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第7話:生き延びるための最善策は、お中元でした

フォレスト辺境伯領の首府、領都フォレストの中央にそびえ立つ領主館の最上階。

日付が変わり、深夜の静寂が石造りの廊下を支配する時間帯であっても、領主代行執務室の窓からは淡い魔導ランプの光が漏れ続けていた。


部屋の主であるローラン・ド・フォレストは、上質な羊皮紙で仕立てられた領内収支決算書から目を離すことなく、羽根ペンの先で器用に数字の誤りを訂正していた。二十七歳という若さで病床の父に代わり広大な辺境領の実務を一手に担う彼は、無駄のない所作と怜悧な頭脳で知られる青年貴族だ。仕立ての良い濃紺の執務服に乱れはなく、細縁の銀フレームの眼鏡の奥にある藍色の瞳は、氷のように理知的で、いかなる動揺も寄せ付けない。


だが、その張り詰めた静寂は、無作法極まりない足音によって乱暴に破られた。


ドタドタドタッ、と分厚い絨毯を踏み荒らす湿った軍靴の音。

ノックの音すら待たずに、執務室の重厚な樫の扉が悲鳴を上げて左右に開け放たれた。


「――ローラン様ッ!」


飛び込んできた人影を見た瞬間、ローランの手元で羽根ペンがピシリと止まった。

現れたのは、辺境警備隊隊長のギルバート・アルノーと、副隊長のセリア・クローデルだった。

だが、その姿は普段の威風堂々たる王国騎士のそれとはかけ離れていた。

全身は泥と枯葉まみれで、防寒外套の裾はカチカチに凍りついて白い粉を吹いている。何より異様だったのは二人の顔色だった。百戦錬磨を誇る歴戦の大男ギルバートの顔面は血の気を失って土気色に沈み、その後ろに立つセリアに至っては、幽霊でも見たかのように瞳の焦点を彷徨わせ、胸ポケットのあたりを握りしめて小刻みに過呼吸を繰り返していた。


「ギルバート隊長、セリア副隊長。……深夜の非常招集とはいえ、その見苦しい身なりは何事ですか。それに、山林の定時哨戒から戻るにしては遅すぎる」

ローランは感情の起伏を感じさせない冷ややかな声で窘め、眼鏡の位置を指先で直した。

「衣服の凍結……それに、探知儀の魔力過負荷警報の件ですね。先ほど第一詰所から簡易報告が入りました。霊峰の境界付近で大規模な冷気異常が観測されたと。野良の氷結ワイバーンでも迷い込んできたのですか?」


「……ワイバーンなどという、可愛らしいトカゲの話ではありません」


ギルバートは掠れた声で絞り出し、よろめく足取りで執務机の前に詰め寄った。

その巨躯から発せられているのは、疲労の熱気ではなく、骨の髄まで芯から凍りついた本物の「冷気」だった。ギルバートが執務机に手をついた瞬間、黒檀の天板の表面に、パキパキと薄い霜の花が広がっていく。

ローランの眉が、わずかにピクリと跳ね上がった。


「失礼を承知で、執務室の完全遮音結界の起動を願います。……これより申し上げることは、一言たりとも外部の密偵や民に漏れてはなりません。一文字でも漏れれば、この領都は明日にはパニックで崩壊します」

ギルバートの尋常ならざる気迫に、ローランは沈黙のまま机の引き出しから小さな魔導水晶を取り出し、机の隅の起動陣へ置いた。

キィン、と高い反響音が室内に響き、壁と扉、窓の周囲に不可視の遮音防壁が張り巡らされる。


「……結界を起動しました。何があったのです」


ローランの問いに、ギルバートは奥歯をギリリと噛み鳴らし、血走った眼を主の顔へと突き刺した。


「極北の神獣……『霜狼神フェンリル』が、我が領内の山裾に顕現いたしました」


静寂が落ちた。

ローランは瞬きを一つもしないまま、無言でギルバートを見つめ返した。

数秒の沈黙ののち、ローランは静かに嘆息し、手元の書類をトントンと机に揃えた。

「ギルバート。私は普段、あなたを優秀な武官として高く評価しています。ですが、寝言を言うにしては時間帯が不適切極まりない。フェンリルといえば、神話の時代に永久凍土へ封じられたとされる伝説上の存在。それがなぜ、南方のこの温暖な山裾に現れるのです。冷気属性の古代魔獣の誤認でしょう」


「誤認であってくれたら、俺だってどれほど救われたか……!」

ギルバートは悲痛な怒号を上げた。その目には、大の大人が本気で絶望に呑み込まれた時の涙すら滲んでいた。

「純白の神毛、放たれる絶対零度の魔力波長、そして空間そのものを凍結させる神威。古文書の記述と寸分の狂いもありません! 奴が通過した森の木々は、緑色のまま芯まで完全凍結して破裂していました! そして――何より恐ろしいのは、その先です」


「その先?」

ローランの冷徹な仮面の下に、わずかな警戒の皺が寄る。

「フェンリルが山裾で暴れ、村を焼き……いえ、凍らせたとでも?」


「違います。暴れてなどいない。……あいつは、大人しく飼われていました」


「…………は?」

知性派として常に整然とした論理を組み立ててきたローランの口から、およそ貴族らしからぬ気の抜けた声が零れ落ちた。

「飼われていた? 誰が。神獣を?」


「人間の小娘です」

後ろから、絞り出すようなセリアの声が重なった。

セリアは幽霊のような足取りで一歩前へ進み出ると、自らの遠眼鏡の記録水晶を震える指で執務机の上に置いた。

「山裾の廃屋……以前、王都の人間が買い取ったというあの古民家の庭先で、私たちは目撃しました。フェンリルが、その小娘に金属の針ブラシで腹毛を梳かれ、仰向けになって涎を垂らし、猫のように喉を鳴らして甘えていたのです……ッ!」


「何を……馬鹿な……」

ローランは呆然と水晶を手に取り、記録された思念映像を再生した。

空中に浮かび上がった光の像。

そこには、紛れもなく神話の威容を誇る白銀の巨獣が、素朴なワンピースを着た小柄な栗色の髪の娘の足元で、無防備極まりない『ヘソ天』を晒している姿が映し出されていた。

娘が容赦なくブラシをガシガシと叩き込むたびに、神獣の前足が宙をフミフミと掻き、快楽に蕩けきった表情を浮かべている。さらには、娘が自らの手で丸めた神獣の抜け毛玉を頭の上に乗せ、神獣がそれを誇らしげに掲げながら大地を震わせるほどの大音量で喉を鳴らしている光景までが、鮮明に記録されていた。


「ッ……!?」

ローランの息が詰まった。

冷徹な思考回路が、瞬時にショートを起こす。

映像はさらに続く。夕暮れ時、娘が立ち上がり、逆光の中で冷酷な眼光を森の潜伏部隊へと突き刺す場面。そして、それに呼応した神獣が立ち上がり、森を凍結させる殺気の波動を放つ瞬間――。


「……あのお方は、我々の潜伏を最初から完全に察知していました」

ギルバートが重々しく告げる。

「距離は百五十メートル、隠密結界も迷彩外套も完全に無効化されていました。あのお方は我々を一瞥し、神獣に命じて殺気を放たせた。あれは明白な最後通牒です。『これ以上踏み込めば消す、だが立ち去るなら見逃してやる』という、至高の調停者による警告に他なりません!」


ローランは机に両肘をつき、指を組んで口元を覆った。

執務室に、重苦しい沈黙が流れる。

頭脳派として知られるローランの頭の中で、膨大な情報と計算が猛烈な速度で火花を散らしていた。


(……ありえない。だが、証拠が揃いすぎている。神獣フェンリルを使役する謎の少女。王都から移住してきたと記録にあるが、それは世を忍ぶ仮の姿か? 古代の契約魔術を受け継ぐ秘匿一族の末裔か、あるいは人外の存在が人の皮を被っているのか……?)


「ローラン様」

セリアが恐る恐る口を開いた。

「……いかがなさいますか。直ちに領内全軍を動員し、王都の騎士団にも至急の応援を要請して、討伐軍を組織すべきでしょうか……?」


「愚か者が」

ローランは即座に、鋭く切り捨てた。

「討伐軍など動かした瞬間に、我がフォレスト領は滅亡する」


「なっ……」


「冷静に戦力差を計算しなさい」

ローランは眼鏡を外し、疲れたように目頭を指先で押さえた。

「相手は一頭で古代の王国を凍土に変えた神獣フェンリルだ。我が領の常備軍は三千、全軍を投入したところで何分持ち堪えられると思う? 王都へ伝令を送り、中央の魔導師団が到着するまでに最短で二週間。その間に神獣が本気で一咆哮すれば、この領都どころか王国全土に数十年単位の異常寒波が押し寄せ、作物は全滅、数百万人が餓死と凍死で消え去る」


ローランの冷酷なまでの現実的な試算に、ギルバートとセリアは息を呑んだ。


「それに、問題は神獣だけではない。あの小娘――いや、『調停者』だ」

ローランの眼差しが、再び空中の映像へと向けられる。

「神獣を力で屈服させるなど、竜を素手で引き裂くよりも難しい。それを、あの少女はあんな……まるで庭の草木を手入れするかのような気安さで、完全に手懐けている。調停者の魔力、精神支配の深さは計り知れない。もし軍を差し向け、彼女の機嫌を損ねて敵と認識されたらどうなる?」


「……領地ごと、消滅しますな」

ギルバートが乾いた声で答えた。


「そうだ。勝率など万に一つもない。戦うという選択肢そのものが、領主一族として絶対に選んではならない自殺行為だ」

ローランは立ち上がり、執務室の窓辺へと歩み寄った。

遠く、夜の闇に沈む北の山裾を見つめる。あの静寂の森のどこかに、世界を終わらせる力を持つ爆弾が、素朴な古民家の形をして鎮座しているのだ。


「戦って勝てないのなら、取るべき道は一つしかない」

ローランは振り返り、凛とした声で命じた。

「――外交だ。徹底的な、ご機嫌取り外交を行う」


「ご、ご機嫌取り……でありますか?」

ギルバートが目を白黒させた。歴戦の武闘派にとって、もっとも馴染みの薄い単語だったからだ。


「敵意がないことを示し、あのお方の平穏な隠遁生活を全力で支えるのだ。彼女の望むものをすべて無償で提供し、『この土地の住人は無害で、極めて有益である』と認識させる。街が一つ消し飛ぶ損害に比べれば、いくら財宝を積もうが、最高級の物資を差し出そうが、圧倒的に安い投資だ」


「し、しかしローラン様、あのお方に直接使者を送れば、またフェンリルの殺気で消し炭……いえ、凍らされる危険が……」

セリアが胃を押さえながら震え声で進言する。


「直接会う必要はない。刺激してはならないのだからな」

ローランの口元に、冷徹にして必死の策謀の笑みが浮かんだ。

「彼女は山奥の平屋で、慎ましい生活を送っているように見える。ならば、生活に必要な物資を、気づかれぬように届ければよい。……いわば、領主からの最高級の『お中元』だ」


「お、お中元……」


「すぐに領主館の地下特級蔵を開けろ!」

ローランは机の上の鐘を激しく鳴らし、控えていた家令を呼びつけた。

「蔵にある物資の中から、平穏な食生活を支えるに相応しい極上品を選定する! ギルバート、セリア、お前たちも選定に立ち会え!」


***


深夜二時、領主館の最深部にある地下特級保管庫。

王族への献上品や、国家間の特級贈答品のみが収められるその冷暗所に、領主代行ローラン、警備隊長ギルバート、副隊長セリアの三名が足を踏み入れていた。


「これだ。まずは肉だ」

ギルバートが真っ先に指差したのは、樫の木樽に厳重に封印されていた巨大な肉塊だった。

「あのお方はフェンリルに茹でた肉を与えておられた。ならば、神獣の腹を満たす極上の肉が必要だ。これは北方高地で育った純血白毛牛の熟成干し肉。岩塩とハーブだけで半年間冷風乾燥させた、領内屈指の逸品だ」

「よろしい、採用だ」

ローランが即座に頷く。

「脂の質が極上で、火を通せば芳醇な出汁が出る。人間が食べても絶品だが、神獣の滋養にも最適だろう」


「野菜はこちらを!」

セリアが木箱の蓋を開けた。

「霊峰の清らかな雪解け水で育った、寒冷地特産の白カブと雪下人参です。泥つきのまま保管されていますが、皮を剥けば果物のように甘く、煮崩れしません。……調停者様は、スープを作っておられた様子でした。これなら喜んでいただけるはずです」

「素晴らしい。新鮮なカブを四つ、人参を五本詰めろ」


「そして、調味料だ」

ローラン自らが手に取ったのは、厳重な緩衝材に包まれた硝子瓶だった。

「王室御用達の南方直輸入、一番搾りのエキストラバージン・オリーブオイル。黄金色に澄み渡り、青い果実の香りがする至高の油だ。炒め物にも、パンにつけても極上の味になる。……これで粗末な食事に頭を悩ませることはなくなるはずだ」


特大の頑丈な杉木箱の中に、白毛牛の熟成干し肉の塊、泥つきの極上寒冷地野菜、そして黄金のオリーブオイルの瓶が、傷一つつかぬよう美しく敷き詰められていく。

箱の隅には、ローラン自らが筆を執り、上質な羊皮紙に達筆な流れるような文字で一筆添えた。


『平穏なる共存を祈念し、辺境警備隊より心ばかりの品を』


あえて領主の名を出さず、辺境の治安部隊からの「日頃の挨拶」という体裁をとる。深読みさせず、かつ敵意が一切ないことを示すための、ローラン渾身の外交文書だった。


「よし、梱包完了だ」

ローランは木箱の蓋を閉め、真鍮の金具を留めた。

そして、ギルバートの肩にずっしりと手を置く。その瞳には、戦場へ向かう特攻隊長を見送るかのような、重々しい覚悟が宿っていた。


「ギルバート隊長。作戦の成否は、お前の脚にかかっている」

「はっ……!」

「夜明け前、午前四時。あのお方がまだ寝静まっている時間を見計らい、山裾の古民家へ単身潜入せよ。決して足音を立てるな。魔力を爪の先ほども漏らすな。木箱を門柱の脇にそっと置き――置いた瞬間に、全力で後退しろ」


「は、ははっ! 玄関先に納品した瞬間、脱兎のごとく逃走いたします!」

歴戦の騎士団長が、お中元を置いて逃げるだけの作戦に、命がけの敬礼を返した。


「セリア、お前は後方で胃薬を準備しつつ退路を確保しろ。……失敗すれば、この領地は明日から氷河期だ。総員の武運を祈る」


「「ははっ!!」」


深夜の領主館から、王国最高峰の極上食材を詰め込んだ木箱を抱え、決死の形相を浮かべた大男が、闇夜の中へと静かに駆け出していった。

領地の存亡を賭けた、壮大にして過剰すぎる「お中元作戦」の幕が切って落とされたのだった。

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