第17話 境界層観測ノート
全身が筋肉痛というバッドステータスを得てから数日、ようやく解除に成功した。
実に試練の多い毎日だった。
階段とは人類に対する悪意に満ちた段差の集合ではないかと、割と真剣に考えたくらいだ。
自宅の階段が絶壁に見えたよ。
あれからすぐに週末に入ったから、自宅で休養に努めることができたのは幸いだった。
「あーちゃん、身体だいじょうぶ? ぎこちなさがまだあるよ」
週明け放課後の帰り道、動きの固い私を美宙が気遣ってくれる。
まだ、完全復調とは言い難いので、あれから境界層には入ってない。
今日も入る予定はない。
「筋肉には超回復という特性があってね。ただ、ちょっと強くなりすぎて、まだ感覚が追い付かないんだ」
「美宙、あーちゃんが壊れた」
「いつものことだよ、杏奈」
「そこは、へー! じゃないの?!」
「たぶん、あーちゃんの脳内がバトル漫画に染まってるだけ」
なぜ分かったし。
ベッドの上から動くのも億劫だったから、何かいいヒントはないかな、とネット漫画を読み漁ってただけだ。
あんまり参考にならなかったけど。
炭酸抜きコーラが良いことだけは学んだ。
あと別に週末ずっと漫画を読んでただけでもないし。
あの日の戦いの最後、隔獣は私を見失った。
隔獣は動くルミナ反応を追っている、という仮説を立てた。
実験結果は仮説を否定しなかったが、仮説が正しいかはまだ検証の余地が大きい。
もうひとつ、ヴァイセ・ブリューテの戦闘ログ映像にも気になる点があった。
ログのほぼ最後、セラ様がアストラ・クラウンを撃つ直前、ヴァイセ・ブリューテの追跡カメラは、私と隔獣がいた大通りを捉えていた。
雨による強いノイズが散る映像の中、隔獣の黒いシルエットはノイズに紛れつつも映っているが、私の姿は映っていなかった。
私のルミナ反応が小さすぎて、背景のオブジェクトに紛れてしまった、と考えるとしっくりくる。
隔獣はなぜ、強いルミナに反応するのか。
境界層の戦闘ログを記録するカメラはどういう原理なのか。
鍵はすべてルミナ、というよりもルミナの元になるエネルギーのようなものにある気がする。
昔、魔法少女に関する考察をあれこれとネットの無料ノートに書き散らしてた時に、そんなことを考えていた記憶がうっすらある。
コソコソ活動を始める前、まだ、ただの魔法少女ファンだった頃だ。
ノートのタイトル、なんて名前を付けてたかな。確か、境界層……
「あーちゃん、境界層観測ノート、知ってる?」
「そうそれ!」
それぇ?!?!
「お、さすが考察勢あーちゃん、知ってるんだ。今、ネットですごい話題になってるよ」
「へ? え? あれが?」
まって、まって、待って杏奈。
私の思考が追いつかない!
「そう! 一般ファンには馴染みがないけど、考察勢の間では必携入門書なんだってね。境界層の歪みとか、魔法の射程とか、セラ様のアストラ・クラウン考察とか、私も見てみたけど文字ばっかりでダメだったや。でも内容をよく読んだ人によると、スター・ホワイトの狙撃を理論的に裏付けられる情報がいっぱいあって、スター・ホワイトは、このノートを読み込んで狙撃魔法に至ったっていう説が――」
多い、多い、情報量が多い!
考察勢の入門書って何?! 初耳なんですけど?!
文字ばっかり言うな! 小学生がきれいな図解とか無理だから!
そしてまたスター・ホワイトか!
大人気だな! スター・ホワイトさん!
「――なんだけど、なんか難しい理論の基礎も書いてあるから、作者本人がスター・ホワイトである可能性はほぼ否定されてて、ノートは研究所の研究員が匿名で書いてた説が有力なんだって」
それなら良し。
いや良くないよ! 何も解決してないよ!
なんでそんなご大層な、秘密の匿名メモみたいになってるんだ。
難しい理論の基礎ってなんだ。そんなの書いた憶えないぞ。
「というのも、黒霧虚災の発生を予見してるらしい記述を最後に更新が止まってて、それもあって、ネットでは予言ノートってトレンドになってるんだよ」
おかわりの情報が重い!!!
黒霧虚災――
二年ちょっと前に起きた、忌まわしい隔獣災害だ。
境界層の瘴気濃度が上昇し、目に見える黒い霧となったその中から、それまでの常識を外れる強大な隔獣とともに、溢れるようにたくさんの隔獣が同時発生した。
現実世界への被害こそ少なかったけれど、始まりの魔法少女と言われたシャイニースターをはじめ、当時のトップ層の魔法少女のほとんどが負傷引退に追い込まれ、境界層から帰ってこなかった魔法少女も少なくなかった。
あの時の衝撃と喪失感は忘れられない。
黒霧は、魔法少女ファンの間では禁句も同然だ。
「なんで」
なんでまた、黒霧虚災がネットで話題なんかになってるんだ。
「なんかね、特災庁の発表データを分析してるファンが隔獣の発生に偏りが出始めてる、てSNSに書き込んで」
――最近、境界層ログの公開数が少ない。
――隔獣が減っているならいいけど、そうでないなら、良くない兆候かもしれない。
不意に、自分が書いたノートの一節を思い出す。
あの直後に、黒霧が起きた。
まさか、同じことが、起きる?
いや、先走るな。
思い込みはダメだ。データを見ないと――
「あーちゃん」
「ん、ん?! な、何、杏奈」
「ごめん、また無神経だったかも」
「ぅぇ? なんで。杏奈、私は別にイヤな思いはしてないし、ただちょっとノートの内容を思い出して」
「それ。最近、美宙の言うことが分かってきた」
「でしょ?」
う、なんか、杏奈がすごく申し訳なさそうな顔になってる。
違うの、杏奈。
「あーちゃん、触れてほしくない場所に近づくと、あーちゃんらしくなくなる。最初は違いが分からなかったけど、なんかあーちゃんの周りにうっすらと薄い膜みたいなのがある感じになる」
「え……」
「だから、ごめん、無意識にあーちゃんの地雷踏んだ」
……認識阻害が発動した?
いや、止めよう。今は考えるときじゃない。
杏奈に、ちゃんと向き合う時間だ。
「杏奈。私も、何が触れたのか自分でもわからないから、説明できない」
ほんとうにわからない。けれど。
「だけど、何か引っかかったような気はするから、ちゃんと考えて、杏奈にちゃんと説明できるようにする」
「あーちゃん」
「杏奈、だから、ちょっと待ってて」
「わかった!」
ぎゅ、と手が握られる。
美宙だ。
美宙が杏奈と私の手を握る。三人がつながる。
「よし! ナイン・ナインのコンビニスイーツ買って食べよ!」
「美宙、ナイスアイデア! 賛成!」
美宙からの珍しい誘い。杏奈がぱっと笑う。私も全力で乗る。
「私も賛成ー! 限定シュークリームが気になってた! 抹茶味のやつ!」
胸のうちに広がる、ザワザワしたものは消えないけど。
二人がいれば大丈夫。
私は、私にできることをやる。
少しだけ、何かがカチリと嵌まった気がした。




