った。
核の首が動いた。
横薙ぎ。首全体で薙ぎ払ってきた。第二章の「怒」と同じ攻撃。しかし規模が違う。
跳んで避けた——避けきれなかった。首の端が右腕を掠めた。鱗のある腕だったから骨は折れなかったが、衝撃で五十メートルほど飛ばされた。畑の端に落ちた。
直した畑だ。種を蒔いた畑。クシナダヒメに「もっと浅く」と言われた畑。俺が落ちた衝撃で、土がまためくれた。
核が見ている。
遠くから。山のような体で。
「……斬れない。嵐もない。それでもやるか。」
「やる」
立ち上がった。十拳剣を構えた。
走った。
斬った。弾かれた。斬った。弾かれた。傷跡を狙った。食い込んだ。再生された。別の場所を斬った。また再生された。
血が出ていた。俺の血だ。核の鱗の破片が腕を切っていた。鱗のない部分——左の脇腹と顔の左半分——が切り傷だらけになっていた。
核の尾が来た。見えていた。しかし体が動かなかった。疲労で。
尾が腹に入った。
体が折れた。吹き飛ばされて、川岸の岩に叩きつけられた。岩が割れた。背骨が——折れてはいない。神の体だから。しかし痛い。痛いというレベルではなく、体全体が拒否している。
地面に顔をつけたまま、動けなかった。
「おまえは守れなかった。」
核の声が、空から降ってきた。
「おまえが来る前に、あの娘の形は変わった。おまえが守ったのか? 違う。あの娘が自分で変わったのだ。おまえは——間に合わなかった」
「…………」
「俺と同じだ。間に合わなかった者同士だ。」
反論できなかった。
クシナダヒメは核に攫われた。俺の嵐が凪いだ瞬間に。守れなかった。櫛に変わったのはクシナダヒメ自身の決断だった。俺は——変える力を使っただけだ。
守れなかった。
核の言う通りだ。
腕が動かない。十拳剣を握っているが、振る力がない。嵐はない。体は半分鱗で、もう半分は傷だらけだ。
——ここまでか。
目を閉じかけた。
髪の中の白い光が——強くなった。
微かな光が、急に、強くなった。
温かさが頭皮から流れ込んできた。白い光が髪の間から漏れて、顔を照らした。
櫛が——反応していた。
声ではなかった。クシナダヒメの声は櫛になってから聞こえない。しかし感覚が来た。はっきりと。鱗を通じてではなく、櫛から直接。
——守れなかったんじゃない。
感覚。温度。重み。寄りかかるような。
——ここにいる。
目を開けた。
白い光が——嵐と混ざり始めた。
残っていた嵐。糸のように細い青白い風。それが櫛の白い光に触れて——色が変わった。
青白と白が混ざった。混ざって——金色になった。淡い金色。
体が動いた。
腕が動いた。十拳剣を握り直した。立ち上がった。
嵐が——戻っていた。
しかし青白い嵐ではなかった。淡い金色の嵐だった。体のまわりを渦巻いている。温かい。冷たくない。生まれてから初めて、嵐が温かかった。
悲しみの嵐ではない。
何の嵐なのか、自分でも分からない。名前がつかない。しかし——強い。青白い嵐よりずっと強い。
核が見ていた。
金色の嵐を纏ったスサノオを。
「……色が変わったな。」
「ああ」
「その色は——俺は知らない。」
「俺も知らない。初めてだ」
十拳剣を構えた。金色の嵐が刀身に纏わりついた。刃が光った。
走った。
跳んだ。核の首を狙って、十拳剣を振り下ろした。金色の嵐を乗せた刃が、鱗に触れた。
——斬れた。
鱗が裂けた。青白い嵐では弾かれた核の鱗が、金色の嵐では断てた。黒い血が噴き出た。
核が吼えた。痛みの声だった。何百年ぶりの痛みだろう。
着地して、もう一撃。金色の嵐を球形にした。今度は維持できた。球を核の体に叩きつけた。鱗が砕けた。
核が体を振った。尾が来た。
見えた。今度は見えた。跳んで避けた。尾の上に着地した。尾を走った。鱗を踏みながら、背中に向かって走った。
核が暴れた。体をうねらせて俺を振り落とそうとした。金色の嵐を足に集中させた。鱗の上で踏ん張った。滑らない。金色の嵐は核の鱗と反発しない——むしろ噛み合う。足場になる。
背中に到達した。首の付け根。ここが——急所だ。七つの頭を引き剥がした傷跡が最も集中している場所。
十拳剣を両手で構えた。金色の嵐を全て刃に集中させた。
振り下ろした。
核の体が——割れた。
背中の鱗が砕け、肉が裂け、黒い血が噴き出した。核が倒れかけた。体が大きく傾いた。
しかし——まだ動いている。
尾が暴れている。最後の力を振り絞るように、尾が大地を叩いている。
尾を斬る。
尾を斬れば終わる。背中の傷と合わせて、核の力が維持できなくなる。
背中から跳び降りた。走った。核の体の横を駆け抜けて、尾にたどり着いた。
太い。幹のように太い尾。鱗が密集している。しかし核は弱っている。鱗の硬度が落ちている。
十拳剣を構えた。金色の嵐を乗せた。
全力で——振った。
刃が尾に食い込んだ。鱗が砕けた。肉に達した。
——刃が、欠けた。
十拳剣の刃が、途中で止まった。何かに当たった。鱗でも肉でもない、もっと硬いものに。衝撃で刃の一部が欠けて飛んだ。
尾の断面から——光が漏れた。
黒い血の中に、青い光が混ざっていた。何かが尾の中にある。硬いもの。金属のようなもの。
十拳剣を引き抜いた。欠けた刃を確認した。父の剣が——欠けた。何百年も使われてきた神の剣が。
尾の傷口を、手で開いた。鱗のある手で。黒い血が流れ出す中に——
剣があった。
尾の中に、剣が埋まっていた。
引き抜いた。
美しかった。
刀身は十拳剣より細く、しかし十拳剣より長い。鋼の色が深い。そして——紋様があった。黒く沈んだ紋様が刀身の表面を走っている。雲のような形。空を流れる雲を、金属の中に閉じ込めたような紋様。
手に取った瞬間——紋様が光った。
青く。静かに。脈打つように。
この剣は——生きている。
核の声が聞こえた。弱い声。地面に崩れ落ちながら。
「天叢雲。」
「…………」
「俺の——守護の意志が、最後に形になったものだ。守りたいという意志だけは——消えなかった。それが剣になった。」
天叢雲剣。核が守りたかったものの結晶。何百年も尾の中に眠っていた、怒りの下に隠れていた守護の残滓。
核の体が——縮んでいた。巨大だった体がゆっくりと低くなっている。
「——守れたか。」
核が言った。
クシナダヒメの言葉だった。川底で核に突きつけた問い。それが核自身の口から返ってきた。
「……まだわからない」
「…………」
「しかし——今はここで守る」
長い沈黙があった。
「……そうか。」
静かだった。怒りではない。受け取った音だった。
「——守れなかった。俺は。」
「…………」
「川を——守れなかった。」
その言葉が出雲の空に落ちた。何百年分の重さで。
「しかし——おまえが来た。」
核の目が開いた。怒りが消えていた。初めて見る——穏やかな目。
「それで——よかった。」
目が潤んだ。俺の目が。
よかった、と言った。守れなかった守護者が。何百年も怒り続けた存在が。よかった、と。
核の体が川に溶け始めた。黒緑の鱗が水に戻っていく。巨大だった形が崩れて、川の流れに混ざっていく。
溶けながら——最後に、目が俺を見た。
「——守れた。」
静かに。確かに。
何を守れたのか。川を清くしてくれた者が来たことなのか。天叢雲剣を残せたことなのか。あるいは全部なのか。
分からない。しかし核は「よかった」と言い、「守れた」と言って——川に戻った。
目が消えた。体が消えた。最後に残った青い光が水面で一瞬だけ揺れて——消えた。
川が静かになった。
俺は川辺に立っていた。右手に欠けた十拳剣。左手に天叢雲剣。雲の紋様が静かに青く光っている。髪の中に櫛。
金色の嵐が穏やかに体のまわりを巡っていた。温かい風。初めて温かい嵐。
「それでいいんですか。」
振り向いた。ヒサメがいた。
「……核は自分で『よかった』と言った。消したのではなく——川に戻った」
「…………」
「俺が守れなくなったら——また出てくるかもしれない。でもそれは俺の問題だ」
蝋燭が穏やかに揺れた。
「おやすみなさい。」
消えた。
川面が静かだった。匂いが——薄くなっていた。水の色が、ほんの少しだけ明るくなっていた。
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