第4話:【周囲視点】白銀の災厄、森を越えて
ジリリリリリリリリリリリッ――!
静まり返っていたフォレスト辺境領警備隊第一詰所の執務室に、鼓膜を劈くような警報鐘の音が乱打された。
石造りの頑丈な壁を震わせ、天井の梁に吊るされたランプが激しく揺れる。
「な、なんだ!? 火事か!?」
「違う、この音は――中央魔導盤の緊急遮断警報だ!」
雑多な書類の整理に追われていた隊員たちが一斉に椅子を蹴立てて立ち上がった。
副隊長であるセリア・クローデルは、手元にあったインク壺を反射的に押さえ、乱れそうになる青灰色の短髪を片手で払った。二十六歳という若さで副隊長の重責を担う彼女の胃は、この瞬間、冷水を一気に流し込まれたようにキリキリと引き絞られた。嫌な予感しかしない。彼女の鋭いヘーゼル色の双眸が、司令台の中央に据えられた巨大な魔導盤へと据えられる。
部屋の中央に鎮座する、真鍮と青銅で組み上げられた『広域魔力探知儀』。
普段ならば、山林に棲む猪や角鹿、せいぜい低ランクのゴブリンの群れを示す淡い青色の光が点滅しているだけの盤面が、いまや狂乱の様相を呈していた。
文字盤の針が振り切れ、甲高い金属音を立てて火花を散らしている。盤面の中央から同心円状に広がる刻印が、見たこともない禍々しい白銀色に発光し、ガラスのカバーの内側にびっしりと霜が張り付いていく。
「計測不能……!? ば、馬鹿な、感知限界は第四種災害指定魔獣の三倍に設定されているはずだぞ!」
「室温が下がっている! 魔法陣が凍りついているぞ、早く遮断弁を落とせ!」
担当の術士が悲鳴のような声を上げ、氷のように冷え切ったレバーを両手で引く。
バチンッ、と分厚い火花が爆ぜ、魔導盤の水晶球にピシリと亀裂が入った。室内の気温は、ものの数十秒で初冬の早朝並みにまで急降下していた。吐き出す息が、白く濁って宙を漂う。
「どけ。俺が見る」
重厚な靴音が床を鳴らし、筋骨隆々の巨躯が司令台へと割り込んできた。
辺境警備隊隊長、ギルバート・アルノー。三十五歳。
かつて王国騎士団の最前線で数々の魔獣を屠り、その顔面には歴戦の証である深い古傷が刻まれている武闘派の大男だ。熊のような体躯から放たれる威圧感は並の騎士を震え上がらせるが、そのギルバートが、亀裂の入った水晶球の底を凝視したまま、微動だにしなくなった。
「隊長……? これは、一体……」
セリアが恐る恐る歩み寄り、胸ポケットから取り出した胃薬の丸薬を噛み砕く。苦い薬効が舌の上に広がったが、胃の痙攣は収まらない。
「セリア。……お前、神話の『氷河の黙示録』を読んだことはあるか」
「え? ええ、幼少期に教養として。ですが、なぜ今そんな昔話を――」
「昔話ならよかったんだがな」
ギルバートは低く唸るような声を漏らし、腰の長剣の鞘を親指で押し上げた。カチリと鋼が鳴る。その節くれだった太い指先が、微かに、だが確実に震えていた。あの豪胆無比な隊長が、恐怖で震えている。その事実だけで、セリアの背筋に氷柱を叩き込まれたような悪寒が走った。
「極北の永久凍土、太古の氷壁に封じられていたはずの神代の厄災だ。触れるものすべてを絶対零度で凍結させ、かつて北方の古代王朝を一夜にして白い廃墟に変えた生ける天災……『霜狼神フェンリル』。この絶対的な冷気循環の波長、奴以外の何物でもありえん」
「なっ……!? し、神獣フェンリルですって!? そんな馬鹿な、ただの伝承上の怪物では……!」
「伝承が実体を持って南下してきたんだよ。方角は北北西、霊峰の尾根を越えて、我がフォレスト領の境界林へ侵入した。速度は――信じられんほど速い。すでに山裾の雑木林に到達している」
執務室が、水を打ったように静まり返った。
誰一人として言葉を発することができない。神獣。それは人間が軍隊を組織してどうにかできる相手ではない。火山の噴火や大地震と同じ、純粋な自然の破壊そのものだ。もしその天災が麓の宿場町や領都へ雪崩れ込めば、迎撃部隊など紙屑のように蹴散らされ、領民数万人が生きたまま凍結像となって永遠の冬に沈むことになる。
「全隊に通達! 第一種非常事態を発令!」
ギルバートの怒号が静寂を打ち破った。
「本隊は直ちに領都の防衛結界を展開、領主代行のローラン様へ至急報を送れ! そして――精鋭十名を直ちに選抜。俺とセリアが率いて、侵入地点へ直行する!」
「た、隊長!? 討伐に向かうのですか!? 相手は神獣ですよ、十人やそこらで何ができると――」
「討伐なんぞできるわけがないだろうが!」
ギルバートはセリアの言葉を怒鳴り散らすように遮り、自らの胸当てのベルトを力任せに締め上げた。
「足止めだ! 最悪でも、奴の進路を逸らす! 民が避難するまでの時間を一分でも稼ぐのが俺たちの仕事だ! ……総員、遺書を書け。三分で支度を整えろ!」
***
詰所を出撃した特務追跡班の空気は、もはや葬列そのものだった。
馬を駆り、舗装された街道を外れて山道へと突入する。十名の隊員はいずれも修羅場をくぐり抜けてきた熟練の騎士たちだったが、誰一人として口を開かない。聞こえるのは、荒い馬の鼻息と、泥を跳ね上げる蹄の音だけだった。
山裾へ近づくにつれ、周囲の景色は常軌を逸した変貌を遂げていた。
季節はまだ秋の初め。周囲の山々は紅葉すら始まっていないはずだった。
それなのに――。
「……ひどい」
手綱を握るセリアの口から、掠れた声が漏れた。
木々の葉が、緑色を保ったまま白銀の分厚い霜に覆われ、カチカチに凍りついている。道端の雑草は氷の針のように尖り、馬の足が掠めるたびに、シャリ、シャリンと硝子細工が砕け散るような澄んだ不気味な音を立てた。
風が吹くたびに、針のような冷気が防寒着の隙間から侵入し、肌を刺す。
吐く息は真っ白になり、手袋を握る指先は感覚を失いかけていた。
「冷気の痕跡が濃くなっているぞ。馬を捨てろ! ここからは徒歩で進む!」
ギルバートの鋭い指示が飛ぶ。
隊員たちは馬を木立に繋ぎ、抜剣した。刃には退魔の銀塗料が施されているが、こんな薄氷のような備えで神話の化け物の毛一本でも傷つけられるとは、誰も思っていなかった。
ただ、義務感と意地だけで足を前へ進めている。
凍結した林を抜けていくと、巨大な獣が通過した跡が明白に残されていた。
低木が根こそぎなぎ倒され、触れた枝という枝が瞬間凍結して白く破裂している。その痕跡は、まるで巨大な氷の楔を森に打ち込んだかのようだった。
セリアは荒い呼吸を整えながら、倒木を乗り越える。心臓が早鐘のように胸の内側を叩き、胃の底が焼き付くように痛い。自分は今日、ここで死ぬのだ。二十六年の短い人生。実家の母への手紙は机の引き出しに入れてきた。思い残すことは――いや、山ほどある。美味しいものをもっと食べたかったし、温かい布団で泥のように眠りたかった。
(神様、どうか……せめて一瞬で、苦痛なく殺してください……)
生真面目な副隊長は、心の中で不敬な祈りを捧げずにはいられなかった。
痕跡は、雑木林の緩やかな斜面を下り、開けた場所へと続いていた。
「待て。気配を消せ」
先頭を行くギルバートが片手を挙げ、身を低くした。
全員が息を呑み、巨大な苔むした岩の陰へと滑り込む。
ギルバートが震える手で革製のケースから軍用の遠眼鏡(望遠鏡)を取り出し、慎重に岩の縁からレンズを突き出した。
セリアもまた、自前の小型遠眼鏡を構え、震える指先でピントを合わせる。
木々の切れ目の向こうに見えた光景に、セリアは目を疑った。
「……え?」
そこにあったのは、壊滅した村でも、血に飢えた地獄絵図でもなかった。
どこにでもあるような、長閑で素朴な木造の平屋古民家だった。
敷地の境界には柊の生垣が巡らされ、南向きの広い縁側には、柔らかな秋の陽だまりが落ちている。庭の片隅には古井戸があり、竹竿には洗い立ての白い布が干されていた。
だが――その平和極まりない庭の中央に、世界の破滅が確かに存在していた。
「ひっ……!」
隣にいた若い隊員が、喉の奥で短い悲鳴を呑み込んだ。ギルバートが即座に隊員の口を手で塞ぎ、鬼のような形相で睨みつける。
遠眼鏡の円形視界の中。
そこに、いた。
純白の毛並み。朝陽を浴びて青白い燐光を放つその姿は、美しくも恐ろしい。
背丈は優に成人男性の腰を超え、全身の筋肉は鋼のように引き締まっている。太い四肢の先端には、鋼鉄の鎧すら豆腐のように切り裂くであろう漆黒の爪。頭部には気高く尖った耳と、触れる者を永久の凍土へと叩き落とす神話の威容。
間違いなかった。
文献に描かれた挿絵そのままの姿――極北の絶対零度を統べる神獣、『霜狼神フェンリル』。
フェンリルは、庭の柔らかな草の上に、四肢を踏ん張って立っていた。
その体の周囲の大気が、尋常ならざる冷気の歪みによって陽炎のように揺らめいている。今にも咆哮を上げ、大気を凍結させて領土ごと人間を消滅させるのではないか――。
ギルバートの額から、大粒の冷汗が顎へと伝い落ち、地面を濡らした。
「……総員、遺書は書いたな」
ギルバートが、蚊の鳴くような、だが極限まで張り詰めた掠れ声で囁いた。
「息をするな。魔力を爪の先ほども漏らすな。……あれが暴れ出せば、この領地は数分で雪原に沈むぞ」
セリアは唇を強く噛み締め、遠眼鏡を持つ手を固く握り直した。
視界の中のフェンリルは、じっと平屋の縁側を見つめている。
逃げ場はない。距離はおよそ百五十メートル。神獣の脚力をもってすれば、瞬き一つの間に肉薄され、氷漬けにされて終わりだ。
今、あの平屋の中に住む不運な住人が、最初の犠牲者として喰い殺されようとしているのだ。助けに入ることなど不可能。自分たちにできるのは、あの怪物が住人を貪り食っているわずかな隙に、決死の牽制攻撃を叩き込むことだけ――。
セリアが絶望に瞳を潤ませ、神への最後の祈りを捧げようとした、その時だった。
からり。
静まり返った山裾に、あまりにも場違いな、長閑な木の擦れ合う音が響き渡った。
平屋の縁側の引き戸が、何気ない手つきで引かれたのだ。
遠眼鏡の視界がブレる。
セリアは必死にレンズの位置を調整した。
引き戸の向こうから現れたのは、生成りの質素な麻ワンピースを着て、前掛けを締めた――どこからどう見ても、十代後半から二十代そこそこの、ごく普通の小柄な人間の娘だった。
(な……っ!? に、逃げて……! 早く逃げて……ッ!!)
セリアは声にならない悲鳴を心の中で叫んだ。
武器も持たず、防具も身につけず、魔力障壁の欠片すら纏っていない無防備な少女。
娘の手には、湯気を立てる素朴な小皿が二つ乗った、木製のお盆が握られていた。
そして次の瞬間――セリアとギルバート、そして息を殺して潜伏する十名の精鋭警備隊員たちは、自らの正気と世界の理を激しく疑うことになる、信じがたい光景の目撃者となるのだった。




