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第6話:調停者の冷徹な眼光(※ただの逆光)

胃の奥に放り込んだ特注の丸薬が、じわじわと苦い粉末となって喉の奥へ逆流してくるのを感じながら、セリア・クローデルは冷え切った唇を固く引き結んでいた。


呼吸を整えようとすればするほど、肺腑に吸い込まれる外気が冷たく刺さり、胸の内で心臓が狂ったような早鐘を打つ。

岩陰に伏せている十名の特務警備隊員たちは、誰一人として身動きを取っていなかった。王国正規軍の中でも、過酷な辺境任務と対魔獣戦闘を幾度も潜り抜けてきた選りすぐりの精鋭たちだ。彼らが身に纏うのは、周囲の苔や岩肌に溶け込む特殊な迷彩草木染めのクローク。足音を殺す革底のブーツに、自らの呼吸音と体熱を極限まで遮断する隠密用の魔導外套。

本来ならば、熟練の猟師であっても十歩手前まで近づかなければその存在に気づけない、完璧な潜伏陣形だった。


だが、その自負と訓練の成果が、目の前に広がる圧倒的な「異常」を前にして、まるで砂上の楼閣のように脆く崩れ去ろうとしていた。


遠眼鏡の真鍮の筒先を握るセリアの指先は、かじかんで感覚を失いかけていた。

百五十メートル先、木漏れ日の落ちる平屋の庭先。

先ほどまで繰り広げられていたのは、神話に語られる終末の巨獣――霜狼神フェンリルが、無防備に純白の腹を晒し、薄汚れた小娘の振るう針ブラシの前に蕩けきった表情で涎を垂らすという、世にも奇怪な調伏の儀式だった。

娘が丸めた自らの抜け毛の塊を額に乗せられ、巨獣は満足げに喉を鳴らし、地響きのような低周波を森の奥深くまで響かせていた。


(終わった……のか……?)


セリアは乾いた喉を鳴らした。

娘はスリッカーブラシを縁側の端に置き、自らの生成りのエプロンについた白い毛を両手でパンパンと払い落とした。

そして、何気ない所作で、すらりと縁側から立ち上がったのだ。


その瞬間、世界の色彩が一変した。


西の空、霊峰の稜線へと沈みかけていた夕陽が、燃え盛るような朱赤の光を一気に山裾へと投げかけてきたのだ。

深く傾いた秋の陽光は、強烈な逆光となって平屋の背後から斜めに差し込み、雑木林の木々の影を長く、鋭く引き伸ばす。

縁の上に直立した娘の姿は、その凄まじい光を背中に背負い、一瞬にして輪郭を漆黒の濃い影へと変貌させた。

逆光に呑まれ、彼女の表情は一切読み取ることができない。ただ、燃えるような夕暮れの朱色の中に、すらりと立つ細身の黒い影だけが鮮烈に浮き上がっていた。


そして――。


影となった娘が、すうっと、音もなく顔を上げた。

その顔の向きは、寸分の狂いもなく、セリアやギルバートたちが身を潜めている「この巨岩の茂み」の方向を正確に指し示していた。


ヒュッ、とセリアの喉から空気が漏れた。


(……目が、合った……!?)


ありえない。あってはならない。

距離は優に百五十メートル。しかもこちらは鬱蒼とした木立ちと分厚い笹藪の奥、巨大な苔岩の陰に完全に身を沈め、魔力遮断の外套を頭から被っているのだ。人間の肉眼で捉えられるはずがない。

だが、娘の視線は迷うことなく、セリアの遠眼鏡のレンズの真正面を貫いていた。


逆光の影の中で、娘の双眸がわずかに細められた。

夕陽の反射光を浴びて、その瞳だけがギラリと冷徹な光を帯びて輝いたように見えた。

小首をわずかに傾げ、無言のまま、こちらをじっと見据えている。

怒りも、驚きも、恐怖もない。

ただ、そこにいる羽虫の数を数えるかのような、あるいは屠殺場に並べられた家畜の肉付きを確かめるかのような――底知れぬ冷淡さと無慈悲さを孕んだ、絶対的な観察の眼光。


(見えている……! 隠密結界も、迷彩外套も、私たちの存在のすべてが筒抜けだ……! 最初から、森に入った瞬間から……いや、私たちが息を吸ったその瞬間から、すべてを把握した上で泳がされていたんだ……ッ!)


セリアの全身の毛穴がキュッと収縮し、背筋を伝って滝のような冷汗が流れ落ちた。

息ができない。心臓を直接、冷たい鋼の指先で握り潰されたかのような猛烈な圧迫感。

隣に伏せているギルバートを見れば、歴戦の剛勇を誇る大男が、唇を青紫色に変色させ、顎をガチガチと小刻みに震わせていた。額から滴る脂汗が、目の縁に溜まっても瞬き一つできないでいる。


だが――神々の調停者として恐れ慄かれているその張本人、マノン・デュランの胸中は、およそ彼らの想像とは銀河の果てほどにかけ離れていた。


(うーん、眩しい……)


マノンは眉間にぎゅっと皺を寄せ、目を細めて西の山裾を眺めていた。

秋の夕暮れは釣瓶落としというが、山の夕陽は王都よりも一段と鋭く、目に突き刺さる。

縁側でタマのブラッシングを終えて立ち上がったものの、強烈な西日に視界を焼かれ、思わず遠くの木立に焦点を合わせて目を凝らしていただけだった。


(あの大きな苔むした岩の周り……枯れ枝がたくさん落ちてそうね。杉の枯れ葉も溜まっていそうだし、あそこならいい焚きつけが拾えそうだわ。明日の朝、パンを焼く前にちょっと籠を持って拾いに行こうかしら)


マノンにとって、その視線の先にあるのは「明日の朝食を美味しく焼くための燃料」でしかなかった。

茂みの奥で、屈強な男たちが死の恐怖に失禁寸前になっているなど、夢にも思っていない。

「風が出てきたわねぇ。日が落ちると一気に冷えそう」

マノンは小さく呟き、夕風に乱れた前髪を手で軽く払った。


しかし、その何気ない仕草が、岩陰の潜伏部隊にとっては「死刑宣告の合図」にしか見えなかった。


娘の背後で、異変が起きた。

縁側の前で腹を晒し、頭に毛玉を乗せて間抜けに転がっていた白銀の巨獣――霜狼神フェンリルが、スッと音もなく起き上がったのだ。


先ほどまでの、涎を垂らして前足を宙でフミフミさせていた愛嬌など、微塵も残っていなかった。

頭の上の毛玉がポトリと草の上に落ちる。

巨獣は四肢を力強く踏みしめ、背中の筋肉をしなやかに隆起させると、ゆっくりと首をもたげた。

その黄金の双眸が、マノンの視線をなぞるようにして、森の岩陰へと向けられる。


――ピキ、ピキピキピキッ……!


庭の草の葉が、瞬時に白銀の結晶へと変わっていく音が響いた。

大気が凍りつく。

フェンリルの足元から、目に見えるほどの白い冷気霧が地を這うように広がり、縁側の木組みを、庭の飛び石を、柊の生垣を、瞬く間に絶対零度の氷膜でコーティングしていく。

そして、その顎がわずかに引かれ、漆黒の唇の隙間から、氷の刃を何千枚も重ね合わせたような殺気が放たれた。


『我が主との平穏なる時間を、これ以上汚すか、羽虫ども』


言葉など発していない。

だが、その眼光に込められた神話の意志が、魔力波となって森の空間を直接叩き割った。

百五十メートル離れた岩陰に、突如として極北の猛吹雪が吹き荒れたかのような錯覚が走る。

セリアの被る外套の表面に、パキパキと音を立てて白い霜が這い上がってきた。手袋越しに握る遠眼鏡の金属筒が、凍傷を起こしそうなほど激しく冷え込み、指の皮膚が張り付いて引き剥がせなくなる。


「ひ……っ」

後方に伏せていた若い隊員が、耐えきれずに喉の奥で息を詰まらせた。

歯の根が合わず、カタカタと激しい音を立てそうになるのを、自らの拳を口に押し込んで必死に耐えている。誰もが理解していた。あの一撃。あの巨獣が一歩でも前へ踏み出し、息を吐き出せば、この森ごと自分たちは瞬時に永遠の氷像へと変えられるのだと。


少女は冷徹に侵入者を捕捉し、手飼いの神獣に「始末せよ」と無言の命を下したのだ――。

彼らの脳裏には、その残酷な確信しか存在しなかった。


「……退くぞ」


地を這うような、極限まで抑えられた掠れ声が響いた。

ギルバート隊長だった。

歴戦の騎士の顔面は、土気色を通り越して青白く硬直していた。首筋には血管が怒張し、額からは凍りついた冷汗が粒となってポロポロと零れ落ちている。

ギルバートは決して立ち上がらず、岩肌に腹を擦り付けたまま、背後の隊員たちへ向けて必死に手信号を送った。


『全軍、後退』

『音を立てるな』

『魔力を漏らすな』

『刺激するな』


「隊長……っ」

セリアが震える瞳でギルバートを見つめる。ギルバートはセリアの肩を万力のような力で掴み、血走った目を剥いて、声を出さずに唇だけで命じた。


(退け。……あれは、最後通牒だ)


ギルバートの胸中は、絶望と紙一重の戦慄で満ちていた。

あの少女は、自分たちを殺そうと思えば、最初から一瞬で屠ることができたはずだ。

それを行わず、ただ冷徹に見下ろし、神獣の殺気を突きつけるだけに留めた。それは「これ以上踏み込めば塵も残さぬが、今すぐ立ち去るならば見逃してやる」という、至高の調停者による冷酷な慈悲に他ならない。

ここで意地を張れば、自分たちの命だけでなく、麓の領民すべての命が露と消える。


( crawl だ! 這え! 虫のように這って逃げろ……!)


ギルバートを先頭に、王国屈指の精鋭部隊が、地面に鼻先を擦り付けるようにして後退を始めた。

鎧が触れ合うかすかな金属音すら許されない。

肘と膝を泥にめり込ませ、小石が肉に食い込む痛みに耐えながら、尺取り虫のように一寸ずつ、一寸ずつ後方へと這いずっていく。

背中に突き刺さる、白銀の神獣の凍てつく視線。

もし小枝を一本でも「パキリ」と鳴らせば、その瞬間に背後から絶対零度の息吹が叩き込まれる。生きた心地など微塵もなかった。セリアは奥歯を砕けんばかりに噛み締め、涙と汗でぐしゃぐしゃになった顔を地面に向けながら、ただひたすらに土を掻いて後退を続けた。


***


「あら?」


縁側に立つマノンは、ふと首を傾げた。

夕陽を遮るように手を額にかざすと、先ほど目を留めた遠くの岩陰のあたりで、笹の葉や下草が「サササササッ」と不自然にざわめいていた。

まるで、大きな猪か何かが、地面を這いずるようにして慌てて山奥へ逃げていくような揺れ方だった。


「風かしら……? それとも、やっぱり野生の動物がいるのかしらね。笹がずいぶん激しく擦れ合っているわ」


マノンはふうと息を吐き、足元を見下ろした。

いつの間にか起き上がっていた白猫――タマが、森の方角をじっと見つめながら、ピンと耳を立てていた。

その姿はどこか凛々しく、野性味に溢れているようにも見えたが、マノンがその頭に優しく手を置いた瞬間、その気配は綺麗さっぱり霧散した。


「グルルゥ……?」

タマは甘えたように細い声を漏らし、マノンの手のひらに自分からすり寄ってきた。

マノンが頭を撫でてやると、先ほど落とした毛玉を前足でちょいちょいと突っつき、まるで鞠遊びをする子猫のように転がして遊び始めている。


「ふふ、やっぱり山の天気は変わりやすいわね。急に風が冷たくなってきたわ」


マノンは自分の腕をさすりながら、空を見上げた。

夕陽はすっかり山の向こうへと沈み、空の端から濃紺の夜が忍び寄ってきている。

木々を揺らす風の音を聞きながら、マノンは縁側の雨戸に手をかけた。


「タマ、もうお家に入りましょう。暗くなったら危ないし、今夜は少し冷え込みそうだから、雨戸をしっかり閉めないとね」


「にゃーん」


神獣フェンリルは、千年以上発したことのないような愛らしい猫撫で声をあげ、マノンの足元に擦り寄りながら、開け放たれた引き戸の中へと素直に小走りで滑り込んでいった。

ガラガラ、ピシャリ。

マノンは手際よく雨戸を滑り込ませ、閂(かんぬき)をしっかりと下ろした。


***


「ハッ……ハッ……、ゲホッ、ゲホッ……!」


古民家から直線距離で五百メートル以上離れ、馬を繋いでいた街道の窪地まで辿り着いた時、セリアはその場に崩れ落ちるように膝をついた。

泥まみれの軍用手袋を脱ぎ捨て、荒い呼吸とともに地面に手を突き、激しく咳き込む。

見れば、隊員たちの半数がその場にへたり込み、壁のように太い木に背中を預けて天を仰いでいた。誰もが全身泥と枯葉だらけで、唇は青白く、まるで地獄の底から這い上がってきた亡者のような有様だった。


「全員……いるか……?」

ギルバートが、掠れきった声で点呼を取る。

「は、はい……十名、全員……五体満足で……生還しました……」

セリアは震える声で応じながら、自らの両手を見つめた。

手袋の下の指先は、フェンリルの冷気にあてられて真っ白に変色し、じんじんと痛烈な痺れを発していた。幻覚でも夢でもない。自分たちは、あの災厄の懐元に足を踏み入れ、そして奇跡的に生きて帰ってきたのだ。


「隊長……あの娘は……」

「言うな」

ギルバートは荒々しく手で遮り、馬の鞍に手をかけて無理やり巨躯を押し上げた。

その顔には、歴戦の指揮官としての誇りなど欠片も残っていなかった。あるのは、ただ底知れぬ存在に対する純粋な畏怖と、背筋を焼き尽くす焦燥感だけだった。


「急ぎ領都へ戻るぞ。……ローラン様に、至急の謁見を申し出る」

「領主代行様に……? なんと報告されるのですか……?」


セリアの問いに、ギルバートは苦い唾を飲み込み、重々しく首を振った。


「討伐軍など絶対に動かすな、とだ。……あれは人間がどうこうできる相手ではない。機嫌を損ねれば、この領地どころか、王国全土が一瞬で消し飛ぶぞ。……我々が生き延びる道は、ただ一つしかない」


ギルバートは馬に跨り、手綱を強く握りしめた。

その双眸に宿るのは、戦士の闘志ではなく、絶対強者の前に平伏する者の、必死の覚悟だった。


「……全力で、あのお方の機嫌を取るのだ」

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