第十五章 清い川
朝が来た。
目を覚ますと——匂いが違っていた。
川辺で眠っていた。昨夜の戦いの後、動けなくなって、そのまま倒れた。天叢雲剣を抱えたまま。
匂いが——ない。
あの腐った匂いが、ない。出雲に来てからずっと染みついていた、甘くて苦くて喉に引っかかる腐臭が——消えている。
目を開けた。
川を見た。
——透明だった。
黒緑だった水が——透明な青に変わっていた。川底の石が見えた。白い石と灰色の石。水草が揺れていた。生きている水草が。
魚が——いた。
小さな魚が三匹、水面近くを泳いでいた。どこから来たのか分からない。しかしいた。清い水の中を、銀色の腹を光らせて泳いでいた。
川が——清くなっていた。
核が戻ったからだ。核が守護者として川に戻ったからだ。怒りではなく——本来の力として。
立ち上がろうとした。
——記憶が、流れ込んできた。
天叢雲剣が光っていた。傍らに置いた剣の雲の紋様が青く脈打っていて、その光に触れた手から——何百年分の記憶が入ってきた。
清い川が見えた。
魚が跳ねていた。草が川辺に揺れていた。水が澄んでいて、底まで光が届いていた。子供が川で遊んでいた。女が水を汲んでいた。男が魚を捕っていた。
美しかった。出雲は——美しかった。
画が変わった。
木が切られていた。山が削られていた。土が川に流れ込んでいた。水が濁っていた。魚が減っていた。草が枯れていた。
怒りが来た。核の怒りだ。俺の怒りではないのに——体が震えた。守ろうとした。清めようとした。しかし人間は止まらなかった。汚し続けた。清めても清めても——追いつかなかった。
贄を取った。一人目の娘が泣いていた。二人目も。三人目も。
それでも川は清くならなかった。
怒りが頭になった。一つ、二つ、三つ——七つ。全部の感情を吐き出した。最後に残ったのが寂しさだった。誰もいない川底で、何百年も一人でいた。
守りたかった。
ずっと——守りたかった。
記憶が切れた。天叢雲剣の光が静かになった。
俺は泣いていた。
嵐は出ていなかった。青白い風は吹いていなかった。金色の嵐も出ていなかった。ただ——涙が出ていた。顔が濡れていた。
生まれてから、嵐を出さずに泣いたのは初めてだった。
嵐は悲しみだ。泣けば嵐が出る。いつもそうだった。しかし今は——嵐が出ない。涙だけが出ている。
なぜだ。
悲しいからか。核の記憶が悲しかったからか。それもある。しかしそれだけではない。
——核が「よかった」と言ったからだ。
あの言葉が残っている。守れなかった存在が、最後に「よかった」と言った。怒りでも悲しみでもなく「よかった」と。その言葉の温度が、嵐の冷たさを溶かしている。だから嵐にならない。涙のまま、落ちている。
涙を拭いた。
腕を見た。
——鱗が消えていた。
右腕の鱗が、薄れている。一枚、また一枚、黒緑の鱗が皮膚の下に沈んでいく。その下から、元の肌が見えた。温かい小麦色の肌。
左腕も。肩も。胸も。背中も。足も。
鱗が——消えていく。核が川に戻った影響だろう。核と同じ素材でできていた鱗が、核と一緒に消えている。体が元に戻っていく。
嵐が——戻っていた。淡い金色の嵐が体のまわりに揺れている。鱗が消えた分だけ、嵐が戻っている。
髪の中の白い光が——強くなった。
熱い。頭皮が熱い。光が膨張している。櫛が——
髪から抜けた。
白い光が髪の中から飛び出して、俺の前に浮かんだ。拳大の光。それが広がった。膨張した。人の形になった。
光が凝縮して、輪郭ができた。腕。脚。頭。髪。
光が消えた。
クシナダヒメが——立っていた。
裸だった。
川底で衣が全て失われていたからだ。核がくれた深緑の衣は櫛に変わるときに消えた。元の平服はとうに裂けてなくなっていた。
白い肌が朝日に照らされていた。
目を逸らした。反射的に。
「…………」
上着を脱いだ。俺の神衣はぼろぼろだったが、上だけでも渡せば体は隠せる。振り向かずに後ろに差し出した。
「……着ろ」
沈黙。
布が手から引き取られた。
衣擦れの音。しばらくして。
「……振り向いていい」
振り向いた。
クシナダヒメが俺の神衣を纏って立っていた。だぶだぶだった。袖が余っている。裾が足首を超えて地面についている。
しかし——立っていた。
あの暗い目が、俺を見ていた。
「……川が清くなった」
「ああ」
「核は」
「……川に戻った」
「殺したの」
「殺してはいない。鎮めた。核は——自分で戻った。『よかった』と言って」
「…………よかった、と」
「ああ」
クシナダヒメが川を見た。透明な水。魚が泳いでいる。水草が揺れている。
目が潤んでいた。
泣いたのだと思う。一瞬だけ。しかしすぐに蓋を閉めた。いつもの顔に戻った。しかし蓋の閉まり方が前より少し緩かった。隙間から光が漏れていた。
「……川底で、何があった」
聞いた。聞かなければならなかった。
「いろいろ」
「…………」
「核がずっと私を見ていた。服も——ほとんどなくなった」
黙った。
拾った布の切れ端を思い出した。赤褐色の平服の端。深緑の衣の残骸。あの宮殿に散らばっていた、クシナダヒメの衣服の破片。
「最後に核が服をくれた。気になったんですって」
「…………」
何を言えばいいか分からなかった。嫉妬か。安堵か。怒りか。全部だった。全部が同時に来て、どれも口から出なかった。
「でも——心配しなくていい」
クシナダヒメが、川を見たまま言った。
「あいつは最後まで、触れなかった」
その一言で——全部の感情が沈んだ。静かに、深い場所に。
触れなかった。核はクシナダヒメの体を見た。衣を剥がれた姿を見た。しかし触れなかった。最後に衣をくれた。それが核の限界だった。体には届いても、心には届かなかった。
俺は——体に触れなかった。櫛になったクシナダヒメを髪に挿しただけだ。しかしそれが、たぶん——いちばん近かった。
長い沈黙があった。
川の音だけが聞こえていた。清い川の音。初めて聞く、清い水の音。
「……また来るのか」
クシナダヒメが聞いた。
「来る」
「……来なくていいです」
嘘だった。
嘘だと分かる言い方だった。声が少しだけ高くなっていた。「来なくていいです」の「です」が震えていた。
そして二人とも——嘘だと分かっていた。
「来なくていいです。でも、来たいなら——」
間があった。
「証明してから来なさい。あなたが本当に海原を治められる神だって。嵐で何も壊さない神だって」
笑った。
俺は——笑った。
初めて、本当に笑った。嵐の神が、嵐を出さずに笑った。
「分かった。証明する」
老夫婦が走ってきた。クシナダヒメを見て、老婆が崩れ落ちた。老人が震える手でクシナダヒメの肩を掴んで、声もなく泣いた。クシナダヒメが二人を支えた。こういうとき、この娘はいつも支える側だ。
子供たちが来た。
「おねえちゃん帰ってきた!」
「おっきい人が助けたの!?」
「助けたかどうかは微妙だ。半分くらいは向こうが自分で何とかした」
「半分は助けたの?」
「……半分くらいは」
子供が俺の足に抱きついた。もう一人が腕に抱きついた。小さい手が鱗の消えた腕を掴んでいた。
「おっきい人、いなくなるの」
「……もう少しだけ、いる。しかし——いつかは行く」
「やだ」
「…………」
「やだ」と言われた。この子供は将来、核より手強い存在になるだろう。
夕方。
俺は出発の支度をしていた。支度といっても、十拳剣と天叢雲剣を持つだけだ。荷物はない。来たときも何も持っていなかった。
老人が握り飯を包んでくれた。
「道中、お腹が空いたときに」
「…………」
「味噌汁は持ち運べませんので」
「…………」
「また来なさったときに——作ります」
「……ああ」
老婆が草鞋を編んでくれた。二足目だ。一足目は毒で溶けたが、今度は溶けないだろう。
クシナダヒメが来た。まだ俺の神衣を着ていた。だぶだぶのまま。
「……返します。これ」
「いい。持っていけ」
「でも」
「俺は寒くない。嵐があるから」
「…………」
嘘だった。嵐があっても寒いときは寒い。しかし——着ていてほしかった。理由は言わない。
「ありがとう。飯がうまかった」
言った。
「ありがとう」。
クシナダヒメに「本心じゃない」と見抜かれて封印した言葉。老人の昔話に感謝して一度だけ漏れた言葉。そして今——三度目。
本心か?
本心だった。
疑いなく。飯がうまかったのは本当だ。味噌汁が旨かったのは本当だ。干し柿が甘かったのは本当だ。しかしそれだけではない。全部だ。名前を教えてくれたことも。嵐の嘘を見抜いてくれたことも。足の裏から振動を送ってくれたことも。櫛になってくれたことも。全部に対する「ありがとう」が、「飯がうまかった」という一言に——全部入っている。
クシナダヒメが俺を見ていた。
あの暗い目が——少しだけ、光っていた。
「……居心地悪くない」
「え?」
「今のありがとう。居心地悪くない」
覚えていた。あのときの言葉を。「本心で言えるようになったら——居心地悪くないと思います」。
「……不格好だったし。目が泳いでいたし。言葉に詰まっていたし」
「そうか」
「そうです。前のありがとうは綺麗すぎた。今のは——全然綺麗じゃない」
「悪かったな」
「だから——本心だと分かった」
クシナダヒメが——笑った。
初めて見た。この娘が笑ったのを。口角が少しだけ上がった程度の、控えめな、しかし確かな笑み。蓋の隙間から漏れた光が——笑顔の形をしていた。
一瞬だった。すぐに戻った。いつもの顔に。しかし——見た。確かに見た。
背を向けた。歩き出した。天叢雲剣を腰に、十拳剣を背に。金色の嵐が穏やかに体のまわりを巡っている。
振り向かなかった。
振り向いたら、戻ってしまうから。
エピローグ 荒魂・了
高天原は変わっていなかった。
金色の光。広い空。強い風。俺がいない間に壊れたものは直されていて、俺がいた痕跡は消されていた。
姉が待っていた。
アマテラス。太陽の神。高天原の主。岩戸から出てきて以来、ずっと光っている姉。
天叢雲剣を差し出した。
「……これを」
アマテラスが剣を見た。雲の紋様が青く光った。姉の手に渡った。
姉弟の短い会話。多くは語らなかった。語れなかった。岩戸のことも、追放のことも、全部飛ばして——一つだけ。
「……強くなったね」
「姉さんのおかげじゃない。出雲に、いい川があった」
アマテラスが微笑んだ。許し——ではないかもしれない。しかし、もう怒ってはいなかった。
高天原を出た。
海原に向かう道。長い道。広くて、深くて、誰もいない場所に向かう道。
夕焼けの中を歩いていた。空がオレンジと紫に染まっていた。出雲の夕暮れに似ていた。色が濃い。
「——また、いつか。」
声がした。
灰白色の肌。目のない顔。黒い炎の蝋燭。兄の——笑顔。
「ヒサメ」
「おやすみなさい。——いえ。」
「…………」
「また、いつか。」
「ああ。また、いつか」
蝋燭の炎が揺れた。ヒサメが消えた。最後に炎だけが一瞬残って、それも消えた。
一人になった。
歩き続けた。天叢雲剣は姉に渡した。十拳剣は腰にある。手には何もない。
金色の嵐が、穏やかに揺れていた。
母さん。
俺は黄泉であなたに会った。でも——あのときは何も言えなかった。座っているあなたの前で、俺は何も言えなかった。
だから次に会ったとき、ちゃんと言うよ。
生んでくれて、ありがとう、って。
今なら——本心で言える。
嵐が、泣き声に似ていなかった。
遠く——出雲の方角で、川が光った気がした。
夕日に照らされた、清い川。
——荒魂・了。
数年後。
出雲。
清い川の前に、若い神が立っていた。名前を大国主という。
老人が一本の剣を持ってきた。
「この地に残されていたものです。嵐の神が——置いていかれた」
十拳剣。欠けた刃。嵐の神が最後まで使い、天叢雲剣を抜いたときに欠けた剣。
大国主が手に取った。重かった。刃の欠けた部分に手を触れた。
——何かが、いた。
剣の中に。記憶のような、感覚のような、何かが。
嵐の残響。出雲を守った神の力の残滓。
大国主が川を見た。清い水が流れていた。
「……誰かが、いる」
呟いた。
川が光った。夕日に照らされて、光った。
——葦原記へ続く。
ご拝読いただきありがとうございました!
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