第5話:【周囲視点】地獄の庭先、極楽の儀式
呼吸を止めろ。心臓の鼓動すら押し殺せ。
ギルバート・アルノーは、苔むした冷たい巨岩の角に額を押し当て、遠眼鏡の筒を握る右手に脂汗を滲ませていた。
百戦錬磨を自負する三十五年の人生の中で、これほどまでに死の気配を濃厚に感じた瞬間はなかった。
眼下の平屋の庭に佇むのは、神話の生ける天災、霜狼神フェンリル。
そしてその目前には、武器も防具も持たぬ無防備な人間の娘。
木製のお盆を抱え、呑気に庭へと降りてきたその姿は、虎の檻に自ら飛び込んだ仔羊にすら見えなかった。ただの、朝の家事に追われるどこにでもいる村娘だ。
(まずい……! 喰われる……!!)
ギルバートの奥歯がギリリと軋んだ。
助けに出るべきか。否、出たところで届かない。百五十メートルの距離を詰める前に、フェンリルの一振りで娘の首は胴体から跳ね飛ばされ、自分たちもろとも永久凍土の氷柱へと変えられるのが関の山だ。
歴戦の騎士として、無力な民が眼前で屠られるのをただ見殺しにしなければならない屈辱。握りしめた剣の鍔が、ギルバートの手のひらに痛いほど食い込んだ。
だが――事態は、ギルバートの予測した最悪の結末とは、全く異なる方向へと転がり始めた。
遠眼鏡の円形視界の中で、信じがたい光景が展開されていた。
娘が差し出した皿を、あの神話の巨獣が、まるで三日三晩飢えに苦しんだ野良犬のように貪り食ったのだ。
皿を舐め尽くし、さらに娘の手の指先を鼻先で小突き、エプロンの裾に巨大な頭をすり寄せていた。大気を震わせるほどの重低音が響いていたが、あれは威嚇の咆哮ではない。……喉を鳴らしているのか? 神獣が? 人間に甘えて?
(な……なんだ、あれは……? 幻術か? 俺はすでに奴の冷気にあてられて、都合の良い悪夢を見せられているのか……!?)
ギルバートは一度遠眼鏡を下ろし、荒々しく目を擦った。
横に潜むセリアを見る。副隊長の顔は紙のように白く、口元を両手で押さえて激しく震えていた。幻覚ではない。彼女も同じものを見ている。
ギルバートは再び遠眼鏡を目に押し当てた。
肉とミルクを平らげた白銀の巨獣は、娘の足元から離れようとしない。
娘は空になった皿を庭の片隅に置くと、トランクから何かを取り出すために一度平屋の中へ戻り――すぐに、縁側へと腰を下ろした。
足をぶらぶらと揺らし、秋の柔らかな日差しを浴びながら、手元にある「道具」を確かめている。
「隊長……あの娘の手にあるものは、一体……」
隣で同じく遠眼鏡を覗いていたセリアが、引きつった囁き声を漏らした。
「……わからん。だが、極めて凶悪な形状をしているぞ」
ギルバートの目が、娘の右手に握られた器具に釘付けになる。
木製の柄の先に、長方形の金属板。そしてその表面には、無数の細く鋭利な金属の針が、ぎっしりと剣山のように植え込まれていた。針の先端はわずかに「く」の字に曲がり、獲物の肉を効率よく引き裂くための返しのように見える。
光の加減で、金属の針先がチカチカと冷酷な銀色の光を放っている。
(古代の拷問具……!? いや、あれは魔導具か? 肉体を抉り、魂を縛るための呪具か……!?)
神獣を前にして、あの小娘は一切の動揺を見せていない。
それどころか、腰を下ろした縁側の床を「トントン」と掌で軽く叩き、まるで幼子を呼び寄せるかのような仕草をした。
来るわけがない。神話に謳われる孤高の頂、極北の王が、人間の指図などに従うはずがない。逆上したフェンリルが、その無礼な腕を食いちぎるに違いない――。
そう確信した瞬間、フェンリルが動いた。
のっそりと、巨大な前足を一歩踏み出す。
そして娘の足元まで歩み寄ると、前足の関節を脱力させ、ドサリと音を立てて草の上に横倒しになった。
それだけでは終わらなかった。
白銀の巨躯は、ゴロン、と仰向けに回転したのだ。
(なっ……!?)
ギルバートの息が止まった。
獣にとって、もっとも柔らかく、致命傷を受けやすい最大の急所――「腹部」。
その純白の腹を、惜しげもなく青空へ向けて完全にさらけ出していた。
四本のたくましい足は力なく宙へ投げ出され、前足の先は幽霊のように力なく曲がっている。首を限界まで後ろへ反らし、顎を突き出し、無防備の極致とも言える無様な姿勢。俗に言う『ヘソ天』の体勢を、あの世界を滅ぼす神獣が、平然と晒していた。
「ば、馬鹿な……神獣が腹を見せている……!? 急所を完全に開け渡しているぞ!? 降伏……いや、精神を屈服させられた者のポーズだ……!」
セリアの掠れた声に、ギルバートは冷汗を流しながら頷くことしかできない。
そして、地獄の儀式が始まった。
縁側に座る娘は、あのトゲトゲの針がついた金属器具――スリッカーブラシを振り上げると、何の躊躇もなく、フェンリルの分厚い胸毛の根元へと突き刺した。
ギルバートは思わず目を背けそうになった。肉が裂け、鮮血が噴き出す光景を幻視したからだ。
だが、響いた音は違っていた。
――ガシッ、ガシッ、ジョリジョリジョリッ。
静まり返った山裾に、硬質な金属針が密集した毛皮を力任せに梳き起こす、耳慣れない摩擦音が響き渡る。
娘の手首のスナップは、驚くほど手慣れていた。
手加減など微塵もない。全体重を乗せるようにして、金属の針を純白のアンダーコートの最深部まで食い込ませ、一気に手前へと引き抜く。
ガシガシ、ジョリジョリ。
皮膚を引っ掻き、肉を削ぎ落としかねない苛烈なストローク。並の魔獣であれば激痛に暴れ狂い、術者の喉笛を食いちぎっているはずの拷問のような所作。
しかし――神獣フェンリルの反応は、ギルバートの想像を絶する銀河の彼方にあった。
「グルルゥ……ッ、フガァァ……ン……ッ!」
フェンリルの喉から漏れ出たのは、悲鳴ではなかった。
空気を震わせる、重苦しくも蕩けきった吐息。
娘がブラシを「ガシガシ」と走らせるたびに、宙に投げ出されていたフェンリルの巨大な前足が、空を掴むようにフミフミ、フミフミとリズミカルに動き始めた。
首はさらに反り返り、両目はトロンと白目を剥きかけている。
あろうことか、鋼鉄の鎧すら噛み砕く神獣の黒い唇の端から、ツーーーッと透明な涎が垂れ落ち、草の葉を濡らしていた。
(涎を垂らしている……!? あの神獣フェンリルが、拷問を受けながら……快楽に溺れているだと……!?)
ガシッ、ジョリッ、ガシガシッ。
娘の容赦のない手技は止まらない。
胸毛から脇腹、そしてもっとも毛が密集している内股の付け根へと、金属ブラシが激しく打ち込まれる。
そのたびに、フェンリルの全身の筋肉が快感のあまりビクンと跳ね、後ろ足がピーンと突っ張り、つま先が痙攣するように震える。顎の下をブラシの先端でカッカッカッと小刻みに掻き立てられると、神獣は「そこ、そこだ」とでも言わんばかりに自ら首を傾け、娘の掌に全体重を預けて擦り寄せていた。
そして、風が吹いた。
ブラシの針に絡め取られた、膨大な量の純白のアンダーコート。
娘がブラシの背をトントンと縁側の角で叩き、針から抜け毛の塊を器用にベリベリと剥ぎ取るたび、細かな白銀の毛が秋の陽光の中に舞い散った。
キラキラと輝きながら風に乗り、庭一面に降り注ぐ白銀の綿毛。
遠眼鏡でそれを見たギルバートの背筋に、氷水が流れる。
あの抜け毛の一本一本から、尋常ならざる神聖な冷気魔力が陽炎のように立ち上っているのが見えたのだ。触れるだけで凍傷を負う神獣の体毛を、あの娘は素手で鷲掴みにし、掌の中でくるくると丸め始めている。
「もう、タマったら換毛期すごいわねぇ」
風に乗って、娘の軽やかな笑い声が届いた。
タマ。
いま、この娘は確かにそう言った。
世界を滅ぼす災厄の神獣に向かって、まるで日向ぼっこをしている近所の駄猫を呼ぶような、あまりにも軽薄で素朴な響きの名を投げつけたのだ。
娘は両手で器用に転がし、両手で抱えるほどの大きさになった巨大な純白の毛玉を作り上げると――あろうことか、それを仰向けになって涎を垂らしているフェンリルの頭の上に、ぽんと乗せた。
神獣の額に鎮座する、自らの抜け毛で作られた巨大な白い団子。
あまりにも間抜けで、あまりにも侮辱的な光景。
神獣の怒りが爆発する。今度こそ、不可侵の神威を冒された怒りで娘は消し炭ならぬ氷塊にされる――!
ギルバートが息を呑んだ、その刹那。
――ズズズズズズズズズズ……ッ!
大地が、小刻みに震動を始めた。
ギルバートたちが隠れている巨岩の苔がパラパラと落ち、足元の小石が跳ねる。
地震か!? いや、違う!
震源は、あの平屋の庭先だ。
頭の上に毛玉を乗せられたフェンリルが、怒り狂うどころか、細く引き絞った黄金の瞳をさらに蕩けさせ、喉の奥を全力で鳴らしていたのだ。
「グルルルルル……ゴロゴロゴロゴロ……ッ!」
神獣の『喉鳴らし』。
それは猫が極上の幸福を感じた時に発する音の、神話級スケールだった。
重低音の振動波が地面を伝わり、百五十メートル離れたギルバートたちの骨髄を激しく揺さぶる。
フェンリルは頭の上の毛玉を落とさないよう、妙に行儀よく首を固定したまま、前足で宙をフミフミと掻き続け、至福の表情で目を細めていた。
娘はその無防備な鼻先を人差し指でツンと小突き、「ふふ、似合うわよ」と呑気に微笑んでいる。
カラン。
乾いた音がして、ギルバートの手から遠眼鏡が滑り落ちそうになった。
慌てて掴み直したが、目の前の光景を理解することを、彼の歴戦の脳髄が完全に拒絶していた。
「セリア……」
ギルバートは、掠れた、力のない声で隣の副隊長を呼んだ。
「み、見たか……? あれは……古代の拷問か? 神獣の肉体を極限まで痛めつけ、精神を破壊して廃人に追い込む禁忌の儀式なのか……?」
「隊長……」
「いや、違うな……。あれは調伏だ。魂の底から服従させ、絶対の忠誠を誓わせるための、魔女の洗脳術だ……! あの小娘、いったい何者だ!? 神獣をあんな……あんな、腑抜けの毛玉製造機に変えてしまうなど……どんな悪魔と契約すればあんな真似ができるんだ……ッ!?」
武闘派として鳴らした大男が、岩陰でガタガタと膝を震わせ、蒼白な顔で脂汗を垂れ流している。
その隣で、副隊長セリア・クローデルは、すでに遠眼鏡を胸元に戻していた。
彼女のヘーゼル色の瞳は完全に光を失い、焦点が合っていなかった。ただ、自らの胸ポケットに手を突っ込み、紙包みを取り出している。
「隊長」
「な、なんだセリア……何か対抗策の魔導具でも見つけたか……!?」
「いえ。……私の胃薬です」
セリアは震える手で、茶色い丸薬が二粒入った紙包みを、ギルバートの目の前に差し出した。
「領都の腕利き薬師に特注した、非常によく効くやつです。……隊長に、半分お譲りします」
「セリア……」
「見なかったことにしましょう、隊長。私たちは何も見ていません。あれはただの……ちょっと毛並みの良い、大きな白い犬です。そう報告書に書きましょう。でなければ、私たちの理性が持ちません……」
セリアの瞳から、ツーと一筋の涙が零れ落ちた。
生真面目な彼女の常識は、たった数分のあいだに粉々に粉砕され、二度と元には戻らない領域まで踏み越えてしまっていた。
ギルバートは差し出された胃薬を震える指で受け取り、水もなしに口の中へ放り込んで噛み砕いた。
強烈な苦味が舌の上に広がったが、目の前の庭で繰り広げられている『神話の崩壊』の光景に比べれば、その苦味など微風のようなものだった。
遠くの庭先では、娘が立ち上がり、毛玉だらけになったエプロンをパンパンと叩いていた。
そして――ふと、娘が視線を巡らせた。
その瞳が、ギルバートたちが潜む、この岩陰の方向へと真っ直ぐに向けられたように見えた。
ギルバートの全身の毛穴が、一瞬で収縮した。
息が、止まる。
夕日に背を押された娘の姿が、逆光の中で黒い影となり、その瞳だけがギラリと冷酷に光ったように見えた。
(見られた……ッ!?)
ギルバートの背筋に、今度こそ本物の絶望が突き刺さった。




